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【日記】挫折に向けて

「みこうが帰ってくるには挫折してからが一番なんだけどな」
「まあ、挫折、したくないですけど近い将来の事だと思いますよ」



札幌に帰ったときに血縁ではないが
小学校くらいの時からお世話になっている人。
血縁ではない故に血縁よりもいろんな事を相談している人。

GWに近況報告で飲みに行ってきて
いろんな事を話しました。
里帰りする度に会ってます。

○○という変わった職業に就いている方で
いろんな見聞がある。
長年その職業でやってきていてそれ自体も確かなことだと思う。

頻繁に里帰りしてる方だと思うんですが
里帰りしてこの方と話さないで帰るのは
もったいないという感じになっています。


話を元に戻します。

東京に出てきて
恐ろしいくらい世界が広がりました。
日々が、札幌では出来ないようなことばかりです。
可能ならばこちらに永住したいです。

が、それは現実的ではない。

母も祖母もほかの血縁も、
一部(いとこ)を除いて全て北海道にいる。
そして私は一人っ子だ。
その先は語らずともわかると思うが
いずれ北海道に帰らねばならない。(父親も心配だが)


ああ、もう。
全てが東京にあるというのに。
私が私として満足しうる全ての要素は
全て全て全て東京にあるというのに。

それでも近い将来札幌に帰る日が来るだろう。



「挫折すればいい」

「挫折」
にはすごくいろんな意味が含まれていた。

その人は私が絵や文を書いているのを知っているし
人間関係の多くをこちらで築いているのも知っているし
こちらでいろんな活動をしているのも知っている。
その上で言っている。

挫折という言葉に複数の時間軸を持ってみるなれば
その意味は様々に変わる。
挫折するだろう将来を見れば、忌まわしい。
挫折した過去を振り返れば
私の置かれた立場を全て包括すると
そう、挫折して帰ったという状態が一番望ましいのだ。

そういう意味で
帰ってくるときには挫折していればいい、
の意図が大きかったのだろうと思うし
自分でもそうなってから帰りたいと思う。

今のまま帰ったら
私は抜け殻みたいになる。
仕事も探さないだろう。

たとえ、
たとえ全くこれから
絵も
文も
人間関係も
その他の娯楽全ても
全く同じ水準でシフトし続けるものだとしても
諦めてからやめたい。
やめてから諦めるのには、おそらく大きな苦痛を伴う。



なんだかんだと愚痴をこぼしながらでも
日々絵や文を書いたり歌を歌ったりしてるのは
プロになろうとしているわけではないが
自分の主体をその上においてしまっても平気な
そういう土台をそれらの技術で作り上げられるかという
チャレンジになっているのではないか。


その人としゃべっていて感じたずれの一つに
「趣味」
という言葉の捉え方があった。
趣味とは自己満足でありそれ以上のものではないという。
それ以上になると
「プロ意識」(飯を食っているかどうかではなく)
になるのだという。

だがどうだろうか。
同人活動をやっている人のおそらく大多数は
そういった「趣味」ではない気がする。
職業にせずとも人に見てもらう事を前提に表現し
もう一歩踏み込むとそこに「自己」を確立する。

当人たちはそれを、しかし「趣味」と称するのだ。

私もその例に漏れない。

その違いを
会話をする上で逐一翻訳しなければならなかった。

それは年齢の違いか?
土地柄の違いか?
身をおいている世界の違いか?

わからない。


ただ、ひとついえるのは
「挫折して札幌に帰る」
という事について必要なことは
その違いを統一し
「自己確立趣味」から「自己満足の趣味」へのシフト
だという点だろう。

そして、札幌に帰ることは
単に札幌へ戻るだけの意味に留まらない。

大人からみた大人にならないといけないという事だ。
こんな風に自分がどうだとか
新しい世界がとか
ものの本質とか
理想とか
夢とか
貨幣以外の価値とか
そういう現実的に不要なものに対して
心の底から不要だと思えるようにならないといけないという事だ。

「挫折」とは
追いかけることをやめ
そういったものへの興味を失うことではなく
生活とか現実へ昇華することなのだろう。

それは
実際に追いかけている最中の多くの人からすれば
敗北であり
言葉通りの挫折であり
それは
今の私から見ても同じで

でも月日を経て
「それでよかったんだと思える自分」になること
それが求められているのだろう。

それが
現実
だ。

私は選ばれた人間じゃない。
平凡か、
いやそれでもこう言うことに縋り付いている時点で
平凡未満の人間だ。


話がそれて。
私が中学高校だった頃
とあるつながりで
大学をでたくらいの年の
マンガを書いている方と知り合った。
その人がゆった言葉。

「この年でまだ絵とか書いてると、
小学校とか中学校とかの頃に一緒に絵を書いていた友人にあったら、
『まだ書いてるんだ、すごい』
っていわれるんだよ?
すごくねーよ。
やめられなかっただけだし。
やめたお前等の方がすげーよ、って(笑」

聞いたときもショックだった。
そうか、普通はやめていくんだよな、と。
今反芻してもショックだ。
まさに私はそこに立っているのだから。

その人が今どうしているのか、私は知らない。
同じように、
高校時代か、それ以前に一緒に絵を書いていた友人に
今も書いている人は、おそらくいない。

私も、潮時なのだろうか。

長すぎて、それを抜いた自分を想像できない。
ただ作っていれば気持ちいい段階は
もう高校くらいで終わってしまっている。

人に見せ
自分を認めて貰うことが目標だった。
それ以外に自分を肯定する手段を持たなかったから。
それは自分の表現であって
自分がしたいことをすることが前提だ。
それをなすために評価のために
表現を変えて
環境変化に耐えられるほど
私は器用ではなかった。

根本が自己満足でしかないのに
私は何を求めているのだろう。
高望みも甚だしい。


「自分を認めて欲しくて書いてるんだもん」
「だったらもっと受けのいいもの書けばいいのに」
「それは評価されたくてやることだ。違う。」

この差がわかって貰えないことが多いですね。


評価されたくて書いてるんじゃない。
自分を肯定したくて書いてるんだ。


でも。

私の作る文も絵も
みこう悠長を体現はするかも知れないが
○○というその中の人間を確立するものではない。

最初からわかっているのだ
みこう悠長という仮想の人称さえ、
強く打ち出せるような存在ではないという事を。
それが作り出す作品が
自分自身の足場になりうるほど
評価されるものではないという事を。

そしてぼちぼち感じているのだ。
もう私の能力では限界なのだと。
続けるだけ無駄だという事も。

わかっているのに。
問題なのはそれをあっさりと捨てられ無いくらいに
私という自己統一性に深く食い込んでしまっていることだ。


近い将来
私は
「自己満足の趣味」へと「挫折」する事だろう。

その証として
今現在も
今自分の持っている能力をひっさげて
同人イベントに出続けるモチベーションが著しく下がっている。

酷く悲しいことだ。
悔しいことだ。
惨めなことだ。

だが認めざるを得ないのだろう
「捨ててよかった」と
後から振り返るような人間になる必要性を。

新しい価値観の前に今の私は殺されなければならない。

殺されるのは嫌だ。
でも、害虫を駆除するのと同じように
今の私は駆除されるべきで
殺されるのは嫌だからと
必死で逃げ回っているのが今の私だ。



別にプロデビューを目指して東京に来たわけでもないのに
それなのにこちらでいろんなものを見つけて手に入れてしまったのが
そもそもの間違いだったのだろうか。




「挫折してからがいいな」
というその人の言葉を非難しているのではない。
理性的に考えればその通りであって
そうあるべきであって
複数の時間軸を持てばという点で言って
帰る頃に
それらを捨ててセイセイしているような自分になっているのが
一番苦しまずにすむのは当たり前のことだ。

「挫折は、したくない」

それ以上の言葉を私は返せなかった。
すがりついているだけの自分に、どこかで気づいていたから。



札幌に帰った後は
札幌で開催されてる同人イベントに細々と参加したり
今のようにネット上での活動をし
ごくまれに本州に出てきて遊ぶような生活になるはずだ。

そういう挫折を経た後であれば
創作活動をやめているかも知れない。
逆に、
今みたいに平日の拘束時間が高い仕事ではなくなって
ネット上での創作活動は多くなるかも知れない。

どちらに転ぶにせよ
そろそろ自分の限界がきているのだ
能力的なところと時間的なところ
その両方で迫られている。
おそらく逃げ場はない。

札幌にかえって抜け殻にならないように
それはそれで充実した生活に出来るように
今から何か備えをしなければならないだろうか。

一番必要なのは

全力出しても何も変えられないことを
理性ではなく体で知ってしまうこと

かも知れないな。

暗めの文章とアニメみたいな絵。
その二つをくっつけて何かをつくろうとしている。
それをやってさえも、それは行き止まりなのだと
袋小路の3Dダンジョンをマッピングするのだ。


挫折に向かって進もう。
泣きながら、脱皮せねばならぬ。

別に今の生活を変える訳じゃない。
今だって一歩一歩挫折に進んでいるのだ。
日々自分の能力のなさに打ちのめされているのだから
今のままで、いいだろう。

第何十幼成を経ても
アラタ体を除去されたみたいに。

ほっといても、この害虫は、幼虫のまま、死ぬ。

それが望ましいと思える自分に生まれ変われるでしょうか。




とかいいながら
洞爺湖でアニメフェスティバルとかやる時代だ。
もしかしたら悲観しなくてもいいのかも知れない。
と、まだ諦めきれない私は考えてしまうのでした。

この記事へのコメント

Re: 【日記】挫折に向けて

> すごくねーよ。
> やめられなかっただけだし。
> やめたお前等の方がすげーよ

実によく解るw
生活の中から創作が消えた後の自分を上手く想定できないような、できるような。
然し僕の創作は完全に趣味なので、いつの間にか生活に圧されてやる時間がなくなり、消滅してしまいそうだなとも感じています。または、形を変えて表出されるようになるのかどうなのか……。
結局最後にはなるようにしかならないのでしょうね。('ω')

畢竟僕らに出来る事とは、即ち僕らに出来る事に過ぎぬ、と……。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

Re: 【日記】挫折に向けて

なるほど、やめれた人とやめれなかった人ですか。

Re: 【日記】挫折に向けて

【在処さま】
>結局最後にはなるようにしかならない
>畢竟僕らに出来る事とは、即ち僕らに出来る事に過ぎぬ
そうなんでしょうねえ。
なのになんで「もっとやらなきゃ」って頑張ってしまうのか
それがよい作用をもたらすことは間違いないんですが
何故私は悪いほうにはたらくのかとw
人間力がっ!足らない!ww

【半月さま】
実際にあし突っ込んで抜け出せない泥沼に陥らないと
実感持てない感覚かもしれませんが…
どっちが凄いのかと言うのも局面によりけり表裏一体なんでしょうねえ。
続けていればいいってもんでもないのかなって思います、自分見てると。

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