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【内省】おとなこども

大人子供


あくまで世迷い言カテゴリのエントリであって、
私が、以下に述べる反駁の矛先とする出来事を見たとき
自身が感じた根拠の軽薄な賛同や賛美に対して
自ら反論をしようというものであることを先に記す。


大人と子供の定義をするときに
まあ子供な大人や大人な子供なんてものがちらほらと顔を出す。

精神的なものと実年齢を対比した結果だと思う。

よくあるのが
理不尽なわがままを言う大人を
子供が敏い発言で諫めるというもの。

ここで導かれる(期待される)結果は
この子供みたいなきれいな心を持った大人であるべき
この子供はきっと素敵な大人になる
と言うものだろう。



もちろんそれはそうなんだろうし
相であることが美談ではあるのだけど
私は十全そうだとは思わない。



思えば私も「いい子」だった時代がある(らしい)。
周囲からは
「正直」「手間がかからない」「公明正大」「素直」
などと評された
――今から考えてみれば眉を顰めるような皮肉にさえ感じる――
時代があった。



例えば先の子供のような例を見て
ああいったことをやったことも正直言えばある。

(今やろうと思わないのはこの件とは直接関係のない理由なのだが)
今はやろうとは思わない。




さて、
ああいった綺麗な子供の心について疑問を抱かざるを得ないのは
偏に自分の実経験からである。

まず、
私はかの子供のようなことをする人間ではあったが
今の精神は酷くねじ曲がり
誰が見たって綺麗な心を持った人間ではない。

ひとつ
安っぽい反駁をするなら
「子供は自分の信念に拘わらず
 “大人”に一矢報いる機会を虎視眈々と狙い、
 狙撃するための武装を欠かさない」
ということだ。
ああいう大人を諫める言葉は
子供の子供じみた歪みから来ている可能性は否めない。

だからああいった例の子供が
綺麗で美しい英雄であるかというと
私は諸手を上げて賛成できない。

英雄足り得ない人を英雄視するほど
私は心が広くない。


また、見逃されがち
(見逃されると言うよりは、敢えて目を瞑っているようにさえ見える)
な要素としては以下を挙げたい。

大きくなってそれなりに社会を目にしてしまえば
道徳観念上正しいものが通らないことや
道徳観念上正しいものを通さないことがいい結果に繋がる経験も
随分とする。

そう言う状況に晒されたとき
幼い頃に道徳的にまっすぐであっても
それがいいこととは限らないし
もっというと
そうであればあるほど
成長したときに歪になる可能性をはらんでいる。

私は社会に出てから
いろんな事が
「あほらしい」
と感じたクチだ。
それは
正義や道徳について、より強い。

そしてついでに言われてもらうと
「あほらしい」
と感じてからの方が
人間らしく生きられてると思う。

自分で考え、感じたものを分析し
自分の可能な範囲で分析結果を反映する度合いを決定し
かつそれを自他の彼我を考慮した上で
影響範囲を考える。
先入観念を疑い、結果それを廃し
あるいは強固に持ち直す。

子供が持った薄っぺらで
根ざしのない正義感なんて
ある部分では害悪足り得る。

そのある部分というのは
それを外側に向けて振り回す際のものだろうと考える。

つまり、
ああいった大人を諫める子供の例が含まれる。

「定型の正義」
をもてはやされそれに軸足をおくようになった子供は
先入観や周囲への迎合をやめないかもしれない。

仮にそれが宗教がらみであれば
神のために人を殺す事を厭わないかもしれない。

本質は同じだろうと思う。



もう一つ付け足すのなら
ああいった例で子供が正義の達一に経つことに対して
CM広告で
子供か動物を使っておけばイメージアップになる
という軽薄な選択と被ってしまうため
個人的に懐疑を向けずにいられないというのもある。




さて
こうした私を見て
「あー、歪んで育ってしまった哀れな人」
と思った人があれば
それはその通りだと思う。
だが一つ言わせてもらうのならば
この負け惜しみを付け足す。

あなたのような人の方が、
誰の制止もない状況に放り出されたとき
奔放で野蛮な、欲望に振り回され
およそ道徳的ではない行為に
及びがちだと言うことを
努々忘れないでいただきたい。
なぜならあなた方は
自らの行動の箍を
自分の内面で管理することを放棄し
他人(外部の規定)に委ねきっているのだから。