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【世迷言】あのゴルフ場の件

かねてより
オリンピックと言うのがそんなにもてはやされるものなのだろうか?
とか
スポーツマン精神にのっとって汚いことが都合よくフィルタされている気がする。
とか
反社会的な見解を持たなくもない私ですが。

この記事が書かれた日付あたりで
「とあるゴルフ場が女性を正会員に認めていない」というのを
問題視するニュースを
ちょぼちょぼ目にしています。



私は
「男として、女性が入ってきてほしくない領域はある」
と考えています。

私以外にそう考えている人がいるかいないかはわかりませんし
仮にいたとしても私と同じ理由だとは限りませんが

私がそう思う理由は「姫」の存在。


例えば
純粋に
「カラオケを楽しんでカラオケの話をしてカラオケで友人とつながりを深めたいな」
と思っているのに
そのカラオケオフが男9に女1とかの構成比になると
途端に女の子を中心に動くようになり
カラオケを通じてフラットな友人関係を楽しめそうだったオフ会が
一瞬にして姿を変える。

コミュ力つよいひととかイケメンなら
こういうことを気にする事は無いかもしれませんけどね、
私の様なコミュ障人間からすると

女の子を取り巻き持ち上げる輪に入るわけにもいかないし
(そうしたところで私には「可能性」はない)
場がそうなってしまってる以上もうカラオケも楽しめない

と散々な会に一転してしまう。

所謂姫ですよ。
別にオタサーじゃなくったって存在するんですよ。
会社でも、どこでにでもある。

私ももう若くないのですが
若い頃はとにかくそういう経験が多くて
見知らぬ不特定多数が参加するオフ会はいやになりました。



これは私の個人的な経験に依っていて
極めて個人的な意見で
誓って個人的な理由ですが
だから女人禁制を取っている場が存在する(残留している)のは
何らかの理由があるかもしれないと考えています。
(勿論そうではないかもしれないが)

そういう理由と可能性がある以上は
別の横やりによってその可能性を無視することは
横暴であると考えています。

「どんな理由があれ
男女平等を少しでも乱すものがあれば
是正されるべき」
というのを
しかも部外者が叫んで直させるというのは
横暴を除いて何物でもないと思いますけど
きっと普通の人はそれが正しいのだと思うのでしょう。
私はコミュ障極まっていて反社会思想の持ち主なので
きっと異常思考なのでしょう。


IOCから会場使用を持ち掛けられて
承諾から二年経ってから突然そんなことを言われて。

しかもそうしたことがニュースになってみると
「時期的な性急さ」よりも「男女平等」問題を前面に出されてしまっている。
気が付いたら突然「男女平等の観点」とかいう絶対正義の剃刀が
喉元に突き付けられている。

オリンピックとか言う名前のグローバリズムのマハラジャ(いたすと)が
「オレが買い物に行くんだから、オレが買い物するにふさわしい店になれ。
 オレの好きな店にならないなら、今日からお前は悪徳業者だ。」
と言っている。なんだそれって感じ。


騙し打ちみたいに相手を土俵に上げて
不意打ちで相手を殺す
しかもそれは「正義の名のもとに」なので誰も非難しないだろう。


かのゴルフ場が女性を正会員にするかどうかについて
どういった見解を出すか(どうしたいか)は知りませんが

個人的にはこういうやり口で
「ただしいこと」が他罰的に多様性や寛容さを駆逐していくことと
それを喜ばしいことと手を挙げて祝福している風潮が
私は怖いです。


もうこんな世界ロボットが支配すればいいよ。
きっと誰も正義を踏み外さないし、
私のような人間は生まれないから。

長時間労働と生産性、同一労働同一賃金の幻想

日本人の一人単位時間当たりの生産性は先進国でもかなり低いという結果は
別に昨今明らかになった事実ではない。昔から言われている。

「長時間労働があるから単位時間当たりの生産密度がおちている」
と言われているが、私にはどうもそればかりとは思えない。
勿論そういう側面もあるのだろうけれど。


今は崩れつつあるが
「万人中流」「年功序列」「生涯雇用」
の日本の旧来の体制がを考慮に入れなければならない。

対して、日本型の雇用形態とは逆の欧米では
トリクルダウンさえ生まない貧富の差という問題がある。


長時間労働≒悪
という視点が生まれたところでにわかに声が上がっているのは
「仕事量は変わらないのに時間だけ短縮を求められる」
ということだ。

今後、ここにスポットライトが当たっていくと思う。

今迄は
「一つの仕事に対して能力が多少追いつかなくとも時間でカバーしていた」
という観点はあるはずだ。

長時間労働という悪のイメージに一時的に蓋をしてみてみると
ある仕事をうまくこなす人間パラメータAがあったとして
Aが足らないから時間を費やす
(つまり対疲労能力や対ストレス能力といったパラメータでパラメータAを補う)
というのは、
多様性のひとつの選択肢だったという見方は出来る。

残業によるカバーを安易に封じられ
一定時間に一定の仕事をこなさなければ「失格」。
使用パラメータの限定と言う形の選択肢の減少は
もろ手を挙げて賛成すべきなのだろうか。
私には一縷の不安がある。

これは価値観の単一化に拍車をかける気がしている。
仕事「甲」をこなすのに、パラメータAが高い人間以外は不要。
時間でカバーする逃げは許さない。
経済活動主体である企業は効率を重視せざるを得ないのだから
そうした人間の選別を促進するだろう。
その「足を切るための鎌」を、今回見事に作り出した。

自分に大した能力があると自信のある人は
こうした「長時間労働に対する"無差別な"非難」と言うのを喜ぶだろう。
みんな長時間労働に対して悪のイメージを掲げて
その撤廃を祝福しているのだ、
きっとみんな高い能力があるのだろう。私は無い。

私の様な能力が足りていないと自覚しつつ
それでも企業人としてそれなりの立場を確保していないと
生活そのものが成り立たないという人間には
本来多少なりともこの風潮には恐怖感を抱くところだと思う。

「やべ、この作業苦手だ……時間かかるけどまあ時間かけてでも終わらせるか」
という選択肢は、もうなくなる。
必要時間が多すぎる場合は他の人の進捗に影響が出るからとか
自分の体がもたないからとか
そういう理由でスケジュール調整の相談はあるだろう。

でももはや
そうした裁量は許されず
「時間内にはできません。申し訳ありません」
しか答えが残されないとしたら、どうだろう。私は恐ろしい。

勿論過労死するほどの長時間労働を回避できないというのは問題だが、
今の長時間労働を万事悪役に仕立てる風潮を素直に受け入れたとき
自分はきっと会社内で「仕事できないクズ」みたいなレッテルがついて
それで終わるだけだろうな、と思っている。


時間内に仕事をこなせる能力を持った人間だけが生き残り
そうではない人間は落伍者となる。

万民中流とは対極にあり
能力/成果第一主義により
労働内容による搾取と富強の格差が進んでいる欧米
失業率が決して低くは無く、
移民ひとつで職の有無の危機に瀕する状況を見れば
少し未来の自分をそこに見出すのは自然なことではないのだろうか。

皆能力があって自身があるから
そういう恐怖感とは無縁なのだろうか。



もう一つ。
「同一労働同一賃金」が話題に上がっている。
この話の全身には
「フリーライダー」という
今は死語になった言葉がある。

仕事できない中高年社員が低賃金の若者を搾取している
という状況を「タダ乗り」と称した言葉だが
これを是正するためにも
同一労働同一賃金が求められているというかんじ。


でも、
私は年を取ってから今と同じように働ける気がしない。
皆、本当に自分が年を取ったときに
若い頃と同じかそれ以上に働けると思っているのだろうか。

「年長への敬意」の歪んだ形としてのみ
生涯雇用と年功序列があった訳ではないと思う。
一定部分社会保障として機能していたはずだ。


歳をとって、
まあ順当な人間生活を送っている人なら
30、40、50で自分の子供を育てることになるだろうけれど
人間は歳をとるにつれて労働の質が確実に落ちる。
それと比例するように賃金がおちていくなら
本当に子どもを育てていけるのだろうか。

若い頃にガッツリ稼いで老後分すべて蓄えたり
もう二度と転がり落ちないような地位についてしまったりと、
前述の
「パラメータを縛られた上で仕事をこなし続けられる
一部の選ばれた能力のある人間」だけが、
こうした
「年をとっても安定した生活をできる」
という形になるのではないのか。

少なくとも私はIT屋で働いているが
20年後に、20年後らしい、
生産性が高く20年後の年齢に必要な金額を得るに見合った
そんな仕事ができるようになっているとは、思えない。
それは能力の面もあるし、
所属している企業のビジネスモデル問題もある。

ただでさえ
「長くいればそれなりに賃金が上がる」という空気の会社ではないのだ
恐らく私は20年後安アパートで
きゅうきゅうとした生活を送っているだろう。
それまでに親を養育するための費用もねん出し続けなければならない。
だから老後破産もあるかもしれない。
勿論家庭を持つこともできない。

いいたかないが、
親を養うのが終わったあと(つまり亡くなった後)で、
そのころにやっと自分のためにお金を使えるようになる
みたいな状況の人間もいる。

その未来に向かって
同一労働同一賃金は、夢の体制ではなく死の宣告でしかない。







長時間労働を悪とみる風潮の涵養は、
生産性向上をもたらす福音ではない。
ただ、生産性のいい人間だけを生き残らせる外科手術だ。

同一労働同一賃金は、
低賃金労働を払拭する夜明けではない。
ただ、生産性の低い老人を餓死させる安楽死の方法だ。


能力があるみんなにとってはそうではないのかもしれないが、
少なくとも私にとってはそうだ。


このパラダイムシフトは景気のいい時に来てほしかった。

避難家族の子供へのいじめ

いじめってものの本質をすっ飛ばしてる。

いじめる方はね、
いじめるべき対象を見つけると
いじめるべきポイントを後から見つけてそこを責めるの。

いじめられる方は
そのポイントの有無だけが原因でいじめられているとは限らない。

「避難で来たことでいじめられている」
のではなく
「いじめられる子供は避難で来ていた家族だった」
ってケースの方が多いだろう。


勿論環境の変化で適応できなかったケースなどもあろうけど
それを原発事故や地震が招いた悲劇と言う片づけ方にするのは

「単に理由や口実が欲しいだけだろ、大人がさ」

としか思えない。



いじめと言う現象を大人の理性が理解できないものだから
こじつけられそうな理由を見つけてそこに委ねたがっている。
おとなにとって都合がいい。
それだけだ。

子供は理不尽に追い込まれると
子供の持つ狭い世界の中から何とか理由を見つけて対応しようとするが
いじめを悪化させたりそこから精神状態を望ましくない方へ進行させてしまうのは
そうした狭い視野から抜け出せないからだ。

ところがどうか、
この件を見て明らかだ、
おとなまでも都合のいい理由を見つけて
狭い見解の中で決着しようとしている。


この分じゃ、いじめはこれからも無くならんだろう。

なんだかな。

前提として
私は障害者に死んでほしいとか邪魔だとか思ってはいません。



例えば数十年前は、障害者は確かに「親切心」を求めていたと思う。
それは雇用面で不利があり、インフラが整っておらず、あるいは前世の業として
いわれのない非難を浴びたからであろう。
「障害は社会側に」という言葉の通りだ。

今はそうした親切心を求めていないのだそうだ。
普通に扱ってくれという。
前述の社会側の障害が低くなってくると
「あまり優しくしてくれるな」と言う。

言うことはよくわかるしその点について全面的に否定するつもりはないのだけど
それはそれで気持ちの悪さがある。



「普通に扱ってほしいのか」「親切に扱ってほしいのか」は
未だに当事者ごとにばらつきがある。
当然だ、ひとりひとり考え方は違うのだから。
障害の形質だって一人一人違うのだし。

だが「自分がそうして欲しいようにしてほしい」という、
「同じ言葉で七色」の要望を七色全てひっくるめて
「障害者という個性」を無視した立場から
(七色をまとめて扱うのは個性を考慮に入れないということだ)
主張して居る在り方が
なんとなく「ダブルスタンダードを道徳観で押し通そうとしている」感じに見えて
腑に落ちないところがある。

「自分が思うように自分を扱ってほしい」のは、
障害者でなくても健常者も全員同じだ。

だがぶっちゃけて、ほとんどの人間はその要望をかなえられていない。

健常者については「なにわがままいってんの?ガキか」と一蹴されるだろう。
あるいは年を取ると、そういうのを諦める。
それを障碍者に限っては叶えて欲しいというのは、
障害者を健常者と同じに扱ってほしいという言とは二律背反にある。

階段しかない二階に降り立った車いすの人を目の前にして
「いや、障害者を区別するのは逆に差別だから」
とはならないでしょう。
でももしかしたら車椅子でも階段を下りれるそういうスポーツの選手かも知れない
そんなスポーツがあるのかないのかも私は知らないけれど
その臨機応変を、受け手側に強いてきているのだ。
無理な話である。


後これは私個人の事なんですが
私は実際義手義足なんかには近未来を感じてて
「うおおー、義手だ義足だ見てみたい触ってみたい、カッコイイ!」
とかかなり正方向の印象を持って見てしまうのですが
それはそれでいけないのでしょう。
つまり見る側の意識も関係が無く、
あくまでも見られる側(見られたくない側)の満足に立脚している。

でも別に入れ歯は見たくないかな…。
加速装置がついてる奥歯の入れ歯なら見たい。



私はこれを悪いというつもりはない。
ただ、多分気にしないだろうなと思う。

「気にしない」と言う言葉は
また注釈を加えなければ誤解を招くので後述する。



ちょいちょい挟んでいきますが
私は障害者に死んでほしいとか邪魔だとか思ってはいません。

ただ、差別は尊厳によって打ち消せるが
尊厳は感動ポルノを呼び、感動ポルノは差別と等しく
アンチ感動ポルノはそれはそれで差別意識のあらわれなので
(アンチ感動ポルノ=差別、については異論あろうと思いますが、
 「行き過ぎた正義感はファシズムと区別がつかない」
 というのと似ていると説明しておきます)
こうした社会的揺動を、どうするものだろうなと思っているだけです。



さて、「気にしない」と言うのは注釈を要すると思います。
つまり、一部の障害者の言う「特別扱いしないで欲しい」という事と照らしたうえで、
その形質に対して、「偏見を持たない」

という意味ではない

例えば片腕が無い人がいたとして
じろじろ見ないで欲しいとか
荷物を運ぶのに「片腕なのに大変だね」って言って欲しくないとか
そういう観点での「気にしない」が昨今叫ばれていますが
私はこの「気にしない」を実行しないと思います。

多分、気にせずじろじろ見るし、気にせず大変そうだなと思うと思います。

こうかくと、
最近の流れだと酷く道徳に欠いた思想に思われるのかもしれませんが。


その人がどう思われたいのかは人それぞれ
  (なので、この人が親切にしてほしいか否かはわからない)。
健常者だが腕が骨折して使えない人に対して、親切心を持つのは依然として善意と捉えられている
  (し、これからも変わらないだろう)。

となるとどうするべきか。

私なりの「気にしない」という結論は
相手を
障害者か健常者かに関らず
「そういう形質を得ている人間でしかない」として
自分の振る舞いを気にしないことです。

また、仮に障害がある人と、すれ違うのではなく親交を持つにあたり
それで相手の要望を理解することが出来かつ親交を保つなら
ある程度望まれたとおりにするでしょう。
親切にしてほしいと願っていると感じ私もそれを満たそうと思うなら
相手が障害者だろうが健常者だろうがかいがいしく世話をするでしょう。
逆に自立を望み手出ししてほしくないと思っているのを理解し私もそれを了承したなら
相手が障害者だろうが健常者だろうがほっとくでしょう。
そういう「気にしない」です。自分の感覚に従います。


真冬に半袖半ズボンで歩いてる元気な人がいたら
すげえって見ちゃうでしょう。
化粧が濃すぎてちょっと見てらんないって女性からは
目を逸らしちゃうでしょう。


私なんか男ですから綺麗な女性は兎も角、
パッと見てどっちかわかんないような人がいたら
「うお、この人男か女かマジわからんすっげえ」ってめっちゃ見ちゃいます。
完全に憧憬だけど。
でもこのとき相手が、そう主張したいファッションなのか、性同一性障害に苦しんでるのか
わかるはずもない。

でも、
「必要以上にやさしくしないで」に対して
「親切心を見せるのは差別と同じ(だし依然として差別的行動も悪とされる)」
という根底での対応をするのは
それを読み取って対応しろと言う事。
エスパーか。
しかもエスパー能力使ってまで「障害者を区別(≒差別)して対応しろ」
と背反を言う。

障害者じゃなくったって外見が変なら見られるかもしれないし
障害者じゃなくったって大変そうなら手伝おうという心理が生まれることもある。
障害者の中にもどうされたいかはバラバラで、
だからそうしたところまで相手の都合に合わせて酌む必要はないと思っています。

だって、健常者の私だってそういう点では折々にないがしろに扱われるのです。
望まぬように扱われて、いわれのないことで傷つきだってするのです。
それは障害者に向けて形成された特別の状態ではないという証拠です。
それは障害として社会に存在するものではないという事です。


昨今の障害者に対する偏見撤廃運動の動きは
どうにも善意のファシズムを感じる。
世界に正義など存在しない。
正義に基づいた善意など主観でしかなく
そこに妥当性を求めうるのは「数だけ」というグロテスクさをはらんでいる。


またいいますが、
私は障害者に死んでほしいとか邪魔だとか思ってはいません。

でも、こんな実のない世論形成に流されるくらいなら
私は自分の考えにだけ基づいて行動する。
(自分の範囲においてのみ、他人に求めはしない。愚痴は言うが。)

だから私は「気にしない」ようにしたいと思う。



最後に、これはさすがに非難されるだろうと思った上で書きます。
親切心を起因とする行動を受けてそれを差別的と感じるのなら、
多分障害は体でも社会でもなく、その胸の中にあるのだと思う。

事件のあれ

私たちは考えなければならない――

あんなことが起こって、みなそう言っています。
他の言葉はともかくこの「考えなければならない」という一言にだけ、違和感を感じる。
その違和感を掘り下げると私も危険人物なんだろうなと自覚するわけです。

あくまでも私個人の感覚と感想なので
他の人は違うかもしれません。
いやきっと全的に違うのでしょう。
私が異常者の仲間側なんだと思います。

この文脈で「考えなければならない」という言葉が出たときに
私がまず感じた印象は
子供を叱るときの
「どうして叱られたのか(お仕置きされたのか)考えなさい」
という文脈に感じるものと非常に似ていた。

それは、
「考える」というところに本質が置かれていないという気持ち悪さだ。

考えろと言っていながら、実は最終的な結論は規定されている。
「~~~だから私は悪い子で、叱られたのだ」
に繋がる形でしかその「思考」は認められていない。

これと同じことがある。
考えなければ、見直さなければ。
今回の事件に対してこれらの言葉を用いるのは、
同じ「前提」を置いている。

本当は、考えてはいけない。

見直すのではなく、規定に従うだけ。
そこに理性があるように錯覚させる作為が気持ち悪い。
そこに進化した知能の持ち得る前進的な善意があると思わせる
ある意味でのファッショが気持ち悪い。


私は犯人を擁護するつもりなんて一つもありませんが、

彼は考えたんだと思います、

その深さや方向性はともかくとして。



でもこの先、
この悲劇の観衆となっている私たちは何を考えますか。

おそらく何も考えなんかない、
ただ犯人の異常性を取り沙汰し、
社会のせいにしたり、
最近の若者のせいにしたり
ストレスのせいにしたり
もともと危険思想の持ち主だったといってみたり
場当たり的な対応策を打ち出したり
考えることなんてその程度のこと。

もしこのエントリを何かの不幸な事故で読んでしまった人がいて
5年後にこのエントリのことを覚えているか。
きっと覚えていない。
それはこの事件のことも大して考えていないからだ。
このエントリを読んでいなかったとしても
事件については多分みんなそうです、安心してください。


彼がどうして犯行に至ったのか
その過程にあるもろもろの要因を詳らかにし
それ一つ一つについて考えることは、しない。

彼の中では整合性を持った一つの考えについて
「まちがっている」の前提を持った上でしか考えない。

それは
マスコミの性質でもあるし
私たち「観衆」の性質でもあるし
道徳というものの持つ側面でもある。

彼を異常者(あるいは二次的な被害者と認めたとしても)と非難し
事件を人道的な悲劇とし
妄信的に再発を防止するそれには
「考えてはいけない」。


以下は私も目をつむるべきだし
議論の時に持ち出すかどうかは非常にナーバスだと思いますが
・この不景気の時代に、生産性のない人に多くの税金が支払われていること
・格差社会の低賃金労働者のはけ口になりかねない
・施設の職員にかかる(かもしれない)賃金ではカバーできない精神的ダメージについて
・人間という生物の継続可能性に寄与するか否か
など
道徳に目を閉ざせば(むりに出すなら)「考えるべき」問題は枚挙に暇がない。


ただ犯人を盲目的に非難するなら
これを「考えない」選択しか、おそらくないだろうし

こういう時に特によく叫ばれている
「考えなければならない」
という言葉には
そういうところを考えろという意味は含まれていない。
むしろ

宗教かもしれないし道徳かもしれないし科学かもしれないし正義かもしれない
そうした何らかの価値観やイデオロギに従い、
「考えるな、やめろ」
「考えるな、愛せ」
「考えるな、罰せよ」
「考えるな、行動せよ」
だけが効果を持つ。


今回の事件ばかりではない
所謂「異常犯罪」について、
観衆というのは
いつも「絶対に考えない」できた。

犯人に対して、
異常だから理解できるはずがないという前提をしき
その上で、犯人を非難するための論をただひたすら並べるだけ。


犯人が持っていたかもしれない筋の通った一つの「考えた結果」については
考えない。



だから今回も、同じように、気持ち悪さを感じている。

私も異常者だろう。
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