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【自戒】読書とは->知識とは

私は非常に少ない種類の本しか読んでいません
だから、知識が乏しいです。

twitterで極短い間ですが遣り取りさせてもらった方の発言に
「本を読むと馬鹿になる」という主旨の一連の呟きが
私は非常に強く印象にあります。
(もうリムーブされちゃいましたが)

まあ私が本を読まないと言うのはただの不精で
別に馬鹿になるのを恐れてのことではないので
全く論外なのですが。



本を沢山読めば頭がよくなる。
と言うのは個人的には妄信していた神話だったのですが
その人の発言を聞いて目が覚めたんですよね。


知識を得てその人の中の知識は偏っていく。
知識を沢山得ればその偏りを解消できると言うのは机上の空論でしかなくて、
実際には既に持っている知識に近い知識しか集めなくなるからもっと偏っていく。
そして自分で考えることを捨てて既存の知識を得ることに走るから
問題解決能力を失う。

今まで
インターネットなどの情報を鵜呑みにしたりであるとか
マスコミの発言を疑うことなく受け入れるであるとか
大多数の畜群へと自ら進んでいくであるとか
そういう面で情報への積極性を重要だとは考えていたけれど

そもそも本を読むと言う行為にここまで挑戦的な問題を提起したあの一連の発言には
「この人は凄い」と感じざるを得なかった。

勿論、知識なしに知識を判ずることはきわめて難しいので
現実的にはバランスの問題となるのですが

本を読み知識を得、学問を修め道を知ることが
必ずしも賢さに繋がるわけではないと言うことを
痛烈にカリカチュアライズした発言だなと思って
感心しました。
多分私より若い人なんだろうと思うと、凄いなあって本当に思います。


物事を考察するのに
公式や法則が見出されているのであれば
それに則るのも悪くはないと思いますが
それでもパラダイム転換を必要とする袋小路に至っていては
その方法では抜け出すことが出来ない。

そもそも理論も方法も見出されておらず
それってどうなのだろう的な考察をするときに限っては
~という論があって、というアプローチは
一定の効力は持っても
一定以上の説得力を持ち得ないのは確かなんですよね。

~論~説という知識が
まるで磁石のように、
「問題そのものを自らの論の方へ吸い寄せる」ことが多々ある。

問題を解決するために見出された一つの仮定が
いつの間にか
その仮定に当てはまるように都合よくその問題を解釈することが
これは省みるとなんと多いことだろうか。
知識の問題偏向性ってかんじかな。

経験ないでしょうか。
「ふ、この問題はこの公式を使えば解けるのだ」
「そもそもそういう問題じゃねーし。どこ見てんの?」
「えっ、だって、そういう問題に見えるじゃん」
「ばーか。それ自体が間違い」
ってこと。
でも、「そういう問題」に見せているのは、
問題自体でも自身の読解力でもなくて
既に身についている知識かもしれないんですよね。

策士策に溺れるってやつ。

この現象はまさに
知識を得ることが逆に馬鹿になっている
現象の一つかもしれない。


知恵の木の実は悪魔の誘い。
実はただの毒りんごでした。
毒でなくても、単に甘いだけの果物だったかもしれない。



重ねますが
何の知識も持たない状態ではやはり何も判断できません。
純粋理性だけで判断できることなど殆どない。

件の発言の真に意味するところは
知識が不要、ということではなく
知識は常に脇役で、主役は自身の判断能力である
と言うことなのではないかなあ。

本当に必要なのは
「底辺×高さ÷2という知識」
ではなく
「切り取ったら四角形になると気付ける目」
って言う意味で。

公式を知っていたら
その公式に当てはめて考えようとするじゃない。
もしかしたら
そこにははさみと、
面積がぴったり同じで面積のわかっている四角形が
転がっているかも知れないのに。
知識による問題の偏向性。

しかしそれが本当に難しいということは
ゆとり教育の失敗が物語っているだろうか。
組織的教育でこれを培うのには
相当の転換が必要になるんだろうなあ。


教育以外の場でも少し込み入った話をするときとかに
「有名な学説に~説ってのがあって」
ってのと
「2chで~って書き込みがあってさ」
ってのは
実は同じで
どちらであっても
本当に必要な問題から遠ざかってる可能性がある
って思うと
もう一歩俯瞰してみようと思えますよね。
離れすぎて見えなくなったら元も子もないんですが。


勿論そんなところまで疑うのは面倒くさいです。
知識の優位性信じていたほうが楽に生きられます。
だってそれは、宗教と同じなんですから。