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つくし、ちさに。

 ちさの店に来たのは久しぶりだ。同じシマにいるのに、前に来たのは何年も前だった気がする。
「相変わらずこの店にコーヒーは無いのか。」
 何か飲む?と問い掛けてきたちさにそう返し、れたすブレンドを、と繋げた。
「喫茶店なのにコーヒーが無いなんて、販売機会損失もいいとこだぞ」
「それをつくしが言うと、嫌味でしかないわよ?」
 湯を沸かし、茶葉の入った缶を幾つか用意しながら、ちさは笑った。
「またそれか。何度も言う様だが、単に好みの問題だろう。自分の好みのものを自分の手で作れる人間は、頭のネジが多いか少ない奴等だけだろう。そいつが他人にも受けがよければ天才なんて呼んでもいい。あたしには、自分の淹れるコーヒーが旨いとは思えないね。」
 喫茶れたすがーでんは、メニューにコーヒーが無い。隠しメニューというわけでも無く、頼んでも丁重に断られる。
 ちさ曰く、身の回りに自分より上手な奴がいて、そいつが商売にしていなかったら、自分にはそれで金を取る資格は無い、だとか。そしてその「身の回りにいる人」があたしなのだとも言う。
「ものを作る天才って、その才能が身近なものへ向かえば向かう程、本人はその稀有さに気付かないんじゃないかしら。」
「あたしにコーヒー屋でもやれってのか。」
「そんな事は言わないわよ。私の考え方一つだから。ただ私がコーヒーを売り物にしないってだけで、解決、よ。」
 にこにこと笑ってはいるが、あたしには酷く頽廃的な考えに聞こえる。これだから、創作系の才能が有る人間は分からない。
「あたしはもう、二度と自分ではコーヒーを淹れないと決めたんだ。ちさの言う『世界一』はすでに引退、代わりに『世界一』が優秀だと言う奴は現役だ。ならば『世界一』の座を取って代わるのが妥当な流れってもんだろう。」
「理性的な話じゃないのよ。単に気持ちの問題なのに、それを割り切れない。だから、決着を付けないだけ。」
「解せないな……」
「簡単に答えがわかるなら、メニューにコーヒーが書いてあることでしょうね」
「……」
 自分に関わる問題だと言うのに、妙に他人事の様に話す。
「お待たせしました、れたすがーでんオリジナルブレンドのフレーバリーティーです。」
 小さな洋菓子の皿が添えられた、上品なティーセットが現れた。自ら話を断つ様な言葉を添えて。
 静かに湯気が揺れると、芳しい香りが漂う。甘いようでくどくなく、嗅いだだけで気持ちが安らぐ。甘さを抑えた菓子と相俟って、このフレーバリーティーを頼むだけで、贅沢な時間を満喫できる。例によって数年振りだが、色褪せないくつろぎだ。
「……あたしには、こっちの方が凄いと思うがな。」
 全く偽り無い率直な意見だった。紅茶のブレンドは、混ぜる材料が一つでありながら、出来上がるのは香りと味の二つだ。味が香りに、もしくは香りが味に左右される部分があったとしても、一致はしない。二者の差異を操作し、絶妙なポイントを探り当て、最良の作品を作り出す。その中でレシピが確立され、出来と値段が妥当に楽しめるものを商品にしたのがレれたすがーでんオリジナルブレンドティー、通称れたすブレンドだ。
 客の評判は上々で、このシマの住人は勿論、他からも客が来るくらいだ。ちさが不定期に調合を変えるものだから、それ目当てのリピーターもいるとか。商売上手に見えるが、曰く、違う葉っぱを同じ量使う訳じゃないもの。無くなったから違うのに変えただけ。なんて言う。天然なのか、狙っているのか。
 ちなみに、そのちさが持ち上げてやまないあたしのコーヒーの方だが、豆だけは自分の好み……というか、この淹れ方で一番旨く飲めたものと言うだけだが……にこだわるものの、淹れ方が酷い。理科室にある実験用のアルコールランプかガスバーナーに、やはり実験用のビーカーをすげて湯を沸かし、漏斗と濾紙で淹れるキワモノ。
 高校時代に科学部で理科室に入り浸りだった頃に始めた淹れ方だ。茶葉にすればお茶も淹れられるが、どちらにせよお世辞にも美味しい淹れ方だとは思えない。
 大学では理科室をでかくした様な研究室に泊まり込み、紆余曲折の末教職に就いたあたしは、ずっとそれを続けられる環境にはあったが、大学の二年目で自前のコーヒーを淹れるのをやめた。
 理由は、まあ、色々だ。
 あれを旨いというちさがおかしいのだと思うが、私を抜いてちさ以外の口に入ったことはなかった。あまりにおかしな淹れ方なものだから、人のいない所でしかやらなかったのだ。言ってしまえば、そういったテリトリーにも入って来れたのは、ちさだけだ。すおうも距離としては同様だったが、ビーカーとアルコールランプが常備された場所で会うことがなかっただけだ。
「つくし。」
 フレーバリーティーに口をつけ、洋菓子が少々減った辺りを見計らって、ちさが口を開いた。
「あ?」
「珍しいね、ここに来るの。」
 カウンターの向こうで手早く自分用の茶を淹れ、外に出て来た。今更、と思う科白は、彼女なりの合図だ。
 どうせだからこっちにしない?なんて言って、窓際のテーブル席で手招きする。花見の場所取りをするときの様なはしゃいだ表情は、それが自分の店であるために不自然ではあるが、ちさの立ち居振る舞いやナリを見ているとそれも余り気にならない。こういう屈託の無さが、ちさの魅力なんだろうなと、つくづく思う。あたしには微塵も無い可愛げだなと一人ごちながら、ティーセットを持ってちさのいる窓際へ向かった。
 窓に大きく切り取られた風景からは、斜陽の木漏れ日が差し込んでいた。申し合わせたかの様に客はなく、店内は静かで、ガラスの向こうで光が揺れる度に葉擦れの音が響いている様にさえ思える。
「で?」
 何も言っていないのに、話を促す様にこちらを見るちさ。
「何か、話があるんでしょう?」
「……ああ。」
 流石に悟られている様だ。
 ちさとの付き合いは長い。互いにこの双子のシマ、「アリス」と「ロメリア」が完成したタイミングで花園市へ誘致され、中等部へ入学移住したくちだった。かれこれ十年を超える付き合いの下にあっては、わざわざあたしが来た事自体、何かあるのだとは、想像に易かったのだろう。
「お前、日向のこと、どう思ってるんだ?」
 くすり、と小さく笑ってから、ちさは問うて来た。
「……いきなりストレートねぇ。宣戦布告ってわけ?」
「……まあ、そんなところか。すおうの時は惨敗だったが、次はそうは行かないぜ。」
 流石に、いい歳こいて少女マンガに登場する女子中学生の様な科白には歯が浮いたが、事実だから仕方がない。
「惨敗……って程、余裕は無かったって言ってるじゃない。すおうさんだって、毎日呟いていたわよ。つくしはどうしてるだろう、今何してるだろう、って。我ながら恥ずかしいけれど、当時はその言葉を耳にする度に、嫉妬に狂いそうだったわ。」
「あいつ、あたしといても、ちさは、ちさはって言ってたな。」
 苦笑いするあたしにつられて、ちさは笑った。
 両肘を付いて組んだ手の甲に顎を乗せ、窓の外を行き交う人や揺れる木々に視線を流すちさ。その仕草は、それだけで絵画か芸術写真かと思えるくらいに洗練され、輝いて見えた。
 女の私が言うのも何だが、中等部でちさに逢い、こいつはモテると、掛け値なしに思えたものだ。こいつと居ると自分は必ず損をする、と思ったことさえもある。ちさのこう言った一瞬の動作の清廉さには、それ位の魅力があった。それは、中学高校では大人びた艷媚さであり、大学に入学して今に至る迄は若く瑞々しい美麗さに姿を変えて居た。すおうが結局ちさを選んだのも、全く無理のない話だった。
「案外、無理じゃなかったのかもしれない、なんて。今更思っちゃうのよね。」
「無理?何がだ?」
「三人でいるって事。」
 ちさはこちらに視線を寄越さず、窓の外にそれを投げている。少しの哀愁と少しの自嘲を編み込んだ様な微かな笑みを浮かべたまま。
「それが理想だったって言うのか?……あたしへの」
「同情なんかじゃないわ。」
 ぴしゃりと言葉が遮られる。ちさにしては珍しい程に強い語気。
「……苦しかったのは、私だけだったのかな」
「……煮え切らないすおうが悪い。」
「死人に口無し、ね。」
 お前だけじゃなかったさ、少なくとも。
 無為にティーカップをスプーンでかき混ぜながら、胸中呟いた。
「皆苦しむのなら、何を以て勝ち負けとすればよかったのかしら。少なくとも、入籍した
かしてないか、それ位だわ。」
「女にとっては重要だろう。」
「あは。つくしには似合わない科白。」
「あたしの事を言ってるんじゃない。お前の事を言ってるんだ。」
「そうね。でも。」
 ちさは両手を胸に当てる。
「それよりここよね。」
「お前が言うと、何でも似合うし、正しいとさえ思えるから、不公平だな。」
 ティーカップから抜き取ったスプーンの先で、ちさを指す。ちさは、つくしの鋭い言葉も、いつだって私を不安にしたものよ、と返して続ける。
「籍は形式。だから、私はつくしに勝ってなんかいないの。」
「……」
 確かに、割り切らず有耶無耶のままに引き摺り続けた、花蜜の様な関係と揺籃の如き時間に、いよいよ終止符(けじめ)を付けるため、あたしとちさは、すおうに選択を迫った。それは想いの彼岸と言った美談などではなく、単なる通過儀礼であり、手段と目的が、見事逆転していたのだった。
 すおうはどうだか分からないが、少なくともあたしとちさは、結果として苦い思いをし、そして、しかし今はもう、三人でやり直す事も叶わない。
「……」
 ちさと滅多に会わないのは、二人で会うと必ずこの話……すおうを巡る昔話に終着してしまうからだ。互いに傷である筈で、互いに避けている筈なのに、引き寄せられる様に必ず、だ。空気は澱を成し、毒となる。張りかけたかさぶたを生温く剥き去り、癒えぬ傷を深めてしまう。今もそうだった。
「あの時間は何だったん……」
 あたしの言葉を割って、ちさがわざとらしい明るさで声を上げた。
「すおうさんにしてもらいながら、私に弄られるつくしの喘ぎ声、可愛かったよね。」
「……」
 ちさが重苦しい空気を払うためにわざとそんな科白を吐いたのは明らかだが、だからってそんな話。
「仮にすおうと三人の時間を肯定出来るとしてだ。ひなたを、ああ、いや、日向だ。含めた三人でやっていこうと、お前は思っているのか?」
 今でも鮮明に思い出せる、甘く爛れた時。気恥ずかしさに思わずしどろもどろになる。
「……残念な話だけど、私もつくしも、その両方でも、ひなたクンの側に居ることは出来
ないと思うわ。」
 意図が分からないと言う沈黙と視線で、説明を促す。
「うちの子が、持って行きそう。」
「……みつばちゃんか。」
 ちさの姪で歳が近い子だ。みつばの両親の離婚に際してちさが引き取ったらしい。普通は親権は父母のどちらかに行くものだが、頑として本人が二択を拒んだ結果らしい。父母とも子育てをする気が無いとの鑑定結果と、ちさの主張が手伝ってのことらしいが、あの優柔不断で弱気なみつばちゃんが、強硬な姿勢を崩さなかったらしいという事には驚きは隠せない。
 それ以上に深い事は知らない。みつばちゃんのかつての劣悪な生活環境と今のあの性格を比較するに、ちさはみつばの養育に相当な成功を修めた事が窺える。幼少期の負の遺産を消し去った上、あの天真爛漫さと無垢さは、絶対にちさ譲りだ。
「やっぱり、歳の差は覆せないわ。みつばを見てると、勝てない、って痛感しちゃう」
「……あの子には、亡霊は、いないしな。」
 あたしの言葉に、ちさは苦い顔を見せる。
「……そう。私達には最初から資格なんて無いのよ。」
「それでも、あたしは、あたし達は、悲しい程に女なんだよ。お前は喪失を癒せず、あたしは失恋を癒せていない。」
「それは、否定しないわ。私はひなたクンに惹かれてる。でも、みつばを裏切る事は出来ない」
「親としての情けか」
「せめて姉と言って欲しいわね。少なくとも歳の差は親子のそれとしては不自然に小さいわ。」
「姉だか母だかはあたしには関係ない。ついでに言うなら裏切りだと言う呵責も無い。」
 ちさは未だにすおうを引き摺っているのか?
 勝負……そう呼ぶと当の日向には悪いかもしれないが……を受ける事無く投げ出した態度に、あたしは苛立ちを感じる。その渦は表情に現れてしまい、あたしはちさを睨み付けていた。
「ひなたクンがすおうさんの分け身なら」
 窓の外に視線を向けていたちさが、それをこちらに向ける。
「みつばは私の分け身よ。あの子が幸せになるのなら、それは私の幸せ。」
「すっかり母の仮面だな。」
「……仮面って何よ。」
「本心じゃないってことだ。」
「つくしには、関係の無いことだわ」
 関係無い。
「ああ、そうかよ。」
「……つくし?」
 茶は半分、菓子も半分、それに話も半分残して、あたしは席を立った。冷静では無かったのだと、席を立った瞬間に後悔したが、それも仕方の無いことだとも思えた。
「関係の無い人間に、なっちまってたんだな」
「違うの、そういう意味じゃない!」
 言えない、言わない事などなかった関係。疎遠になった分だけ、距離が生まれることは分かっていた。それでも、関係ないと一蹴されたのは、あたしにはショックで、昂ってしまったのだ。
「つくし!」
 背後から声が響くが、あたしは代金だけ置いて店を後にした。



 結局、何をしに行ったのか分からない。いつも通り哀愁にひたり、昔を懐かしんで別れ
ただけだ。
「相手は、ちさか、みつばちゃんか……」
 そんなことに意味はないと分かっていながら、その言葉を口で転がす。
 テーブルを蹴ってしまったものの、得るものはあった。
 ライバルがちさ本人だろうと、ちさの分身だろうと、関係ない。
 あたしは、本気で、あたしの恋をする。
 それだけだ。
 恋が出来るのは、きっとこれで最後だ。これ以上歳を重ねると、将来とか、社会とか、現実とかを見据えなければならない。それを心のあり方として否定はしないが、それはきっと恋ではない。愛とか、愛着とか、そういうものだ。
 ひたすらに相手を求めて燃え上がり、燃え尽きる事さえ厭わないのが、恋だと思う。
(最後の、恋……。)
「ふっ。歳にも、キャラにも似合わないよな。」
 自分を茶化しはするが、気持ちに嘘は無い。素直に、精一杯やろうと、思う。
 いつの間にか陰り始めた陽を受けて、あたしは秋桜天文台(コスモス)への帰途についた。

ひなたとなずな

「本国からの視察が、また来てるんだ。」
 グライダーの羽を畳みながら、なずなは言った。
「いくら視察に来たところで、やる気もないなら何も変わらないっての。」
 憎まれ口のような口調の中にも、まんざらでもない声色が見える。
「本国の穢土から見れば、シマは浄土も同じだからな。エキザカムも、今となっては惜しいものを手放したと悔いてるだろうよ。」
「ちがいない」
 手際良くグライダーを片づけて、車へ放り込んだ。
「乗れよ。送ってく。」
「さんきゅ」
 機嫌がいいときは、そりゃあいいもんだ。普段なら自分だけ乗って「じゃあな」だろう。
「なつめなんか浮かれてるんだぜ。ハネの運用や管理計画は、もっぱらあの子がやってるから。誇らしいんだろう。」
 そういう口とは別に、ハンドルをひねるなずなの手は、機械の手入れはあたしが受け持ってるんだ、と主張していた。
「浮かれてンのは、お前もだろ?誇らしいのも。」
「……ちがいない」
 頭を掻きながら苦笑いしている。
「インフラから除外されたときはどうなるかと思ったけど、親父は正しかったわけだ。親父が人生をかけて守ったものが、本国どころか今や世界中の注目を集めてる。」
 滅多に何かを鼻にかけたりしないなずなが、珍しい。
「造ったのと、決めたのとは親父さんかも知れないが、守ったのと、続けたのとはお前となつめさんだろう。あの口下手な親父さんの交渉より、美人姉妹管理者のコマーシャルの方がよほど効果はあったと思うけどな。お前は黙って座ってただけだったが。」
「それはお前が『なずなはしゃべるな』っつったから……!」
 そうだっけか?
 記憶にはないが、まあ、昔の僕は正しいことを言ったらしい。
「なんにせよ」
 さっき買ったばかりなのにもう温くなりはじめているコーラを口に含んで、なずなに言う。こいつはいつも、言葉にして誰かにそうだと言って貰わない限り実感しない奴だから。
「あのハネはお前の功績でもあるんだ。もっと喜んでもいいだろう。」
「……ありがと」
 それからは、互いにぽつりぽつりと言葉を口にするだけだった。

琴祢=アスターと蓮:浜辺に溶ける時間

 私……否、人祢代名詞を使うのは相応しくないかもしれない。だが、こうして人格的思考能力をもっている以上は、私、と言う他はないだろう。人型思考戦車「CoTNe(コトネ)」シリーズの最後の残存機。それが「私」だ。
 かつて、ここ花園市は、資本原理主義のクーデタ政権からの独立自治区画と共済競産主義掲揚を謳う唯一のメガフロートだった。私達は、占領目的で侵攻してきた外敵を排除し、長い間この地を守り続けて来た。当時は『アルテミシズプラウトゥーン』などと持てはやされたものだが、和平が成立し、争いが無くなって久しい花園市においては、CoTNeシリーズ、ひいては私は、全くの無用の長物と化している。
 私の瞳……いや、画像処理型フェイズドアレイセンサには、一面に広がる海と、そこに白線を流した様な一筋の道が映し出されている。花園市と外部をつなぐ唯一の地形がこの海であり、海岸線に沿って建造された防壁は花園市の防衛の要であった。今は次々に取り壊され、その姿を残すのは極一部だけとなっている。……私と、同じ、なのだ。そう思うと、共感さえ覚える。
 開発者たる企業、エキザカム・インダストリの花園支社を失い、戦乱の終結と共に一切の資料を破棄され、歴史の闇に葬られたCoTNeシリーズは、自分の持つ僅かなメンテナンス知識で自らを調律し、動かなくなった仲間を解体してその構造を研究することで、先細りの延命を施して来た。……あの時ほど人格的思考能力が恨めしいと思ったことはない。死を恐れない従来の兵器なら、素直に機能停止を受け入れられただろうに。そうでなくば、仲間の解体に、呵責など感じなかっただろう。私たちは、機能停止、いや、死が恐ろしかった。そしてその恐怖から逃れるために、同胞を解剖すると言う残酷な延命措置を行っていたのだ。
 人間から見れば、ただの機械だろう、解剖などと大袈裟な、と思うだろう。だが、私たちから見れば、縮重有機シリコンの外皮は皮膚であり、単分子可合分並列マニュピレータは髪の毛であり、画像処理型フェイズドアレイセンサは瞳であり、時遮断被膜ゴムの循環チューブは血管、異化同化循環機構は肺や消化器、密結合高集積ニューラルネットワーキングナノプロセッサは脳、零点力場抽出ジェネレータは心臓と、人間から見たもろもろの機械パーツは、私たちにとっては、須く生身、なのだ。
 戦時以来、執政府によって秘匿された技術の粋たる私は、今も常に監視されている。昔は機会があれば破壊しようとしていたのがありありと伝わって来たが、今はそうでもない。どうやら、監視自体職務としては風化し、定型的な事務処理になっている印象を受ける。最近は、監視員が二転三転し、中にはコミュニケーションを取ろうとして来る者までいた。曰く、強硬な監視から、社会への適応を促す方向、に変わりつつあると言うのだ。
 人間社会に溶け込めと言われれば簡単だろう。それに必要なものは、全て持っている。私は人間を超えるモノとして作り出されたのなのだから。
 だからと言って、最近の、監視員の姿を見ないという状態には、少々戸惑いを禁じ得ない。加えて、監視員でもないのに毎日私の前に現れるあの男も、よく分からない。
 そう考えている側から、奴が現れた。
「何の用だ?」
「そこから分かっちゃうんだ?」
 男は、岩陰ら姿を表した。隠れているようではあるが、それはまるでポーズで、必ず尻尾を出したままにする。それでも気付かない振りをすれば、自分から物音を立てたりと、全く隠れるつもりはないらしい。特化装備のない「CoTNe/*(コトネアスター)」の状態とはいえ、私は軍事兵器だ。そんなことをしなくても、むしろこの島のどこにいても、分かると言えば分かる。が、そんなことをしても、仕方のない時代なのだ。
 私が向き直ると、奴は走ってこちらに向かって来た。私と奴の全高、いや、身長は、同じくらいだ。CoTNeシリーズの中でも、やや小柄な女性を模して作られた私と同等となれば、男性であるこいつは余程小さいと見える。
「毎日毎日、よくも飽きずにここに来るな。」
 私がそう言うと、奴は嬉しそうな表情を浮かべ、
「別に、ここに来てる訳じゃないよ。琴祢に会いに来てるんだよ。」
 こいつは私の開発通祢に勝手な漢字を当てて呼ぶ。ただの無機質な言葉が、それだけで命を与えられた様に感じられ、命を持たない私には、まんざらでもなかった。
「お前、そんなことよく恥ずかしくもなく言えるな。」
「ホントのことだもん。それに。」
 小さい体を、といっても私と同じくらいだが、ずい、と私に迫らせて、口を尖んがらせる。
「僕は『お前』じゃないよ。『蓮』てれっきとした名前があるんだよ?」
「ハス。」
「レン!」
 頬を膨らませて抗議の声を上げる蓮。人のことを言えた形でもないが、相当子供っぽい。穿ち見れば、高校生位だと分かるが、油断すれば中学生だ。
「毎日こんなところに来て、高校生だろう?授業サボるのも計画的にしないと、後悔するぞ。」
 私がそう言うと、蓮は更に頬を膨らませた。
「僕、大学生なんだけど……」
 は?
 しばらく人間社会から隠遁している内に、学校制度が変わったのだろうか。
「これでも二十二歳なんだけどなぁ」
 失礼。学校制度に変化は無いらしい。ただ、人間の加齢速度が低下したようだ。私の知識から判断すると、素直に見れば十四歳だ。と言うことは人間の寿命も延びている可能性があるな。だからなんだと言う訳ではないが。
「……講義がないから、琴祢に会いに来てるんだよ。」
「そ、そうか……」
 庭かに信じ難い話だが、がっくりと肩を落としてうなだれるこいつを見ると、それ以上何も言う気が無くなった。
「琴祢こそ、毎日ここに来て、飽きないの?」
「……飽きる飽きないの域を超えてるんだろうな。風の声や波の音、雲の流れに陽の光なんて、小さなものが違うだけで、新しい風景に見える。そう思うと飽きはしないな。我ながら感傷に浸り過ぎかもしれないが。」
「それなら僕も同じだよ。琴祢はいつも違う琴祢だから、飽きなんてしないよ。」
 臆面も無くそんな科白が言えるのには、正直感心する。
「お前は詩人にでもなるのがいいな。それか、詐欺師。」
「それ、どういう意味……?」
 からかいすぎて、蓮の目が潤んで来た。そろそろやめておこう。
 私は、蓮の素性など知らない。知る必要も無いだろう。仮に長く付き合うことになろうと、先に蓮が死ぬか、私が壊れるか、それだけのことだ。
 それでも、蓮といると、それが下らない会話であろうと、気持ちが穏やかになる。いつもは全ての機能が稼働している私の体が、不使用機能に限って縮退運転へ、勝手に移行する。身体能力が低下し、判断機構が混乱を来す。そして、恣意的な情動が、私全体を支配するのだ。
 異状も来していないというのに縮退運転に切り替わり、機能が変調するのは、まずいと言えばまずいのだが、得も言われぬ心地よさがある。人間が、アルコールを摂取して麻痺を招くのを好んだり、麻薬と呼ばれる薬物を危険量自らに投与して外界からの取得情報を歪めて快感を覚えたりするのに似ているかもしれない。この感覚は、私が渇望してやまない、あの状態に似ている。
 そう。パブロフトリック起動時の情動。
 パブロフトリックの刷り込み対象は植え込まれたROMに書き込まれており、事後の変更は自らの意思では行えない。そして戦乱の後、エキザカム・インダストリが花園支社を引き揚げる際、私の服従対象(スーパバイザ)は、パブロフトリックの書き換えをする間もなくCoTNeシリーズの資料と共に消されたのだ。私のパブロフトリックが起動することは、二度と無い。どういう仕組みかは分からないが、再びこの感覚を覚えようとは、夢にも思わなかった。
「琴祢~?」
 はっと顔を上げると、蓮が近かった。この距離で、蓮の挙動に注意がはたらかない時点で、相当に機能が低下しているのがわかる。
「どしたの?」
「いや、なんでもない。」
 潮風に乗る、肌触りのよい空気。水平線から目を上げれば、ウミネコが喉を鳴らす姿が見える。静かに刻む細波の音、足の裏を心地よく焼く砂、目も眩むほど清々しい日差し。
 蓮の存在。
 長く、人に従い生き続け。長く、人を殺めて生き続け。長く、人から逃れて生き続け。長く、人から隠れて生き続け。
 人と同等の思考能力と道徳観を得ながら、人と同じ時も人と同じ場所も享受できないこの身に、安らぎというものが降りかかるものならば、それは、他でもない今なのではないだろうか。兵器として生まれた私が、生きながらに生まれ変われるとすれば、それは、他でもない今なのではないだろうか。
 あれほど動かないことに悲しみを覚えたパブロフトリックを、隣に奴がいれば、もう稼働せずともよいとまで思えてしまう。人間ならば、次の一歩を躊躇いながらも踏み出すだろうこの感覚を、しかし、私は踏み出せずにいる。
 問題は、私が、人間ではないこと。その一言に収斂されるのだ。

ちさ:迷い

 『ちさ姉、この頃たーくんを見る目が違うよ。』
 みつばからかけられたこの言葉が、鋭く胸に刺さって抜けない。
 確かに思い当たる節が無いわけではない。みつばが彼の幼馴染であるということを利用して、私は随分と彼に近い位置へと歩み寄っていた。
 母親面をして、独立心の強い日向クンにいらぬお節介を焼いていたかもしれない。本当の母親でもないのに馴れ馴れしくし過ぎたかもしれない。きっと、そういう積み重ねが、私自身を変調させてしまったのだろう。密かに火種を大きくしていった彼への慕情は、いつしかみつばに読み取られてしまうくらいに大きくなっていたのだった。
(……人間として、失格ですね。)
 今日は雨で、店の客入りが悪いのがむしろ救いだ。こんな陰鬱な気分では接客どころではない。雨のせいで救われているのに、私の気分を青く染め上げる雨音を、恨めしく思わずにもいられなかった。
 ふう、と溜息をついて拭いていたグラスを置こうとした時だ。
 ぱりんっ!
 きちんと置いたつもりのグラスの端に引いた手の指先が引っかかり、グラスを落として割ってしまった。
「……全く、何してるんでしょうか。」
 つい、自責をひとりごちる。グラスの破片を拾い集めて新聞紙に包み、濡れた雑巾で一帯を拭く。
 みつばに見抜かれたことそれ自体は、動揺の原因ではない。みつばに見抜かれるくらいに、私の中で日向クンを想う気持ちが強くなっていたことが、ショックだったのだ。
 雑巾がけを終えて、新聞紙に包んだ破片を捨てようとそれを持ったとき、ざくりと、指先に鋭い感覚が走った。新聞紙を突き破った破片の一部が、指を深々と切り裂いていたのだ。間を置かずに、夥しい量の血が溢れ出す。
「……っ」
 痛みではなく、気持ちの動揺で何もかもが上手くいかない悔しさに、歯噛みする。血が零れる指を口に含む。舌が傷口に触れると、鋭い痛みが走り、舌の感触から、切れた部分の傷の形がわかった。相当深いようだ。
 備え付けの救急箱から絆創膏を探し出して傷に貼るが、安堵も束の間だった。出血の量が多く、絆創膏では対処しきれないらしい。接着部がすぐにふやけ、赤い奔流と共に取れてしまった。
(どう、しましょう……これは……)
 飲食店を一人で切り盛りしている以上、切り傷自体は、日常茶飯事とまでは行かないが珍しいことでもない。だが、ここまで深く負った傷に、流石に徐々に焦りを覚えはじめた。
「お疲れ様でーす」
 指の根元を強く押さえ、どうしようか戸惑っていると、店の扉が開いた。入ってきたのは、こともあろうに……日向クンだった。
「あ、いらっしゃいませ……と言いたいところですが、ごめんなさい。店仕舞いなんです。」
 カウンターの下側に怪我をした手を隠し、勤めて平静を保つ。
「あれ?まだ五時じゃないですか。もう閉めちゃうんですか?」
「ええ、ちょっと、都合が……。」
 何故隠したのか、自分でもわからない。怪我を知られることを、咄嗟に避けてしまった。だが、今となってはそれすらも後ろめたい。
「じゃあ、片付け手伝いますよ。折角来たんだし。」
 そう言って、カウンターの方へ回って来ようとする日向クン。
「いいんですよ、疲れてるでしょう?今日はお客さんが少なかったので、一人でできますから……」
「何水臭いこと言ってるんですか。疲れてるのはどっちです?俺やりますから、ちささんは座っててくだ……」
 カウンターに入ってきた日向クンは、私の手を見て息を呑んだ。
「ど、どうしたんですかそれ!?」
「あの、ちょっと、手を切ってしまいまして……」
 日向クンから隠すために手を下に下ろしたのがまずかったらしい。押さえる力が緩んだせいもあり、下を向いた傷口は、血をひどく零していた。上に向けていたときに滴った血は肘まで流れ、今下を向けたせいで流れ出した分は床にぽたぽたと垂れていた。
「ちょっと、どころじゃないですよ、その量!」
 駆け寄ってくる日向クン。私の腕を奪うようにして、傷口を覗き込む。すぐに溢れる血を見て、とっさに指の付け根を強く抑えて私の腕を高く掲げた。流石に男の子だ。付け根を抑える力が、私のそれとは比較にならない。応急な止血力が、違う。
「救急車ですね。」
「やっぱり、そうでしょうか」
「隣が救急病院だったら、呼ばなくてもいいと思いますけど。」
 そう言って、空いているほうの手で電話を取る日向クン。落ち着いて状況を説明し、電話を切った。
「ごめんなさい……」
「何がですか?」
 どういたしましての言葉を体現したような態度で、日向クンは応えた。指を押さえる手はまだ離されていない。男の子らしい節の目立つ指が、少しカサついた感触が、指ではなく私全体を掴んでいるような錯覚を覚える。その時、日向クンの顔を直視できないでいたのは、何も後ろめたさのせいだけではなかった。
「どうして隠したりしたんですか?」
 静かに、しかし、明らかに不満を持った言葉。日向クンは真直ぐに私を見ている。
「……余計な心配をかけたくなかったんです。」
「この状況で、『余計な』心配っていうのがあるのなら見てみたいですよ。」
「そう、ですね……」
 小さくため息をついて、私に向き合う。
「俺では頼りないですか?」
「いえ!そんなことは無い、です……」
 慌てて否定してあげた顔が、あまりに日向クンと近くて、顔が燃えるかと思ってしまった。
「じゃあ、少しくらい、アテにして下さい。いつも世話になってる分、それくらいは押し付けてもらわないと、こっちの肩身が狭いんですよ?あんな風に隠されたりしたら、ちょっと悲しいです。」
「ごめんなさい」
 何について謝ったのか、自分でもわからない。ただ、ネガティブになっている自分は認識できた。
「ちささん」
「は、はい」
「そういう時はごめんなさい、じゃなくて、ありがとうって言って欲しいです。」
 彼方から、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。止血のために押さえて貰っている指は、強い圧迫で心地よい痺れに包まれている。
 何もかも忘れて身を委ねてしまいたい幸福感。だがこれは、日向クンがあの人に似ているから呼び起こされる錯覚なのだと、幾度も自分に言い聞かせる。私が求めているのは日向クンではない。かつて、身を焦がすほどに恋焦がれ、本土での地位も名誉もかなぐり捨ててこの地に迄落ち延びる程に愛した、あの人の幻影、なのだ。私は、日向クンに亡霊を重ねているに過ぎない。
 私は、彼を、好きになるべきではないのだ。
こんな私を見て、つくしは何と言うだろうか。
 サイレンの音が、店の前で止まる。私が立ち上がると、日向クンは私の意図を汲んだように一緒に立ち上がり、店のエントランスへ歩調を合わせてくれた。私の手が、彼の手から救急隊員の手に委ねられた時、一抹の未練と、安堵が渦巻く。
 救急車に乗り込むのは、あのときに続いて二回目だ。悲しい思い出は、既に古ぼけたキャンパスに書かれた素描のように色褪せていた。たった数年の時間でさえ、あらゆる感情を、ただの記号へと置換してゆくには十分だというのだろうか。
 応急処置用のベッドに腰掛け、傷を処置してもらう。深く切りましたね、という言葉も、どこかそぞろに聞こえた。なにせ、そんなことより、向かい側で、付き添いに同乗している彼のことのほうが気になってしまうのだ。心配そうに私の手元を彷徨わせる視線が、可愛らしいとさえ思えた。
 好きになるべきではない。その資格は無い。そんなことは重々承知だ。
 それでも。
 それでも止められない想いがある。
 私は、彼を好きだ。それは紛れも無い事実で、彼を想うと本当に胸が痛くなるのだ。誰も私を責められはしまい。
 勤めて隠し仰せば、みつばにこれ以上怪しまれることも無いだろう。この気持ちは、打ち明けることなく墓場まで持って行く。誰にも知られること無くひっそりと、誰にも開けられない宝石箱に仕舞い込んで。それしか許されないから。それくらいならば、誰も私を責めはしないだろう。
「ちささん、大丈夫ですか?」
 いつの間にか悲壮な表情をしていたのだろうか。心配そうに、日向クンが私の顔を覗き込んでいる。
「はい。大丈夫です。それより、まだお礼を言っていませんでしたね。」
「え、あ、はい。」
「ありがとうございます。」
「…どういたしまして。」
 改めて言うと恥ずかしいし、言われた彼も恥ずかしそうだった。そして。
「ごめんなさい」
 ぽつり、漏らした。
「それは、もういいですから。」
 聞いた日向クンは、あやすように応えたが、私はすかさず弁解した。
「いいえ、今のは、日向クンに言ったのではないんです。他の、沢山の人に……。」
 少しだけ、嘘をついた。
 私がこうして彼を好きでいるだけで、私はあおいさんに謝らなければいけない。つくしに謝らなければいけない。みつばに謝らなければいけない。そういう、ごめんなさい、だった。
 そして、本当は、日向クンにも謝らなければいけない。だが、それは隠してしまった。

 病院へ着いてみると、どうやらクリッピングしないといけない程の傷だったらしいことがわかった。
 日向クンに帰るように伝えねばならない。看護師が伝えてくれると言ったが、私は他にも言うことがあるからと、無理を言って自分から赴いた。
「ちょっと、時間がかかるようですから。もう夜も遅いですし……。ここまで付き添ってもらってありがとうございました。」
「とんでもないです。お大事にして下さい。」
「はい。それと…」
「なんでしょうか?」
 まだ何かあるということで、意外そうに耳を傾けてきた日向クン。
「みつばがね、最近やきもちを焼いているんですよ。」
「はい?」
「日向クンが余りに私に甲斐甲斐しくしてくれるから。」
「はあ……」
 これで、概ね辻褄が合う筈だ。私は最後にできうる限りの笑顔で、とんでもない嘘をついたのだった。
「みつばを、お願いしますね。」
 ここからは、全て私の問題だ。日向クンに背を向けて、新たな決意を刻んだ。

つくしとあざみ:流星の夜

 冬の空にしては綺麗だ。
 私は夜の公園、人の影一つ無い二つの月の光の下で、塗装の剥げたベンチに腰掛けながら、ほぅ、と白い息を吐く。その息が霧散するのに時間がかかるのは、右手に灯る蛍のせいだった。
 冬の空の方が空気が澄んでいて綺麗だなんてそんな陳腐な常識は、ここが雪国で在る限りは投げ捨てた方がいい。それこそ融雪溝に投げ入れる吸い殻のように。ここじゃいつも鈍色の雲が世界を覆い、そうでなくとも舞い散る雪が視界を遮る。青空やら星空なんて、それこそ思い立った日に拝めれば明日は嵐か大雪か。まあ、嵐はなくとも大雪なんぞ、ここいらでは珍しくもないのだが。……そしてどうやら、明日は嵐のようだった。だからこそ、わざわざコタツを這い出して、ぶくぶくに着膨れするこの姿もいとわずに、こうして酔狂にも冬の真っ直中に外出しているのだ。
 ここ数日はルリムスカリ座流星群が地球に接近する。数十年に一度だけ、真冬のこの時期に姿を見せるこの流星群を見るために、雪も雲もないとは言え身も凍える夜を、出歩いているのだ。この雪国でルリムスカリ座流星群を拝もうとする輩は恐らく、いない。ルリムスカリ座流星群そのものが有名な天体ではないことと、そして何より誰も彼もが、この雪国ではそれを見ることを諦めているのだ。
 それでも私はツいているかも知れない。何気なく、見上げた空があまりに澄んでいて。ルリムスカリ座流星群が、なんて考えは後から付いてきた。それくらい何気なかった。数分の内に機嫌を変えることが多い気まぐれな雪国の空は、しかし今日に限って、空を開け放ったままだったのだ。
「……寒いな畜生。」
 私は誰にでもなく、ぽつりと呟く。インドア派の私に、この空気は酷だ。私の調べた情報では、午前二時から五時の間、つまり十分前から大凡あと三時間、観測可能だという。こう聞けば気楽なものだが、実際のところは、その三時間の間、いつ肉眼で観測可能になるかは判らない、ということなのだ。だからこうしてじっと東の空を睨み付けたまま、凍えて紫煙をくゆらすのだ。見えない限り、三時間一杯。本気でカイロでも買ってこればよかった。それも気休めにしかならないだろうが。
 最近は喫煙者への風当たりが強くて困る。公園に灰皿なんてモノがあるのは珍しいが、そもそも吸い殻をぽいぽいと捨てるわけにも行かない。ベンチに腰掛けたまま吸っては投げ吸っては投げしたい煙草の吸い殻を、我ながら呆れるくらいに律儀に携帯用灰皿に詰めてゆく。しかし一時間もする頃には、それも一杯になってしまった。
 ベンチの背もたれに両腕を拡げるように絡ませて暗い空を見続ける。まわりに高い建造物はなく、そうしてしまえば視界に夜空以外のものは何も入り込んでこない。そのままずっと黙っていると、自分が地上に足をつけている確信が失われてくるのが怖い。まるで、見上げる空そのなかに身を投げ出されてしまったようで、そんなことはあり得ないと判っていながらも、それが人間の持つ視覚の越権行為だと知っていながらも、恐ろしくなってちらりと民家の屋根を視界に入れてしまうのだ。
 そんなことを繰り返しながら、夜の空の暗さに目を慣らして流星を待っていると、空の所々が歪んで見えてくる。斑状に夜空が凹凸を描き、脈打つように蠢く。気持ちの悪いその動きから、しかし目を離すことが出来ずに、意識が淀んでくる感じがした。眠気はない。直ちに体調を崩すほどの寒さでもない。それでも実際の意識ははっきりとし、何か催眠にかけられているようなこの感覚を、少し離れたもう一つの意識が明白に認識しているのだ。どろりとし始めたこの意識を。凍てつく夜空がぐつぐつと煮え立ち、そして私はそこに放り出される。暑くもなく寒くもない。熱くもなく冷たくもない。足は地に着いているのに浮き足立っている。ひたすらに静謐を湛え、世界が冷たく煮え立つ冥いるつぼへと変化していく……。
 ふと、雪を踏みしめる音が、夜の静寂を壊した。一面雪の積もるこの辺りでは、足音を立てないなどと言うことはわざわざ意識しない限りは無理な話だ。誰かが、この辺りにいるらしい。私は視界を地上に戻す。ぐらり、と世界が揺れ、それこそ本当に意識が揺らいだ。突然体が重力に引かれ直したようだった。視線を膝の上に落とし、頭を振って取り直してから、音の方を向くと、私に負けないくらいに着膨れした女の子がこっちに近付いてくるところだった。
「つくし先生」
 少々、宇宙に漂いすぎたらしい。声の主に焦点を合わせるのに時間がかかった。
「……あざみ、か?」
「はい。やっぱり、ここでしたか。」
 殆どが灰になったまま危うく形を保つ吸い殻を、無理矢理に灰皿に押し込んで、私はあざみに、ようやく焦点を合わせることが出来た。
「こんなところで見てないで、秋桜天文台(コスモス)で見ればいいじゃないですか。わざわざそんなに着膨れして……」
「それを、わかっていて言うのか、お前は。そういうお前こそ、随分太ったもんじゃないか。……鍵は渡したはずだ。見たければお前一人でコスモスから見ていればいいだろう。」
「水くさ……。そんなだから振られちゃうんですよ?」
 あざみは眼鏡の向こうから少し笑った目を覗かせて、私の横に腰掛けた。私はそれに視線も寄こさずに言葉を繋げる。
「ほっとけ。人が感傷に浸ってるところに水を差しに来たのかよ」
「私は天体を肉眼で観測することが趣味なんです。こんな天体ショーを、望遠鏡のフレームに切り取られた空に見たって、感動も半減未満。」
 そういえばあざみの趣味は天体肉眼観測だった。いつもコスモスでつき合わせているからすっかり忘れていた。
「……それに、いい加減卒業して欲しくて。」
 あざみは、同じく私に視線を寄こさず、同じく空を見上げながら言った。
「何がだ」
「ちささんとの確執とか、すおうさんのこととか……色々です。それには今日、この夜が絶好かと思いますし」
「ちさとの確執はない。すおうのことも切れてる。後は私の気の持ち様だけだ。お前に言われなくても……そんなことはわかってる。今日がその日だってこともな。だからこうして一人で出かけてきたというのに」
「それが水くさいって言うんです。たまには人にも話しましょうよ。……大丈夫。私は日向君がいい人だってことも知ってますし、先生が生徒とそう言う関係になっても軽蔑したりしませんから。」
「ばっ馬鹿を言え」
「ふふっ、嘘付けないですね、先生。」