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かげ。

きてぃがい文。




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 影を消す。
 もちろん完全にはできない。それでも限りなく無影にする事は可能だ。今の技術があれば、闇を極小に納め、地球上からそれを失わせることとて、さほどの困難ではなかったのだ。
 平坦に、ひたすらに平坦にして、全てを平面となだらかな局面だけで構成し、徹底的に光源を設置するんだ。光が途切れることは許されない。光の範囲に隙間ができることは許されない。隈無く隈無く凹凸を滅し、光源を設置する。
 この世界に、影があっては、ならないのだ。



 影。
 それは光の陰に生じる、無明の空間。光子の照射がない、反射しない、ということらしいが、そんなことはリフォーム業者や国の研究機関、家具製造メーカー、服飾企画屋に任せておけばいい。それら全てに光源が備わり、凹凸はなく、影は生じぬよう、徹底される。細かいことはどうでもいい。大切なのは余すところ無く光に満たされ、影というものが生じないということだ。暗い、という状態が存在しないということだ。
 これは、人類全体の願いだ。



 暗部、という言葉は隠され見えぬ、後ろめたく公表がはばかられる部分だ。事象の明瞭不明瞭について、光量の多寡をもちいてそれを表現するのは、「秘密とかけて暗黒と説く。その心は」「見えないから怖い」である。
 暗部を秘密と置くのは比喩に他ならないのだが、言語の漂白化を経てその二者は今や等価。そんな法則誰が証明したでもないが、秘密とは暗い陰に集積する影のようなもので、影こそ秘密そのものという構図に、今やさほどの違和感はない。
 だから我々は、不可視化された負を抹消しようとした。
 「人間は火を使い、闇を削って生きてきた。」とは、誰の言葉だったか。だが今は違う。闇を削るのは、不可視化された闇をおそれるからじゃない。その裏側に流れる、もっと陰鬱とした粘っこい流れを断ち切るための、その悪足掻き。
 なにもかもを明るみに晒し、可視化し、秘密を滅して理解と許容を求める。



 人間は、秘匿したい核心の鍵の重さと、知りたい相手の全ての錠の重さを天秤に掛け、倉を開け放って光を取り入れることを選択したのだ。
 賢明な選択だ。客観的に利が勝る、妥当な選択だ。秘密を保持して守れるのは個。ただ一つ。全てを明かして得られるのは全。それら全て。そして明かされた秘密故に、秘密ではなくなる代わりにそれは守られるのだ。



 全てを可視化するその可視な行動として、影の全滅を、それこそ狂ったように、人間達は、押し進めた。全ての構築物はその姿を変え、全ての暗部は明部の一部に組み入れられる。全てがわかり、全てが見え、何者も秘匿されず、あらゆるものが透過する。
 それはとてもとても気持ちのよいもので。
 慣れてしまえばそれは奇妙な心地よさを伴うのだ。
 あの陰になにがある、あの奥になにが隠れている。そんな恐れが一切消え失せる。見えないことが恐怖になり、見えるように全てを塗り替える。
 変化は加速度的に加速してゆく。



 しかして、そう、物質的な暗部の消滅は、予想外に早く、予想外の範囲で、予想外の確度に収まった。
 世界に昼も夜もなく、世界に暗いも明るいも無い。光と闇の二元論は意味を失い、世界は全く全く幸福の理想郷。
 無影化の動きは次の局面へ進む。そう、それこそその究極的な終局点。抽象的な陰を削り取り、その影に光を当てて殺して回るのだ。全てが明かされ、人は平等な光明に満たされて幸福となる。暗いことと隠すこと、それ自体が後ろめたく。全てを晒し、代わりにその他全てを知り得る立場にこそ縋り、はて、これは一種の宗教のようですらあった。



 個性を消し去るのではない。
 それによって、他を完全に理解できるのだ。
 全ての事物の成立は、ある一定レベルにおいての矛盾しない段階が積み上げられることに因る。自分とは相容れない存在の成立にも矛盾しない説得力があり、それの全てが可視化されているのだからそれを否定できない。受け入れ認め、尊重する。秘匿が悪でただの弊害でしかなかったのだと感じ始めたとき、内面と抽象への光、もとい、その解放と開示も、インフラの如く必要とされ、雪崩を打って設置されることとなる。
 心地よい、世界の、始まりだった。



 暗部が容認された時代は、その開示と隠匿の恣意的な選択、そしてその選択の差別化によって、個々に差違は生じたように見え、その凹凸による摩擦こそが人間関係だったのだ。
 全てに光を当て自己と他者の全てを晒すことで、自らが自らに恐怖する要因を互いに容認する契約は、人間関係というものに大きな変化をもたらすこととなる。
 蓋を開けてみれば個性など、まさにジャイアントキリングの幻想に等しかった。よほどのことがない限り、個を個たらしめ自己と他者を分け隔てるに値するほどの個性など、なかったのである。
 ごく限られた一部の人間だけがその優越性を有し、その言葉を用い得る。しかしそれでも、多くの者にとってこの光明は、まさに救いの光だった。情報の氾濫する世界にどっぷりと浸かった人間は、自分が何者かであることよりも、自分がどこに所属するかの確認に躍起になっていたのである。
 また個性を許可された者は、必ずしもその個性を喜ばず、現にその殆どが持てる優越性を嘆き、捨て去りたいと考え、それを得たことによって他者との乖離に苦しむこととなった。同時に同一を願う凡庸で代替可能な大衆は、その嘆きに追い打ちを浴びせ、優越性は一転、差別へとつながる。
 個性を持つ者の間に、影を望む声が、生じた。



 個性と非個性の線引きについて、これを明確に示したものはない。国際法はおろか、旧い国家の枠の中にのみ適用が許されるRC(ReagionCommittee)においてさえそれは明記されておらず、それを持たぬと謳歌する者の小さな声の集積、帰納、マイニングによって消去法的に枠どられた窮めて脆弱な境界を持つだけの、いわば歪んだナショナリズムとして喧伝されるに留まっていたのである。
 民衆とは、凡庸なる個をいっこの細胞とする、不定形の巨大なモンスターに他なら無い。だがそれは、大昔からある民衆の姿であり、別段新しい時代の幕開け、というわけではなかった。大衆とは、何時の時代もそうして自らを作り出していたのだから。ただ違うのは、今はその怪物が、明確に正の走光性を有していることくらいだった。



 新しい時代の、新しくもない形成段階を踏んだ、新しい人間関係とは、摩擦から自己認識へのすり替えであった。
 つるつるに磨かれ影も凹凸もない他者と接して得るのは、もはや凹凸の摩擦による熱ではない。鏡面に写る自分自身の痛感。他者を知ることであった人間関係は、相手に自分を映して自分を知ることへ変化した。相手と会話して、しかし会話の相手は相手ではなく自分。自分の全てを開示するのが通例である今、手探りで相手を知るような煩わしさはない。相手を知り、自分と比べ、自分をさらに深く知る。
 哲学的内観的に高尚化され、しかし熱はなく明るいだけで冷え冷えとしたそれは、それゆえに、客観を尊しとした民衆の喜びにも深く結びつくこととなる。
 主観ばかりを押し通しても、齟齬はいつまで経っても消えず、摩擦を伴う熱い人間関係は散らすその火花に、必ず争いの種を孕ませていたことを、人間は理解したのだ。



 僕は明るい部屋が嫌いだった。
 いや、そうではない。正確には暗いところにいると安心できたというアンチテーゼとして、明るさへの嫌悪を抱いていたに過ぎない。
 僕は闇が好きだった。



 周囲の人が、何でもその内なる部分を見せてくれたので、僕もそれを見せる。返報性。だのにそれを身た周りの人は、僕を指さしてこういうんだ。
 「こいつ、違うぞ」と。
 僕はいわゆる個性の持ち主だったのだろうか。
 他の人は僕を見てそういう。どの輪にも溶け込むことが出来ず、人のどの内面を聞かされても違和感を覚える。そして、差別される。
 だがそんな差違は僕から見れば些細なもので、差別的行為を被る度に僕はいつも叫んでいたのだ。
 「こんなの、個性の内に入らない」って。誰も納得はしちゃくれなかったけれど。
 だからといって他の人たちと同じになりたいとは思わなかった。感じる違和感はやはり違和感としてのこり続け、喉に刺さった小骨みたいにちくちくと僕を苛み、またそれを飲むことは出来ない。皆の言うことがわからなくはない。自分の言うことがずれているというのも見えなくはない。それでも、それを正すのも、違う気がしていたし、ある部分については自分が正しくて、世界が間違っているとさえ思ってしまっていた。
 この差違を個性というのなら、個性とは何と苦しいものか。これは、病気なのではないか。精神的な、いや、脳の器質的な問題に起因するのであれば、そうであるのかもしれない。
 とにかく、直す気がないし直せる気もせず、愛おしくもあり憎らしくもある、内包されたアンビバレンスは、しかしこの世界においては隠しおおすことそのものが悪だった。



 人に言いたくない。
 闇が生まれた。



 闇を抱えて隠すことに慣れ、かげが心地よくそれなしには生きられなくなった。
 自分に都合の悪いことは陰に置いておいて、代わりの虚像を提示するのだ。偽物を相手に見せて、さあ、これがと見せてごまかす。それによって僕の感じている違和感は、強制を免れると同時に差別されることもなく、これは本当にすばらしいことだと感じた。
 陰は、隠すことは、影は、闇は、生きるための手段として何と都合のよいことか。何と心地よいことか。暗いところにいれば醜い自分の顔だって見られずにすむ。
 えっと、こんな状態をなんて言うんだったっけ。



 その状態を、嘘、と人は呼ぶ。
 だが僕はもう、麻薬へ縋るように、それを手放すことは出来なかった。隠すことが、心地よくてたまらなかった。
 そのくせ相手からは、光だけ……いや、どうだろう?



 闇を抱えて生きるのはしかし同時に大変な困難を伴った。
 一番僕を苦しめたのは、相手も僕と同じなのではないかという疑心暗鬼だった。自分の中にだけあるはずの影。だがそれと同じものが相手にもないとは限らない。その影が何なのかは知り得ないが、言動の一つ一つを疑ってみてしまう。
 あいつは僕に何かを隠してる。
 僕がこの違和感を隠しているのと同じように、相手も何かを隠していたっておかしくはない。いや、本当はおかしいのだ。世界は明るさに満たされて、人間は影を嫌っている。全ては清廉潔白で、明朗明快。目の前のこいつも、隠し事をして隠し事をされるより、全てを晒して全てを知った方がいいと思っているはずなのだ。それでも疑ってしまう。
 内面にある影。それが、相手の中にうつって見える。影は闇は暗がりは、僕の中にあるものなのに、それを相手にも押しつけてしまうなんて。僕はひどい悪人に違いなかった。濡れ衣なのだ。相手の影は、僕の幻覚に過ぎない。
 それでも。



「お前、僕のこと、本当は嫌いなんだろう?」



 知りたい。
 相手が抱えている闇の中身を。
 影の有無を。
 密かに抱いている僕への感情を。
 いい感情か?いや、おそらく悪いものだ。だって相手が僕なのだから。後ろ指さされて排斥され続けた僕を、さあ、少々隠した程度でよく見るはずがない。お前もわかってるんだろ?感じてるんだろ?僕が影を抱いていることを。
 知りたい。
 なにかくしてんだ。
 裏でこそこそ、言いふらしてんじゃねえ。
 僕の陰口。
 そう、陰でこそこそ陰口、言ってるんだろ。
 言ってなくても、思ってるんだろ。
 うざい。
 しかも僕の目の前ではいい面して、そんなことないよなんていって。口だけではどうとでも言える。
 わかってるんだよ、自分の負の面が。それにお前がつけ込まないはずがない。
 性格悪いことも、顔が不細工なことも、ひねくれ者なところも、なにやっても下手くそなところも、要領が悪いところも、わかってるんだ。それを、どうせ、陰で、影で。



 世界が光明で満たされているなんて、嘘だ。
 嘘か?
 それを嘘だと思うのは、僕が影を飼っているからじゃないのか?
 僕が隠し事をしているから、相手にも隠し事があるように見えるだけじゃないのか?世界に対して後ろめたいのは僕だけなんじゃないのか?



 でも、もはやそんなことはどうでもいい。
 今は、今は、お前達が隠しているそれが知りたい。
 なに隠してるんだ、うざい。
 陰なんて、影なんて。



 影なんてなくなればいい。



 結局、僕は──

この記事へのコメント

Re: かげ。

>>「秘密とかけて暗黒と説く。その心は」「見えないから怖い」

ここから色々と考えてしまいます。

結局個(自分相手含め)が全て明るいわけじゃないから疑心暗鬼になっちゃいますよね。。。

僕も自分の人と違うところを極力隠して生きてきました。

だからこその地位や名誉はありましたがね、。

Re: かげ。

影がなくなればとは都会派だ・・・
人と違うところをだすと、とりあえず衝突してましたね。
嘘を学んでいきたい。

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