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【創作】罪悪感と快感と創作と寿命差と

今日は午後から自社で集会→懇親会らしいです。
朝からまったりモードです。
なのになんで昨日早く寝たんだろう。


勤務先で、左となりと後ろしかいない端っこの席にいるんですが
左となりが家族がインフルエンザにかかったので休み
後ろはこないだまでインフルエンザだった
ということで
なにこの状態。こわい。



本題




◆国語教科書の定番教材問題

というのがあるようです。
私自身細かく調べたわけでもないので
その問題の詳細についてはよくわかりませんし
このエントリは国語教科書の定番教材問題を取り上げるつもりもありません。
単純にそういう事象があるのだなというところから始まった
ただの自省の記事です。

戦後の教育で用いられる国語教材には
なぜかいろいろな教科書でしかも長い間採用され続け、
いわゆる定番となっているものがある。
そういった定番教材には、
サバイバーズ・ギルトをソフトに刺激する教材が多いのだという。

サバイバーズ・ギルトってのはアレです
周りがみんな死んじゃったのに自分だけ生き残ってる罪悪感
ってやつです。
「死」でなくてもいいんでしょうけどね。
たとえば陸上の選手権みたいな話でもいいのかもしれません。




◆敗戦意識と反戦意識と罪悪感と美徳

それは戦後教育での「反戦意識の植え付け」というか
もっと汚い言い方をすると「敗戦意識の高揚」みたいな背景があるきがする。

これはおそらく
大多数の、良識を持った、一般的で善良な、日本国民からは
非常にけしからんといわれることだと思いますが
私個人としては
「いつまで戦争引きずってんの?」
って思うんです。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
でも正直に感じています。

なんとなく
「日本は戦争を仕掛けちゃったんだ」
「日本は戦争に負けたんだ」
っていう後ろめたさを延々と引きずったままきていないかなと思う。

そういう罪悪感を自らに課すことで気持ちよくなるっていう感じですかね。
未だにそういう部分があって罪人である事への美意識みたいな
よくわからない空気があるきがする。
「悔い改めろ悔い改めろ悔い改めろ悔い改めろ悔い改めろ悔い改めろ悔い改めろ」
みたいな。

なんか非常に自分自身のことのように聞こえてきましたが……。

おそらくそんなものは高度経済成長を経て
安定成長に入った辺りで捨てるべきだったんじゃないかと思う。
今またこうして不況になり閉塞感を持った社会が見えたとき
こびり付いてまだ落としきれてないそういうものが顔お出してやいないか。

教科書の定番教材って言うのは
そういう「敗戦意識の高揚」をくすぐるものが多いんじゃないかな。
残された私達は、戦争を語り継ぐべき私達は
って言うのから、
戦争という額縁だけ巧妙に取り除いて
サバイバーズ・ギルトと絡み合って生き残っているみたいな。

それには日本人の生死観とかも出てくるのかもしれませんが……。





◆教科書におけるサバイバーズ・ギルト

私個人として
国語の教科書に載っていた教材というのにたいして
今振り返ると
「あっれ、こんな面白いこと、あの頃やってたんだ。またよみたいわぁ」
って言うのが少なからずあるんですが
確かに振り返ってみると
サバイバーズ・ギルトを刺激して問いかけてくる作品が異様に多い気がする。

そして私は、そういうものが余り好きではないということにも気づかされた。
好きか嫌いか、で言っちゃうと語弊がありそうですね。
後味とか読んでいる印象が悪いから好きじゃないのではなくて
テーマそのものに陳腐性を感じるというか

どの作品でも同じことを問いかけてきているように感じられる。
(つまりその同じことというのは、「生き残った側問題」に還元されるということ)


「羅生門」にしてもそう
「高瀬舟」にしてもそう
「そしてトンキーも死んだ」にしてもそう
「お母さんの木」にしてもそう
「ごんぎつね」にしてもそう
「いのちということ」の一部にしてもそう

国語の問題を解いていて
「またこの手の感情か。去年もおんなじような答え書いたな、違う教材で」
って思っていた。

色をつけるための舞台装置が違うだけで
問題が求めてくる答えというのはなんら変わっちゃいなかったので
感情そのものよりもその舞台装置を探すことが必要になって面倒くさかったし
そうだとわかってしまえばこんな簡単な題材はなかった。



この手の話には複数のパターンがあると思うが
単純に死に直面させてくる話と
愛の仮面を被って裏側に死を意識させてくる話が
その複数のパターンの中には含まれる。

学生の教材として後者はふさわしくないと判断されるのだろうこともあって
教科書ではそうそうみない
だが学生を終えて外を見てみるとそういう作品のなんと多いことか!
余談だが話題のノルウェイの森も後者のパターンとして、そうだった。
私が作家として好きな村山由佳の「天使の梯子」もそうだった。


語弊を恐れず言ってしまえば
戦争を題材にしていようといまいと
生者に枷をつけようとする思想に
もう飽き飽きしていたのだろう。

「死んでいるくせに、生きているやつを邪魔するな!
 私もいずれそっちに行く。遅いか早いか、それだけの話だ。
 だから、頼むから死んでる分際で生きてるやつを邪魔しないでくれ!」
って思うわけです。

生き残った側の感情を掻き立てる、という教材では
私個人としては
吉野弘「I was born」
が今のところ一番好きですね。
舞台装置が少なくて、でも必要なことは語っていて
ミニマムにまとまっている感じがいい。
いろいろと読んでもここに帰ってきちゃう。




◆死者の鎖に縛られる快感

だが不思議なことに
そうやって死者の鎖に雁字搦めになっている
哀れな生者という構図に
われわれは快感を感じるのだ。
悲劇の登場人物になる快感とでもいうか。

サバイバーズ・ギルトをくすぐる作品というのは
倫理観に触れながら読者の快感を引き出すらしい。
何故それが快感につながるのかはわからないが
悲劇の登場人物というのはいつの時代も美しいものらしい。



戦後の敗戦意識高揚に効果をもたらす教材の採用と
それを用いた教育というのは
こういった快感を強くしてやいないか。
うーん、少し違うな。
教育そのものが与えているというよりは
そういうものが「定番として教科書に取り入れられる」という
ステータスを勝ち得ているという
その状況か。
「残された者の罪を美徳として快感化すること」の強化に
輪をかけている気がする。



そうまでしてこれからを生きる人間に枷をはめたいか?



「いつまで戦争引きずってんの?」っていう
私の持つ不謹慎な考えも、これに準じます。

Mだよね。
縛られて快感なんだぜ?

勿論作品によっては
最後にその縛りを解放することをカタルシスとして描きますが
それは作品の構成として
最後まで語るか否か
という問題な気がしています。





◆罪の意識をくすぐりながら、その罪を美化する

だから、
サバイバーズ・ギルトを扱った作品というのは
非常に理にかなった創作手法ともいえる。
同時に私は余り好きじゃない。


好きじゃないって言うか
テーマ的には飽きてしまった。
舞台装置の秀逸さなどを見る分には楽しいのだけど
いいたいことって空虚。
ああいや、空虚ではないんだけど
「そのコレクティブアイテムは既に所持しています」


生き残った側は死者を意識して今の生に感謝しました
生き残った側は死者に縛られて今の生で苦しみました


近い将来での相手の死がわかっていながら
だからこそ今の生を謳歌しよう
って言うのは

愛していた人が死に別の人との愛に苦しむ
なんていうのは

まさにその鎖の典型例なわけですよね。
気持ちいいでしょう?そういう作品。

悲劇は「快感」として
完成されたエンターテイメント
だと思うんです。

単純に私はそういう縛りを美徳にするのが
勿論自分も快感を感じながらも
本当にそうあるべきなのか疑問があるという点で
好きになれないのです。





◆寿命差、というジャンル


まあ私が今作った言葉なんですけど。
教科書の教材、一般の書籍に縛らずにいけば
ライトノベルやら漫画、アニメ、なんてメディアも
表現手法という道具については
共通で使えるものも多いでしょう。


私は余り本を読む人間ではありません。
いや、昔はそれなりに読んでたんですけどね。
年をとるごとに読まなくなってきていて
ああ、これはよくないな、と思っているしだいです。


そんな私でも食傷してしまうのが
これまで書いてきた
サバイバーズ・ギルトを扱った作品であり

現実世界を舞台として設置しない
ラノベやアニメ、漫画、ゲームでは
これを扱う方法の幅が比較にならないほど多い。


そこで自分が今どっぷり浸かっている
「東方」というジャンルに着目してみましょうか。

自ずと「寿命差モノ」が語られますよね。
いろいろな種族が共存している世界だからこそ
寿命差をキーとしたサバイバーズ・ギルトを用いた作品が
ひとつのジャンルとしてまとめられるほどの力を持っている。


これがひとつ
なんといいますか
国語の教材定番化問題と同じ側面を持っている気がするんですよね。
ニュアンスは違うんですけど
なんか、空気感というか。
生死を分かつ悲しみに打ち震える美徳、的なものを強化しうる。

上記に書いた理由で
実はこの「寿命差モノ」だけは
どうしても好きになれない。
いや、嫌いってほどでもないし
やはり、舞台装置を眺めて楽しむことはできるんですけれど
テーマはまったく楽しめない。
縛られて快感なのか、って思っちゃう。
その手の悲劇はもう飽きた。


私がもこてるが大好きな理由のひとつには
輝夜、妹紅の二人にだけフォーカスしている限りは
サバイバーズ・ギルトが絶対に起こりえないから。
勿論こいつら不老不死だから少しでも周囲に目を逸らすと
他のどのキャラよりもギルティなんですが。

その点で言うと幽々子紫ネタってのは好きになる要因大きいんですけどね。
いろんなものを引きずりながらも、
別に置いていく置いていかれるの関係になっていないというのが。



個人的には
寿命なんて下らないもののために別れるのなんてもったいない
って思っちゃうんですよね。

だから私の中の俺設定上は
魔理沙は~だし咲夜は~だし
……おっとこんな夜更けに誰だろう




◆初めて、書いてみた

と、ぼやいていても仕方がないというか
食わず嫌いで言っていても仕方がないので
まだ公開はしていませんが
一本「残されたものの立場」を扱った作品を書いてみました。

公開される頃にはこの記事のことは忘れていることと思います。

挿絵を描いてくださる方にいったん提出したところ
その人の印象としては悪くないようだったので
ほっとしています。
それでも、生き残る側の葛藤とかそういうものを
巧くかけたかどうかは極めで心配です。




◆死の現実

死別の悲劇の快感を好む人に限って
生と死に重さの差を「躍起になって」つけようとするきらいがある気がする。

悲劇で綺麗に死ねば美談だが
ぼろ雑巾のように死ぬのは許せないとか。

勿論その重さが鎖の重さになることを考えると
その思想は至極当然なのかもしれませんが。

現実を見たら
通り魔にあっさり意味もなく殺される人もいれば
誰かを守って代わりに死ぬ人だっているが
その人に襲い掛かる死神も
周りの人にもたらされる影響も
なんらかわりはしない。

単純に、残された人間が
自分への悲しみの説明として別の何かを引っ張り出すだけで
当人にとってではなく
周囲が救いを得て自己満足するかどうかだけの問題だ。

生と死に重さの差をつけるなんて
傲慢だと思いませんか。

死はドラマじゃない。点としての現象だ。
それをドラマにさせるのは、生きた人間の、救いを求める弱さだ。



さっきも書いたけれど、
サバイバーズ・ギルトによる快感は私も感じる。

これを感じるということは
自分の中に、
生者としての確固たる軸を築けていない弱さがあるということ。

私の人生が未熟です。

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