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ちさ:迷い

 『ちさ姉、この頃たーくんを見る目が違うよ。』
 みつばからかけられたこの言葉が、鋭く胸に刺さって抜けない。
 確かに思い当たる節が無いわけではない。みつばが彼の幼馴染であるということを利用して、私は随分と彼に近い位置へと歩み寄っていた。
 母親面をして、独立心の強い日向クンにいらぬお節介を焼いていたかもしれない。本当の母親でもないのに馴れ馴れしくし過ぎたかもしれない。きっと、そういう積み重ねが、私自身を変調させてしまったのだろう。密かに火種を大きくしていった彼への慕情は、いつしかみつばに読み取られてしまうくらいに大きくなっていたのだった。
(……人間として、失格ですね。)
 今日は雨で、店の客入りが悪いのがむしろ救いだ。こんな陰鬱な気分では接客どころではない。雨のせいで救われているのに、私の気分を青く染め上げる雨音を、恨めしく思わずにもいられなかった。
 ふう、と溜息をついて拭いていたグラスを置こうとした時だ。
 ぱりんっ!
 きちんと置いたつもりのグラスの端に引いた手の指先が引っかかり、グラスを落として割ってしまった。
「……全く、何してるんでしょうか。」
 つい、自責をひとりごちる。グラスの破片を拾い集めて新聞紙に包み、濡れた雑巾で一帯を拭く。
 みつばに見抜かれたことそれ自体は、動揺の原因ではない。みつばに見抜かれるくらいに、私の中で日向クンを想う気持ちが強くなっていたことが、ショックだったのだ。
 雑巾がけを終えて、新聞紙に包んだ破片を捨てようとそれを持ったとき、ざくりと、指先に鋭い感覚が走った。新聞紙を突き破った破片の一部が、指を深々と切り裂いていたのだ。間を置かずに、夥しい量の血が溢れ出す。
「……っ」
 痛みではなく、気持ちの動揺で何もかもが上手くいかない悔しさに、歯噛みする。血が零れる指を口に含む。舌が傷口に触れると、鋭い痛みが走り、舌の感触から、切れた部分の傷の形がわかった。相当深いようだ。
 備え付けの救急箱から絆創膏を探し出して傷に貼るが、安堵も束の間だった。出血の量が多く、絆創膏では対処しきれないらしい。接着部がすぐにふやけ、赤い奔流と共に取れてしまった。
(どう、しましょう……これは……)
 飲食店を一人で切り盛りしている以上、切り傷自体は、日常茶飯事とまでは行かないが珍しいことでもない。だが、ここまで深く負った傷に、流石に徐々に焦りを覚えはじめた。
「お疲れ様でーす」
 指の根元を強く押さえ、どうしようか戸惑っていると、店の扉が開いた。入ってきたのは、こともあろうに……日向クンだった。
「あ、いらっしゃいませ……と言いたいところですが、ごめんなさい。店仕舞いなんです。」
 カウンターの下側に怪我をした手を隠し、勤めて平静を保つ。
「あれ?まだ五時じゃないですか。もう閉めちゃうんですか?」
「ええ、ちょっと、都合が……。」
 何故隠したのか、自分でもわからない。怪我を知られることを、咄嗟に避けてしまった。だが、今となってはそれすらも後ろめたい。
「じゃあ、片付け手伝いますよ。折角来たんだし。」
 そう言って、カウンターの方へ回って来ようとする日向クン。
「いいんですよ、疲れてるでしょう?今日はお客さんが少なかったので、一人でできますから……」
「何水臭いこと言ってるんですか。疲れてるのはどっちです?俺やりますから、ちささんは座っててくだ……」
 カウンターに入ってきた日向クンは、私の手を見て息を呑んだ。
「ど、どうしたんですかそれ!?」
「あの、ちょっと、手を切ってしまいまして……」
 日向クンから隠すために手を下に下ろしたのがまずかったらしい。押さえる力が緩んだせいもあり、下を向いた傷口は、血をひどく零していた。上に向けていたときに滴った血は肘まで流れ、今下を向けたせいで流れ出した分は床にぽたぽたと垂れていた。
「ちょっと、どころじゃないですよ、その量!」
 駆け寄ってくる日向クン。私の腕を奪うようにして、傷口を覗き込む。すぐに溢れる血を見て、とっさに指の付け根を強く抑えて私の腕を高く掲げた。流石に男の子だ。付け根を抑える力が、私のそれとは比較にならない。応急な止血力が、違う。
「救急車ですね。」
「やっぱり、そうでしょうか」
「隣が救急病院だったら、呼ばなくてもいいと思いますけど。」
 そう言って、空いているほうの手で電話を取る日向クン。落ち着いて状況を説明し、電話を切った。
「ごめんなさい……」
「何がですか?」
 どういたしましての言葉を体現したような態度で、日向クンは応えた。指を押さえる手はまだ離されていない。男の子らしい節の目立つ指が、少しカサついた感触が、指ではなく私全体を掴んでいるような錯覚を覚える。その時、日向クンの顔を直視できないでいたのは、何も後ろめたさのせいだけではなかった。
「どうして隠したりしたんですか?」
 静かに、しかし、明らかに不満を持った言葉。日向クンは真直ぐに私を見ている。
「……余計な心配をかけたくなかったんです。」
「この状況で、『余計な』心配っていうのがあるのなら見てみたいですよ。」
「そう、ですね……」
 小さくため息をついて、私に向き合う。
「俺では頼りないですか?」
「いえ!そんなことは無い、です……」
 慌てて否定してあげた顔が、あまりに日向クンと近くて、顔が燃えるかと思ってしまった。
「じゃあ、少しくらい、アテにして下さい。いつも世話になってる分、それくらいは押し付けてもらわないと、こっちの肩身が狭いんですよ?あんな風に隠されたりしたら、ちょっと悲しいです。」
「ごめんなさい」
 何について謝ったのか、自分でもわからない。ただ、ネガティブになっている自分は認識できた。
「ちささん」
「は、はい」
「そういう時はごめんなさい、じゃなくて、ありがとうって言って欲しいです。」
 彼方から、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。止血のために押さえて貰っている指は、強い圧迫で心地よい痺れに包まれている。
 何もかも忘れて身を委ねてしまいたい幸福感。だがこれは、日向クンがあの人に似ているから呼び起こされる錯覚なのだと、幾度も自分に言い聞かせる。私が求めているのは日向クンではない。かつて、身を焦がすほどに恋焦がれ、本土での地位も名誉もかなぐり捨ててこの地に迄落ち延びる程に愛した、あの人の幻影、なのだ。私は、日向クンに亡霊を重ねているに過ぎない。
 私は、彼を、好きになるべきではないのだ。
こんな私を見て、つくしは何と言うだろうか。
 サイレンの音が、店の前で止まる。私が立ち上がると、日向クンは私の意図を汲んだように一緒に立ち上がり、店のエントランスへ歩調を合わせてくれた。私の手が、彼の手から救急隊員の手に委ねられた時、一抹の未練と、安堵が渦巻く。
 救急車に乗り込むのは、あのときに続いて二回目だ。悲しい思い出は、既に古ぼけたキャンパスに書かれた素描のように色褪せていた。たった数年の時間でさえ、あらゆる感情を、ただの記号へと置換してゆくには十分だというのだろうか。
 応急処置用のベッドに腰掛け、傷を処置してもらう。深く切りましたね、という言葉も、どこかそぞろに聞こえた。なにせ、そんなことより、向かい側で、付き添いに同乗している彼のことのほうが気になってしまうのだ。心配そうに私の手元を彷徨わせる視線が、可愛らしいとさえ思えた。
 好きになるべきではない。その資格は無い。そんなことは重々承知だ。
 それでも。
 それでも止められない想いがある。
 私は、彼を好きだ。それは紛れも無い事実で、彼を想うと本当に胸が痛くなるのだ。誰も私を責められはしまい。
 勤めて隠し仰せば、みつばにこれ以上怪しまれることも無いだろう。この気持ちは、打ち明けることなく墓場まで持って行く。誰にも知られること無くひっそりと、誰にも開けられない宝石箱に仕舞い込んで。それしか許されないから。それくらいならば、誰も私を責めはしないだろう。
「ちささん、大丈夫ですか?」
 いつの間にか悲壮な表情をしていたのだろうか。心配そうに、日向クンが私の顔を覗き込んでいる。
「はい。大丈夫です。それより、まだお礼を言っていませんでしたね。」
「え、あ、はい。」
「ありがとうございます。」
「…どういたしまして。」
 改めて言うと恥ずかしいし、言われた彼も恥ずかしそうだった。そして。
「ごめんなさい」
 ぽつり、漏らした。
「それは、もういいですから。」
 聞いた日向クンは、あやすように応えたが、私はすかさず弁解した。
「いいえ、今のは、日向クンに言ったのではないんです。他の、沢山の人に……。」
 少しだけ、嘘をついた。
 私がこうして彼を好きでいるだけで、私はあおいさんに謝らなければいけない。つくしに謝らなければいけない。みつばに謝らなければいけない。そういう、ごめんなさい、だった。
 そして、本当は、日向クンにも謝らなければいけない。だが、それは隠してしまった。

 病院へ着いてみると、どうやらクリッピングしないといけない程の傷だったらしいことがわかった。
 日向クンに帰るように伝えねばならない。看護師が伝えてくれると言ったが、私は他にも言うことがあるからと、無理を言って自分から赴いた。
「ちょっと、時間がかかるようですから。もう夜も遅いですし……。ここまで付き添ってもらってありがとうございました。」
「とんでもないです。お大事にして下さい。」
「はい。それと…」
「なんでしょうか?」
 まだ何かあるということで、意外そうに耳を傾けてきた日向クン。
「みつばがね、最近やきもちを焼いているんですよ。」
「はい?」
「日向クンが余りに私に甲斐甲斐しくしてくれるから。」
「はあ……」
 これで、概ね辻褄が合う筈だ。私は最後にできうる限りの笑顔で、とんでもない嘘をついたのだった。
「みつばを、お願いしますね。」
 ここからは、全て私の問題だ。日向クンに背を向けて、新たな決意を刻んだ。