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【考察】絵と文と細分化と統合と表現、そして私の諦めw

こないだの崇敬祭オフの飲み会の場で。

絵描きさんと文書きさんが
面白そうなことを話していた。

非常に意見的に通じるところがあったようで
そのお二人は意気投合していた。

・たとえば抱きついて頬ずりするにも無限の方法がある
・それをどう伝えるか
・特徴的な描写を使わない手はない
・自分が受け止めて咀嚼したものを伝えるにはどうするか
・盲人はいかにして色を知るか、的な話

あたり。


私はかねてより
「認識とは細分化と統合化の(不明確な根拠による)妥協であり、その対象を説明するのに適した方法論を提示しない」
と考えている。

もう一つくわえると
認識されていないものは存在しないか
あらゆる可能性を重ね合わせた状態で存在しているか
のどちらか
(存在しないのと等価、ではない。
何らかである可能性を否定できない、ではない。)
とも考えている。


さて。

絵描きさんと文書きさんが
「~するのにも色々あってだな」
「そう、無限だよね」
「それをどうやって伝えるか」
「咀嚼して、それをディフォルメすることが必要」
「記号化だよね」
みたいなやり取り。

んで。
たとえば猫が驚いたときに尻尾を立てるような描写。
実際にはしないか、やっても一瞬でしかない。
そこに驚きという表情のイメージを乗せて強調するのは、
非常に絵描き的な発想だと思う。

実際がどうであるかは関係なく、
そう伝わるディフォルメが必要ということだろうか。

文書きさんの方から肯定。
咀嚼して人にわかりやすい方法で伝えることが必要だと。
絵描きさんもそれに大体同意していたようだ。
絵も文も触る程度にやる身として、それには同意する。
わかりやすいのだからそれを選択しない手はない。

しかし
ディフォルメ(記号化)という方法論は
それが伝わるも者同士のコミュニケーションでしかない。
相手の受容可能な記号への変換と言うことであれば
それはそれで一つの方法論かも知れないし
文脈的には恐らくそう言う意図なのだろう。

伝わりにくいものをディフォルメしてわかりやすくし
伝えるのは、至極一般的なやり方だ。


ちなみに頭の回転が遅い上に不正確な私は
この辺りで話から離脱。
「結局好きにするしかないですよね」
酒の場でわざわざ対論での議論を持ち出しても
びみょんな空気になるだけだし。
そこから逆向いて莫迦話に参加。

それでも面白いタームを目に出来た。



ここで少し横道にそれると。
コンピュータは0と1の二進数で全てを表現し
結果としてバーチャルリアリティと呼ばれるほどに
リアリティのあるものを作り出す。

情報に有と無のみという極限的なディフォルメを適用して
きわめて鮮明な情報を伝えることに成功している例だ

実は3進法を使った方が計算時のコスト(生産コストではない)は
若干低く抑えられると言う話がある。

正と負が存在するこの世界では、
負数を自然に表現できる3の方が都合がいいという話もある。

それでも2進法が採用されているのは
勿論生産コストの面が強いが
ノイズに強いからだ。

電圧の有無のみで判断できる2進法と違い
3にすると電圧の強弱を使わなければならない
(電流を逆にするという方法もあるらしいが)
そこにノイズに付け入られるリスクと
それを補うための余剰コストが必要になる。

情報伝達時に
ノイズ耐性を高めるためのディフォルメ
という点で
先の話ときわめて似通った例と言えるかも知れない。

人間の判断能力が
快と不快の数多の重なり合わせでしかないという説とも
つなげても良いかも知れない。

だが本質的に違うことは
二値判断を何度も繰り返す場合
それは本来的にディフォルメではないと言うことだ。
つまり、この方法論は
ディフォルメしながら強力に細分化しているのだ。



最初の話を引っぱり出そう。

認識は、細分化と統合の不確かな妥協だと言うこと。

究極の情報伝達は
対象について、必要な情報を伝えること。
そして、しかし、
その対象が、別の対象とは別のものだという情報も
伝えなければならない。
それが細分化だ。
石が二つあって
それを同一のものだとは言わないだろう。

だが同じ、石。
石というカテゴライズは細分化とは相反した働きだ。
別のものを同じものとして扱う機能が
実は情報伝達には不可欠なのだ。

それは一重に
受信側が受信しやすい情報へディフォルメする
ためだとも言える。

細分化がなければ
他のあらゆるものから対象を切り取れない。
だのに
それを認識するのにどうして
カテゴライズ(統合)が必要なのか。
ここに認識など
大して正確な機能ではない
と思わせられる矛盾がある。



空の境界、というかの有名な作品に
そう言う言語(統合機能を持たず、
細分化機能しか保たないと言う意味)を扱える
キャラクターが登場し
髪型を変えただけで相手を認識できずにやられると言う
何とも滑稽なシーンがあった。
(そのキャラが今までどうやって生きてきたのかは
突っ込まないようにする)

統合機能を持たないと言うのはそう言うことだ。

余談だが
かのキャラは
細分化については正確無比な能力を持っている
という記述があったが
統合機能を持たないと言う記述は一切なく
細分化可能=統合不可
という設定を暗に無理矢理通している面があって
私は腑に落ちなかった。



バベルの崩壊以前に普及していた言語とは
つまり情報の齟齬がなく
正確に伝達できる極限的な細分化機能と
最高の伝達性をもつ記号だったのだろう。
ゲド戦記に登場する「真の名」も細分化という点においては
まあこういうものに近いだろうか。

情報の正確な伝達という点に置いて
細分化が必要であるというのに
その受信に置いては
細分化された情報をわざわざ統合しなければならない。
もしくはこうだ。

敢えて細分化せずに伝える。

これがディフォルメの方法論だろう。



積極性ディフォルメと
消極性ディフォルメがあると思う。

消極性ディフォルメはその情報がもつ特性の大小を
その大小に比例して顕著化させるもの。

積極性ディフォルメは
実際の属性に関わらず
自分の伝えたい側面だけを顕著化させるもの。

単に度合いではなく、
加工方法として別物と扱うべきだろう。



もう少し話を戻す。
たとえば猫が驚いている光景で
毛がびりびりと逆立って尻尾をぴんと立て、目を点にしているような表現。
絵だろうが文だろうが同じに、
実際にそうなるならないに関わらず
それが伝達に適しているという理由で
必要な側面のみを作り上げたり顕著化したりしている。
積極性ディフォルメにはいるだろう。

それは細分化ではなく
統合機能に属す方法論なのだ。

もっと最初に戻る。
絵描きさんと文書きさんは
無限にあるシチュエーションを伝えるために
状況を咀嚼してディフォルメすると言っていたが

このとおり
ディフォルメという方法論では
無限は伝えられない。
πをおよそ3とする手法では円は完成しない。


無限に細分化されたシチュエーションは
それを強く伝えようとすればするほどに
隣にあるもの、もしくは反対側にあるものと
区別できなくなるのだ。

たとえば
右手を相手の頬に添えて
目を瞑ってキスをするような描写。
下半身の動きについては触れていないし
左手をどうしているかさえ書いていないかも知れない。
シチェーションが無限であるということなら
心理描写も必要だろうしそれも無数にある。
が、書き手はそれが絵だろうが文だろうが
必要な部分しか書かない。

「違う部分をだけ強調して書いていけばディフォルメになる」
「何」と、違う部分だろうかと言うことになる。
それを「違う」とすることで効果を持つだろう対象は
書き手の作品内部にとどまらず、
読み手の経験さえ考慮せねばならない。
描写されない部分は
恐らくそのどちらかから無意識のうちに
インヘリタンスをうけ、
同一の属性とメソッドを持つことになり
即ちその部分に置いて、差違は無視される。

そして
その差違を書いていくと
結局ディフォルメではなく
「筆舌を尽くす」ことになってしまう。

いつでも
こういう矛盾と向き合って妥協を迫られるのだ。
絵や文と言った
表現と伝達を主とする活動に置いて
それは宿命とも言えることだ。

そしてこの宿命を抱えているからこそ
それを打破しようとするものでもある。

絵描きさんと文書きさんが
追求しようとしたのはこの宿命を打ち破る方法を
表現方法に見いだそうとしてのことだっただろう。

私はそれを諦めているので
その話から離脱した。
私の悲観的な観点で彼等の可能性を潰しても仕方がない。たとえば
右手を相手の頬に添えて
目を瞑ってキスをするような描写。
下半身の動きについては触れていないし
左手をどうしているかさえ書いていないかも知れない。
シチェーションが無限であるということなら
心理描写も必要だろうしそれも無数にある。
が、書き手はそれが絵だろうが文だろうが
必要な部分しか書かない。

「違う部分をだけ強調して書いていけばディフォルメになる」
「何」と、違う部分だろうかと言うことになる。
それを「違う」とすることで効果を持つだろう対象は
書き手の作品内部にとどまらず、
読み手の経験さえ考慮せねばならない。
描写されない部分は
恐らくそのどちらかから無意識のうちに
インヘリタンスをうけ、
同一の属性とメソッドを持つことになり
即ちその部分に置いて、差違は無視される。

そして
その差違を書いていくと
結局ディフォルメではなく
「筆舌を尽くす」ことになってしまう。

いつでも
こういう矛盾と向き合って妥協を迫られるのだ。
絵や文と言った
表現と伝達を主とする活動に置いて
それは宿命とも言えることだ。

そしてこの宿命を抱えているからこそ
それを打破しようとするものでもある。

絵描きさんと文書きさんが
追求しようとしたのはこの宿命を打ち破る方法を
表現方法に見いだそうとしてのことだっただろう。

私はそれを諦めているので
その話から離脱した。
私の悲観的な観点で彼等の可能性を潰しても仕方がない。



ディフォルメされて、
顕著化されずに抑圧された要素はどうなるのか。
認識されずに、存在しないことになる。
もしくはあらゆる状態が重なり合った状態で存在する。
どちらにせよ、認知できない。
こうして重ね合わされない二値へ近付いた情報は
そのとおり
無限どころか2へ近付いて行く。

結局無限を表現するのには無限を書かず
ただし細分化するために統合しないという
矛盾への妥協だけがそこにあるのだ。

どちらが良いとかどうすべきとか
そう言う話ではない。
単に自分に中でどう蹴りを付けるかの話だ。

実際、情報伝達で必要なのは
細分化でもなく
ディフォルメでもなく
一重に
相手の通信プロトコルを理解すること
に尽きると思う。
そして、ぶっちゃけそんなことは出来ない。

レイヤーのように
重ね合わさりながらでしか
実態をもち得ない認識世界に置いて
経験だけが
帰納的にその方法を教えてくれる。
公式はない。

私が離脱時に
「結局好きにするしかないですよね」
といったのは
つまりそう言うことだったのだけど
まあ説明するのがめんどくさかった。

面白かったのは
その「妥協点を探る話」を
絵描きさんと文書きさんという
表現手法の異なる二人が意気投合して同じ方を見据えて考えていたこと。
非常に面白いというか
根底で繋がる何か
(何かを表現したいとか物を作るとかそういう表層的なものではなく)
の存在をひしひしと感じた。



ちなみに、
相手のプロトコルを理解する、なんてさ。
ここまで書き連ねてきたようなひねくれた考えを展開する私が
そんなこと出来るわけもない。

従って
絵でも文でも
相手のことなど考えて作れないのだ。
絵はまああきらめがついているとして
文について、
やはり絵でその際に苦しんで腐らせてしまったことを
二度と繰り返すまい。

最初から人に読ませる気などなく
書いていて楽しい
吐き出したいことだけ人目も気にせず吐き出す

そんなスタンスで、私は良い。

だからコンペとか順列が出力される場は
興味はあるけど
そこへは出さない。
出した瞬間に相手のことを考えるという
私には不可能な壁が現れるから。

それが自分への戒め。

「いい文章」と人に思わせる作品をかける人って言うのは
これが最低限の能力として上手なんだろうな
その上でさらに何か上乗せされている。
私はその能力がないから
たまーにいる、
私の言いたいことを汲み取る我慢ができる方
の内、
私の持っている何かを好きになってくれる人だけが
評価をくれるんでしょう。

すっげー細い入り口w
手の中にある何かに期待するのは諦めようw



蛇足だけど
最後に
「盲人はいかにして色を知るか」
について。
私は
盲人の世界に色は存在しない
が答えだと思っています。
存在するけど知りえないのではなく存在しない。

レイヤーが重ね合わさった世界とはそういうことです。
認識できないものは存在しない。
ただし、存在する世界が他に沢山重なっているから
存在していることになっているだけ。

それを唯一打破できるポイントは
「共感覚」という現象の中に見出せると思うのですが
その辺を絡めてものを考えている話を聞いたことがない。

サピア=ウォーフの仮説も
結局あんまり調べてないな。

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