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【思考】不老不死への欲求について

私は「死を美化する」考えが嫌いだ。
それに付属する
「死別」を気持ちよがる考えも嫌いだ。
それは以前
http://monostation.blog112.fc2.com/blog-entry-2176.html
に書いたのと通じている

私にはそれは諦めにしか見えないし
死という自分の意思ではないものに
勝手にゴール時点を設定されているのも非常に腹立たしい。

私がそんな感じのことを口にすると
幾らかの人は必ず反論してきて
「死なないのは恐ろしいことだよ」と囁いてくるわけですが
私の心にはどうしても届かない。

あともう一つあるのが
「不老不死を望むのがいけないことだ」という空気感がイヤ。
何一様に死にたがってるの?って気がしてならないんですよね。
どうせ「じゃあ今すぐ死ねよ」っていったら死なないのにさ。

その「不死に対する拒否感」って
小さい頃から読んだり聞かされたりしてきた
フィクションの世界で
なぜか悪者ばかりが不老不死を求めたり
不老不死は不幸になるという作品ばかりがあふれていて
それに引っ張られて植えつけられたイメージだけでゆってるようにみえる。
みんな本当に考えてるのか疑問なんです。

不老不死=不幸
っていう結果ありきで考えていないか?

順当に考えれば
「死にたくない」
は極めて素直な欲求じゃないのか?

それって
おなかすいた
とか
せっくすしたい
とかと同じか
それよりももっと強い欲求で
否定することじゃない気がする。

勿論
暴飲暴食や強姦みたいに
それを振りかざすのはよくないけど
不死性を振りかざさずに
不死と歩むことだってできるはずだろう。

できないの?

その辺の完全な否定がないのに
「不死は不幸だよ」
という結果だけが皆の目指す共通認識にすえられて
皆がそれを口々に言うのが
なんとなく納得いかない。



ここにいい質問があったので紹介したい。
http://q.hatena.ne.jp/1129466660

多分質問者の方は私と同じような考え方だ。
少なくとも死を
不老不死を積極的に完全に無価値化しうる理由がない、という感じ。

ここでのやり取りを見てわかるとおり
ほとんどの人の多くの「よく聞く」回答が
再質問によって打破されています。

そして私もその再質問と同じ程度の見解は持っていて
つまりこれが今まで不死への希望を口にして否定されたときの
不満足感の数であると思って読んでいました。

たまに来る「否定要素になりうる否定意見」も
気の持ちようであるとか
可能性でしかないとか
つまり
不死を完全否定するに足るものではないなと思ってみていました。


この中ほど以降で登場する
「興味というものが尽き得る可能性について」
「孤独ではない不老不死について」

私の中ではもっとも大きなファクターです。

私が不死を望む理由は
死が怖いからではなく
死がもたらす結果が望ましいと思っていないからであって
それは
「時間不足」と「愛別離苦」が
決定的に死によって回避できないものとなっているから。




先のURLの質問者さんと私が違う大きなポイントの一つには
「私はそんな向こう側まで見た上で不老不死になりたいと望んでいるのではない」
ということ。

余談だけど、
質問者さんの再質問?に

抜粋-------------------------------------
(質問があり)
【回答】
・潔くない、美しくない。
【コメント】
潔くはないと思います。美しさについては分かりかねます。
-----------------------------------------

という言葉があって、
こっちについてはかなり共感できる。

不老不死否定派は、何かと潔さと美しさを引き合いだすが
潔さに価値が見出せるなら不死を望みなどしないし、そもそも潔さに意味はない。
美しさになど、どうあっても意味などない。
潔さと美しさこそ、死への諦めを補強する後付の言い訳でしかない。



で。
つまり先に述べた
「時間不足」「愛別離苦」を回避したいという
もっと短絡的な欲求。
これが私が不老不死を求める理由だ。

不死になった先にこれこれこういう不幸があるよ
といくら言われたとしても
納得はいかない。
コレまで述べたとおり
不死を完全に不幸だと決定しうる事実はほとんどなく
何より

そうねえ。
たとえば。

部屋がもう炎でまかれていて待っていれば焼死確実。
窓の外は3階。
飛び降りる人のその心理に近いのかもしれない。

HPが残り20で
満腹度0%
手元には腐ったおにぎりしかなければ
腐ったおにぎり食うだろう。

交通事故で死に掛けてるところで
「僕と契約して魔法少女になってよ」
って言われたらしちゃうような感じ。
生き延びられる上に少女になれるなんt


仮に百歩譲って不死が毒だと証明されたとして
不死という毒が自分を壊すのは
目の前にある死と言う絶望によって自分が壊れるよりも
遥か後の話だ。

先の死を儚んで今死ぬか?
それは最初に述べた
「百年後どうせ死ぬ?じゃあ今死ねよ」で死ねないのと同じだ。

私が不死を望むのは単純にその程度の短絡的なものであって
でもそれを否定しえるものなんてないと思うんですよね。

私なんて
高々30年足らずですけど
生きていて
「これってどういうことなんだろうという興味」が尽きたことなどない。
「こいつとは二度と会えなくても構わない」と思えた人などいない。
この感覚は、永遠になれば「絶対に」価値を失うのでしょうか?


このサイトも面白い。
http://homepage3.nifty.com/logical/column141.html
やはり不老不死の話になると必ず出てくるのが火の鳥ですね。
どうにも不老不死の負の面ばかりが描かれてると語られる作品ですが

抜粋----------------------------------
手塚治虫が否定したかったのは、
「不老不死」が絶対の幸福である、という幻想だけだったんじゃないかな。
しかし絶対の不幸である事は敢えて肯定しなかった。
------------------------------------------
コレには非常に強く賛同する。

そしてもう一つ言うには

火の鳥全編を読んで面白かったという感想を持つということは
永遠の命や神の視点といわれるものを楽しんでいるといえるはずだ。
それは
長い時間に対してその変化を観察することへの
少なくとも飽食はないことへの提言になるのではないか。
「すべてに興味を失って」という可能性を
火の鳥という作品を楽しんだことそのものが否定しうる。かも知れない。



抜粋--------------------------------
A:そう。誤解を恐れずに言えば、
人間はセックスをする為に「不老不死」を諦めたんだ。
略---------------
B:こういう結論を待っていたんですよ!
  セックスじゃない。出会いです。
  出会いの為に「不老不死」を諦めた
  ――「不老不死」を捨て去った代償が“出会い”だなんて
  素敵じゃないですか!
A:しかしなぁ、出会いというのは結局セッ――
B:あー、もう良いですから。
------------------------------------
いい言葉w

セックスのために不老不死を捨てたというのは
記紀神話の
コノハナサクヤヒメとイワナガヒメのエピソードそのものですね!w

長く続くものは醜い、という先入観はこの時代から既にあるというのか。
なんとも釈然としない。
何でそんなに滅びを美化するのだ?

でも本当は両方欲しいってのが正直なところですよね。



私は未だに不老不死肯定派だ。

ゆえに、もこてる派だ。

あー、はやく慧音にも不死になってもらわんと。

白沢という存在が既に人智を超えているので
「え、慧音も不老不死に決まってるじゃん?白沢だし」
の一言で片付けたい欲求は非常に高い。っていうかそれでいいよね?



火の鳥では孤独だった。
マサトの立場に、輝夜・妹紅・永琳(・慧音)がすっぽり入り込んだら。
輝夜たちは本当に苦しいだろうか?
それなりに楽しく過ごすのではないか?

「ああ、あいつらなら……」
とちょっとでも思うのなら
不死=不幸
という紐付けに、ちょっとばかりの疑問を持つのもいいと思う。

なんていうのかな。
今の空気は
核兵器保有を論じることそのものを封じる空気がある。
不老不死についても似たような空気が歩きがする。

この記事へのコメント

Re: 【思考】不老不死への欲求について

成程・・・結構共感できるところがありました。

自分だけが不老不死って展開だとどうしても「孤独」に目がいきがちですけど、それでも永遠の時間があるわけですから、いくらでもやりたい事が出来るわけで。

実際人間のやりたい事の数って、人生の時間に到底収まるモノじゃないだろうから、不老不死になりたいのは当然の帰結なんでしょうかね。
不老不死になれば膨大な程の不幸があるだろうけど、匹敵するかそれ以上の幸福もあるだろうから。

記事にある「不死の毒」が自分を壊しても、それは一旦死んだだけで、その先には何の可能性も無い「永遠の死」じゃないのだから、生き返るのもまた死ぬのも
思いのままなわけで。

拷問しつづけられる不死(例えば「ジョジョ」のディアボロとか)が与えられたのならともかく、自由がある不老不死だったら私はなってみたいと思います。

Re: 【思考】不老不死への欲求について

まずコメントを始める前提として、不老不死の禁忌化の理由は死そのものの美徳化から来るものではない、というところから始めます。
より厳密に記述するなら、「死を前提とした限りある生命に納得すること」から来るものです。

ええと、みこうさんの言葉を借りて説明しますと。
「死にたくない」
と考えることは確かに普通なんです。でも、普通は、
「でもいつか死んでしまう」
と納得してしまうんです。

そこに不老不死ですよ。
みんな「いつか死んでしまう」と納得した後に、後出しで反則技が来るわけです。
みんなは口々にこう言います。「反則だ」「理不尽だ」と。

つまり不老不死の禁忌化は、やっかみ、ひがみ、それから自分の常識を守りたいという固定観念から来るものだと思います。
本能に根ざした固定観念ですからね。強烈ですよ。

と、一般論を語ったところで、ここから本題。

記事の本題は、「不老不死は本当に不幸になるかどうか」ですね。
私の考えた答えは、「幸福にはなりうるだろうが、その道は険しい」というものです。
何せ永遠ですからね。障害は無限にあります。
その無限にある障害で、一度でも心を折られたらそれまでです。
ここでいう「心を折られる」とは、「精神の死」か、それに直結するほどの致命傷を意味するものと思ってください。
で、心を折られた時点で、それまで幸福だったとしても、最終的にはそれ以降永遠に不幸になりました、おしまい、と。
不老不死者が幸福になるとは、このリスクを全て回避し続けるということです。未来永劫無限に。そりゃ険しかろうて。

何が言いたいかというと、不死人同士で生きる理由を求め合えるもこてるは存在が卑怯。
そもそもこれまでの不老不死に関する論考で考えられてきたのは、「孤独な不老不死」が前提でしたからね。そりゃもこてるなら、永遠に幸福でもおかしくないわな。

余談ですが、不老不死についての問題を全て解決する方法が一つあります。全世界で不老不死になることです。
色んな意味で、何もかもどうでもよくなりますね。

Re: 【思考】不老不死への欲求について

「禍福は糾える縄の如し」
人はそう言って自分を慰めます。
だのに、無限に生きていると不幸だけが増えるというのは、どうしてでしょうか。
世界には不幸の方が絶対数が多い、という証明があるなら、まだわかります。
(私もやたら不幸の方が多い気はします)
だがそれを無く
ある時点で不幸になったその時点だけを切り取って
「ほら不幸になっただろう?」
というのは
そりゃ、特定地点を恣意的に切り取ればいつかはなるに決まってるだろ、
と思うんですよね。
そこを切り取りがちなのが
「不死=不幸という前提ありきの思考」
だと思うんです。
余りに出来レースの思考じゃないですかね。
なら、ある地点で幸福であって
「はいこれ以降は幸福でしためでたし」
ならばよいのか。

障害が無限にあるというのは
命が無限であるからであって
命が有限であれば障害は有限です。
つまり、有限の命も不死も、その条件は変わることはなく、
不死が不幸だとするには不満足です。


これは不死肯定派の私でさえ否定したい考えだ。
単純に、
不死は完全に絶対に不幸であるという考えを否定したく
幸福もあり
あざなえる縄のごとしであれば
有限の命も無限の命も等しく
単純に時間というチャンスだけは与えられ続ける
(もちろんそのチャンスについて一時的な失敗からの絶望はあるかも知れないが)
それが不死だという考え方は
「否定し得ない」。
つまり
不死=不幸という考えは、余りに驕傲である。
と思います。

本能、という言葉が出てきましたが
恐らく
「自分を否定されたくない」を本能とおくなら
「死を恐れる」のも等しく本能です。

今生きていて
何もかも巧く行かないと思っている私ですが
不死ならそれが解決するなどとは思っていません
ただ
「次もある」という希望を持ち続けられるという点で
有限の命よりは「救いの可能性が高い」と思うのです。

一度心を折られて終わり、というのは何故でしょう。
生きていて立ち直る人がいるとおり
有限の命があっても絶望から立ち直る人がいます。
無限の命を得るとその可能性が消えるという根拠がわかりません。
何らかの拍子に立ち直るコトはあると思うし
必ずしも
「永遠の命ならば折れてそれで終わりになる」
というところも条件などが不明で
そのままであれば
永遠の命=不幸
を成立させる論拠とはなり得ないように見えます。

仰るとおり
不老不死で語られるのは
必ず孤独がつきまといます。
だがそこで「もこてるは卑怯」というのは思考停止ではないでしょうか。
つまり、永遠の命というモノが実現したのなら、
それ同士の付き合い方などを考えるというのは
当然のステップであって、当たり前だと思いますし
「不死は孤独をセットに考えなければならない」
という根拠も特にないと思います。

解決するのに「全世界の不老不死」がありますが
それを「何もかもどうでもよくなる」とするのもただの思考停止ではないでしょうか。

不幸方向に考えれば幾らでも不幸方向に考えられます。
私も生きていてマイナス思考に偏りがちです。
その私をしても
余りに恣意的にマイナスばかりを選択していやしないかと思います。

結局
「永遠なんて卑怯」
という本能?が、
「死にたくない」という本能に対して
実現可能性が高いために
そちらに縋ろうとしているだけ何じゃないでしょうか。
それは
不死=不幸
を決定づける根拠たり得ません。

勿論不死=幸福だとは思いませんが。

当然、
ディアボロのような状況なら不死は不幸です。
それは
世界は生きている限り不幸量の方が多い
という前提が逢ってこそ成立するはずです。
それが言及されていない限り
それは成立し得ません。

そうなるかも知れないし
ならないかも知れないという
有限の命と何も変わらない解が現れるだけなのではないでしょうか。

そうして死別することを
美しい話とする傾向がある
この感覚はどうして説明できますか。
生きていても別にいいはずなのに
死んで
二度と会えない二度と思いを伝えられないという
悲劇をコソ美しいと思う
この思考は
死を美化していることとは違うのでしょうか。

かくいう私もそう感じる一人であり
同時に悔しく思います。
「何で死んでなきゃいけないんだよ。」

Re: 【思考】不老不死への欲求について

地球がなくなった後、何十億年もカーズみたいに
宇宙を漂うだけの人生って辛くない?

Re: 【思考】不老不死への欲求について

色々解釈がすれ違いましたね、捕捉します。
心が折られる可能性については、私は不死だからこそ起こりうる、などとは考えていません。普通の命だろうと、平等に起こるものだと考えています。
私は、価値観が根っこから折られて立ち直りに時間がかかる(場合によっては立ち直っても引きずる)ものを挫折と定義し、精神が根っこから折られて立ち直れなくなるものを絶望と定義しています。
勿論、その本当の根こそぎの絶望が起こる可能性は低いものなんですけど、低かろうと確かにあるものなのであれば、不死という無限遠の期間にその確率を乗算すれば、絶望に合間見える可能性は他の人よりはるかに多くなるだろう、と。繰り返しますが、勿論普通の人にも絶望は起こりえます。

しかし考えてみれば、この「絶望=それ以降立ち直れない」というのも、有限の命に捉われているがゆえの私の勝手な思い込みかも知れません。
どうでしょうね。私が「これはもう無理だ、絶望だ」と考えるレベルの話であっても、命に期間が設けられていなければ、長い時間さえかければ立ち直れるものなんでしょうかね。
実際にはどうかわかりませんが、フィクション上であれば、立ち直ってもおかしくはないのかも。

ええ、今さら言いますが、私は不死=不幸という恣意的な考え方をしているつもりはありませんよ。
つもりがないだけで、それはしているんだよと言われると私にはわからなくなりますが。

>永遠の命というモノが実現したのなら、
>それ同士の付き合い方などを考えるというのは
>当然のステップであって、当たり前
ああ、これはなんというか、別にもこてるを否定したいわけじゃなくて。
「今まで考えてた人が『不老不死は孤独』という前提で考えたなら、私たちもその前提で考えなきゃいけないんじゃないかな」
という、私の頭の固さから来たものです。
確かに、次のステップを考えてもいいのなら、そうしてもいいんでしょう。
みんなでもっともこてるやえーてるについて語り合おうぜ。ていうか不死人が複数いて一緒に生きる作品は東方以外にももっとあってもいいよね。私が知らないだけかも知れませんが。

>それを「何もかもどうでもよくなる」とするのもただの思考停止ではないでしょうか。
私は「どうでもよくなる」というのを、マイナスの意味で使ったわけではないですよ(これは言葉の選び方が悪かったか)。
全世界で不老不死になると、生命に対する考え方が根本から変わるわけで、倫理観とか本能とかが全く別のステージに移るわけです。
そりゃあ、有限の生に捉われてた今までの考え方は「どうでもよくなる」んじゃないかな、と思ったまでで。
……どうなんでしょうね。私なんかはもう想像が追いつかなくなってるんですけど、
全世界不老不死がどんな世界なのか、考えるべきなんでしょうか。誰か考えてくれないかなぁ。

>不死=不幸
>を決定づける根拠たり得ません。
まあ私が挙げたのは、本能的にそう言ってしまうっていう一般論ですから。根拠にはなってませんわな。感情論だもの。

>そうして死別することを
>美しい話とする傾向がある
悲劇の美化が目指すものは悲劇の美化であって、死の美化は付随的に起こっているものだ、というのが原因かと。
あれです、別に悲劇が目指すものは死じゃなくてもいいんですよ。悲劇は悲劇として価値ある物語の形なわけで。死は題材の一つに過ぎません。
……なんかこれ以上反論しづらいな。考察材料が足りない。語りたければ、悲劇についてもう一度考え直す必要があるかも知れません。
(もう一つの原因として、死という避けられないおぞましいものを遺された人が納得するために美化するという側面も無くはないですが、これは悲劇の美化とは論点が別にあると思う)

だいたいこんなもんかなぁ。まだ反論あれば受け付けます。

Re: 【思考】不老不死への欲求について

えー、半日考えて、こっちの考えに見落としがあったので、ちょいと追記。
まず、絶望させられるほどの障害に遭う確率×永遠の命=理論上は無限、みたいなことを言いましたが、
不死人が精神的に成長したり、障害に対する対策を取ったりする可能性を失念していました。
もしもこれによって、不幸や障害に遭う確率を減らせた場合、歳を経るごとにその確率はゼロに近づいていくことになります(一定の割合で減らせること前提で話してますが)。
たとえば、輝夜が生まれてから一万年生きるまでに、絶望する確率が10%だったとして、その一万年によって輝夜が成長して、次の一万年に絶望する確率を半分の5%にまで減らせた場合。その次の一万年はさらに半分、その次はさらに半分……となっていき、結果、輝夜は永遠の命のうちに一度でも絶望して廃人になる確率は、20%にまで留まります(数字はテキトーです)。

もっとも、人間みんながちゃんと成長できるとは限りません、中には永遠を生きることで愚かになっていく場合などもあるでしょう。そうした場合、年月を積み重ねるほど確率は跳ね上がっていき、バッドエンド直行ルートということになります。
まあこれを加味したら、結局人それぞれか、ということで落ち着きます。

もう一つ。なぜみこうさんが死の美化にこれだけこだわっているのかいまいちわかっていなかったようなので、確認です(ここから下は出鱈目を言う可能性あります、ご容赦を)。
つまりみこうさんは、死と不死だったら不死のほうがいいに決まってるだろ、と単純に比較しているのでしょうか。
死なないのと生きてるのでは生きているほうがいいに決まっている、だから、死を肯定して受け入れるのが納得できない、と。

この前提でいいのなら、答えは一つで、「生きているほうがいいに決まっているけど、死んでしまったものは仕方が無い」です。
ドラゴンボールでばんばん生き返らせられるならそれでいいし、全員が蓬莱人になれるならそのほうがいいでしょう。勿論、それに伴う苦しみはあるでしょうし、その後絶望することになるかも知れませんが、死んでしまうよりはいいに決まっています(まあ、死と永遠の絶望とどっちがマシかってーと五十歩百歩だと思いますが、それは置いておきましょう)。
でもそうはならない。死は訪れます。それを納得しなければ、受け入れなければいけない。
その諦めに至るまでの激しい葛藤こそが、美化の対象です。
だけど、死を受け入れなくてもよい、不死という逃げ道があるのなら、美化したことを理由に死を選ぶのはおかしい。
もし、それでも不死を免れて死を選ぶというなら、それはもう、死が怖くない理由があるか、生にしがみつく理由が無くなったかのどちらかでしょうね。ある種の悟りの境地でしょう。
(逆に言うと、この悟りの境地の死を邪魔して勝手に延命してしまったら、それは怒られても仕方ない気がする。その人にとって死は既に不幸でもなんでも無くなっているのだから)
今をゼェハァ言いながら何とかかんとか生きている途中の私たちには、たどり着けるかどうかもわからない領域だと思います。

Re: 【思考】不老不死への欲求について

>不死を完全に不幸だと決定しうる事実はほとんどなく
私が持つ宗教に対する疑問に似ているのだけど、
実践することで幸福になるのか、拒否したら実践した場合より本当に幸福になりえないのか。これを証明してくれた人はいません。
証明のし様が無い誠に非常識な質問なのは分かっているけどやはり納得がいかない。
こういうとき二重人格って便利じゃないかと思う。本人格とは別の価値観を持っていて互いに認識できている。友人のような友好な関係。

愛別離苦に関しては不死者の場合のがより多く訪れますね。
不死者が別れたくないと思った人を超能力により不死者にすることが可能でも、
お眼鏡に適わなかったかった方は無念に死んでいきます。主に私です。

同情しあったり傷を舐めあったりするのは悦楽なんでしょうかね。

仮に全世界が不老不死になったら生殖機能の退化や性別の消失やら食事、主に食事が大変そうです。代謝能力の変化で治癒にすさまじい時間が必要で「死んだほうがマシ」というという観念に囚われないことを願うばかりです。

Re: 【思考】不老不死への欲求について

自分を皆が追い抜いていくという例に
教師などの職業があると思います。
勿論卒業生とあったりってコトはあると思うんですけど、
さほど多いとは思えないと思います。
となると、
教師という職業の「反復自体」はただの苦痛と言うことになるのでしょうか。
定年や寿命などでそれを終えることが教師という苦境からの救いと言うことになるのでしょうか。
教師に限らず迎えて送り出す職業
たとえば産婦人科医や新卒採用教育担当の人事なども同じ事だと思います。
つまり、
不死になっても別れと出会いの比は余り変わらない筈で、それは不死特有の苦しみではないと思うと言うことです。
ここで完全孤独封じ込め状態の例としてカーズ出ましたが
まあ、カーズに関しては「思考を停止する能力を持っていた」ようなので、実はそれ以降は苦痛が無飼ったんじゃないでしょうか。
死んでるようなモンですが、それでも恐らく生きているだろうコトは予測されるので
仮に何処かの星にぽとりと落ちたら
そこで思考が何らかの拍子に再起動して新しくやり直せるかも知れません。
もちろんやり直せないかも知れませんが。
まあ思考停止能力についてもカーズだから得られたことかも知れませんが…。

それであっても、私の考え方(いや、感じ方、ですね)では

たとえ1億年後に地球が爆発するとしても
じゃあ残り40年で何とかして
って言われて
「それは厳しい…」って言わないほどの強さが
私にはない
(そして不死拒否派の方々にはある)
ということに帰結するのです。

あー、いけない。
私が少々自分の論とずれることを考慮に入れずに、議論目的の返答をしてしまったのがまずかったですね。
些末な点一つ一つの揚げ足取りになってる。
大局が見失われる。

色々と意見を頂いて
それに対してそれはその通り、
若しくはちょっと違う気がする…
ってのはあるんですけど

集約しておくと
どうしても、
「みんながどうして死んでも構わないと思っているのかの真意が伝わってこない」
んですよね。

教科書の文をそのまま肯定するような回答ばかりで
なんか「ぐっとコない」んです。
ただ、誰かから教わった「いい子」を疑わずに実行しているようで。
「死んでもいいと思うようにしている」
ようにしか見えない。

私に「死んでもいい」と思わせるほどの説得力がある意見がない。

私はこれこれこういう事実があって
死んでも構わない。
生きていることに全く未練なんて無いよ。
若しくは
未練を全く持たずに死にゆく完全な自信がある
っていうのが
全く伝わってこない。

ただの既にそこにある結論(のようなもの)
を手にとって
それで諦めてるようにしか見えないんです。

ええとですね。
まず最初にに思っているのは、

>部屋がもう炎でまかれていて待っていれば焼死確実。
>窓の外は3階。
>飛び降りる人のその心理に近いのかもしれない。
>HPが残り20で
>満腹度0%
>手元には腐ったおにぎりしかなければ
>腐ったおにぎり食うだろう。

です。

「生きている方がいい、死んでいるより」
はまさしくその通りです。
死んでもいいと思っていないし
死んでいる方がいいと思うのなら今死にます。
今何故生きているのか。
生きている方がいいと思っているからに決まっています。
皆さんも生きてる方がいいと思うから今生きてるんですよね?

将来、死んでもいいと諦める(それを悟りという言葉に置き換えても実体は変わらない)為に生きるのが
人生なのでしょうか?

悔いのない生き方をするのが人生であって不死はその障害たり得る、という見方も出来ます。

私が不死を許容しながら
不死拒否派の方に抱いている疑問は二つあります。
第一が「不死を拒否しながら、先にある死を見据えて今死なない疑問」
第二が「先にある死の時迄に悔いを一切消せるという自信を持てている理由に対する疑問」
です。

第一はまあその通りのことなので割愛。
第二は、第一を解決した後の問題だと思うのですが
「諦めるまでに全力を尽くすのが人生」「苦しみ藻掻くことが人生」で
「その苦痛こそが生き甲斐」
という点に恐らく修練されると思います。
不死拒否派の人は本当にそれでいいと思っているのか
非常に疑問です。
「本当に、本当に、本当に、心の底から、苦しみを喜んで許容しているのか?」
という疑問です。
人生に限らず他の何もかも些細なことについて
進んで苦行に飛び込む程、人は、出来た大人なのでしょうか。
まあ多分そうだから、不死は大多数から拒否されるのでしょうけれど。

つまり
第二の疑問は言い換えるならば
「みんなはどうやって、いつ来るかも知れない死に対して悔いを残さずに今を生きているという自信を身につけたのか」
です。

不死拒否派の人は、
今死んでも全く悔いはないってコトですよね。
悔いがあるのに死んでもいいというのは、
ただの諦観な筈です。

勿論、私の「しにたくないしにたくないよ!」
ってのが非常に幼稚な主張なのは自覚しています。
クソも一人で出来ない「いい子」ではない考えなのもわかります。
皆さんは、どうやってそれを乗り越えて成長したのでしょう。

また、乗り越えた方々は
自分が今生きている中で、
次の瞬間死んでも悔いが残らないという全力の生き方を
日々刻々と継続しているのでしょうか。

「んなわけないだろ」とは思っていません。
それがないと不死拒否にはつながらない以上
きっとそうなんだろうと思います。
どうやって、それほどの意志と決意と行動力を身につけたのか。

きっとそれがわかれば
私も「死んでもいい」思えるようになるはずです。

恐らく、
その回答が欲しくて
その回答がこそ、私の気持ちに「クる」回答たり得ると思います。

こうまでかいておいて何ですが
私は結構死にたくなることが多いです。
でも
生きづらいな、生きてるのめんどくさいな、
って思っても
楽しかったことを思い出したりもしますし、
それ以上に、
「私みたいなクソみたいな存在のせいで人生を終えるなんて、絶対にしてやらない。」
という信念が最後の一線になって留まることが多いです。

私は正直生きているのが辛いです。
生きづらいと思います。
自分の性格も、それを取り巻く社会も。

でも、
楽しいこととか生きていると色々あって、
天秤にかけると
自殺したいなんて思わないし
この先もこのままの自分を維持できるなら
死にたいなんて、死んでもいいなんて
思えるとは思いません。
しかしきっとコレは、幼稚なんでしょう。

それともそれでも自分を殺してもいい、生きていて楽しいこともほっぽり出せるようになるコトが成長なのでしょうか。
生きることの楽しみや嬉しさを飽きることが成長なのでしょうか。

あ、まてよ、
そう言うときに
「アレをしてたら楽しかった、アレを思い出せ」
と踏みとどまる私の方法は
狭い世界での快楽、思い通りにいったことを
想起することになっているのか?
つまり万能感に浸るコトで逃避している?
おお、話つながってきたぞ…



死んでもいいという思いに駆られる、という恐れについて
私から見ると、
不死拒否派の方は今既にそうなっているように
私には見えてしまいます。

死に目を瞑り
今というモノが永遠に続くという思いこみの中で
でも死ぬコトくらいわかってるよ
という二つの背理を受け入れることが
一番なのはわかっています。
それが出来ない程私が子供で、
不死拒否派の人には、それを教わりたいのです。

私はきっと
機能的に寿命が無く
深く考えることもない
プラナリアのような下等生物が
似合いだったのでしょう。

Re: 【思考】不老不死への欲求について

切り返しでごめんね。言及がなかったので聞いてみたいんだけど、
 受動的な死は受け入れられないのに能動的な死は許せる疑問。
 自分の自殺は許せないが他人の自殺は許せる疑問。
両方全力で止めて。
>「私みたいなクソみたいな存在のせいで人生を終えるなんて、絶対にしてやらない。」
 みこうさんが喜んでくれるなら死んでもいいよ。実行日はいつにしようか。ああ、どうせなら殺してもらおうかな、貴方に与えるストレスが過大なものになりそうだし。私という存在を印象づけることが出来る。
私の場合他人に対して与える快楽の絶対数が少ないから自分の命でも軽く見れるのかもしれません。

でも受動的な死によるストレスって意外と一過性のものですよね。その瞬間はとても悲しいけれど時間が悲しみを忘れさせて、死者を思い出すことはあれ涙を流すことは減少する。

 ちなみ、不老不死否定ではなく絶対に手に入らない何かを夢想するくらいなら他のことを考える、程度かな。手に入るなら何がなんでもしがみつきますよ。富豪が不老不死のために手変え品変えしたように。
手に入るかもしれない快楽ならそれなりに努力する。誰かのために死ぬことも近似。とても無責任な行為でお手軽な侮辱だし、侮辱に対して否定意見が出せないことによる全能感は、よくある。

もし生まれ変わりということがあるなら二度と人間はやりたくないですね。面倒事が多すぎる。

Re: 【思考】不老不死への欲求について

うーむ。これ以上この話題引っ張るのはみこうさんのためにならない気がしてたからなるべく切りたかったんだけど、それでもツッコミ入れてしまう自分のツッコミ気質が憎い(それともみこうさんもわざとやってるんだろーか)。
ただの離別と死別をひとくくりにするのはちと違うと思います。離別はしばらく会えなくなることを惜しむものですが、死別は永遠に会えなくなる、取り返しのつかないこと、それに加え、身近な人に死という不幸が訪れたことを悲しみ嘆くものです。似てる部分はありますが、差異は大きいかと。
だから、喩えに出すなら、戦時中の軍人か重症・重病患者受け持ちの医者、死別が早いか遅いかの違いしか無さそうな介護職あたりを挙げるべきかと思います。私はどれも、自分でやるのはごめんだなぁ。
ですが、そういう職業も成り立っているわけですから、死別というのも実は、繰り返せばそこまで大した話ではないのかも知れません(まあ軍人は自分が生き残ることと任務とを優先するので手一杯でしょうし、医者や介護職が患者や要介護者にどこまで親身に接しているのかもよく知りませんけど)。

>悔いがあるのに死んでもいいというのは、
>ただの諦観な筈です。
その通り、多くの人にあるのは、ただの諦観です(少なくとも私はそう思う)。
死ってのはそれだけ絶対的な問題です。それを、覚悟するのではなく、多くの人は「ああ、死ぬってのは確かにあるんだなぁ」と納得してしまう。理屈じゃないんですよね。
いずれ死ぬことを覚悟するのではない。死にたくないけど死んじゃうのはしょうがないよね、って、諦める。
ある意味では、それを諦めきれないみこうさんは、非常に強い人間なのだと思います。
まあでも完全に諦めきってるというわけでもなく「いずれ死んじゃうけど、なるべく先送りにしたいなぁ」と曖昧に考えながら、日々を何とかかんとかしのいでいく。
で、そこから不死について考えようとすると、「死は絶対って思ってたからそんなこと言われても」と拒否する人が意外に多くなっちゃうんじゃないでしょうか。自然じゃないとかなんとか、色々理屈もつけたりして。
……私に推測できるのはここまでですね。ガチの不死拒否派の人にも話を聞いてみたいところです。

>この先もこのままの自分を維持できるなら
ここも疑問点ですよね。不死になった後も、自分を自分のまま維持できるのかどうかって、そりゃ不死になってみないとわからない。わからないことだらけです、怖い怖い。
不死になっても、好きなときに不死じゃなくなることができる権利とかもらえれば楽なのにね。それじゃ議論にならないのか。……いやそれでも、不死拒否派は不死を拒否し続けるもんなのか。どうなんでしょうね。

Re: 【思考】不老不死への欲求について

手に入るのなら欲しい。手に入らないのなら…というのはその通りですね。
ただ、不死拒否派の人は
「不死なんて御免だ」ちう強い意志があるみたいなので
そこが私には理解できないのです。

なれるならなりたい、手に入るなら入れたい。
で、手に入らないならいっそ憎む、を実践してるのかなと思います。
それって不老不死になりたいと主張するのと同じくらいに理性的ではないとも思いますけど。

ちょっと!私みたいなクソの存在のせいで人なんて殺しませんよ!?
喜ぶわけないし!自分が死にたくないのに他人を殺したいと思うわけがないじゃないですか!


>受動的な死は受け入れられないのに能動的な死は許せる疑問
>自分の自殺は許せないが他人の自殺は許せる疑問
これに関しては結合して意見を保持しているのでまずそこを述べさせてもらうと
私としては
①受動的な死は受け入れられない
②能動的な死は受け入れられる
③自殺の自殺は自分の問題
④他人の自殺は他人の問題
の4つが共立しています。

①②についてはさんざ述べているので割愛します。
②と③④は同義だと思うのでリンクを張りつつ
③④について。
私個人は現状では自分の自殺は許せません。
というのは、あくまで現状では
苦楽を天秤にかけて生きていて楽しいから
ということであって
生死観や宗教観などという事は全く考えていません。
それと全く同じで④他人の自殺については私は全く無関心です。
勿論生きていてほしいし、
私自身が生を愛する以上、
相手にも生の良さを伝えたいので、
なんらか相談に乗る(わたし何らか力になれるのであれば)ものではありますが
しかし同時にそれは相手に生を強要するものでもありません。

先に述べたように
私は天秤して生の魅力が重くなっているから生きているだけで
もし天秤してどうしても死にたいという人がいれば
わたしはそれを止める権利を持たないと思っています。

誤解なきよう再度つけ足しておくのであれば
死を止める権利は持っていないと思っていますが
死を踏みとどまらせる力を加える権利は持っていると思っています。

つまり、自殺しようとしてる行為を制止して「俺よくやった」とは思えず
相談に乗ってそれを解決することはしたいと思っています。

キツイ言い方をするなら
「死にたい奴は死ねばいい。でも死ぬ前にやれることやって、それからでも遅くないんじゃない?好きな時に死ねるんだし。それでも死にたきゃ死ねばいい。生きたい奴から見て、死んだあとにもう一度殺したいほどに贅沢な方法だけどな」

そう、
案外自分の周囲に発生する死によってもたらされるストレスというのは、
時間とともに思った以上に薄れる気がします。

私はちょっとプラナリアとかに生まれ変わりたいですね。
弱すぎますけど!


そうですよね、不自然と入手不可に対して
なんらか別のもっともらしい理由を付け
それを宗教や倫理と強制的に結び付け
広義の教育によってそれを推奨しているに過ぎず
不死は必ずしも拒否すべき明確な理由を与えられていないんです。

まあその
悟りを持ったりするってのが大人になるという事なのかもしれませんが。
ちょっと私にはまだ早いかな。私は永遠に大人にはなれない気がしますが…。


ここまで色々と話についてきて下さったおふた方には感謝です。
勿論私はわざと続けていました。
誤解なきよう加えておくと、
意見を打倒したいからというよりは意見を深めたいからでした。
自分の意見が徹底的に反論不能に陥るのならばそれも望んでのことです。

不死が最終的に正義でも悪でも私は構わないと思っています。
単に私は今の私の見識では正義だと思っているというだけで。
それを掘り下げる機会が全くなくていつも悶々と考えていました。

だれも、不死について、主張はするが議論はしないのです。

最初の時に書いた通り日本は核兵器を持つべきかどうかの問題と同じ。
核は悪に決まっているという前提が不動のまま結論ありき。
議論は開始される前に封殺され、
納得というよりは洗脳に近い状態で岩のような結果が落ち着いている。

それと同じことが、不死許容or拒否の間にはあると感じていたからでした。

ずっと、小学生くらいの時から、ずっと。
この漫画のヒーローは不老不死を否定してる。不老不死はいことなんだ。
なんで親しい人が死んだら悲しいんだろう。死ぬことは嫌な事なんだろう。
この時点で疑問だった。

お二人+αとは良い意見交換ができたと思います。
もっといろんな人に参画してほしかった気もしますが
不死拒否派の方の中には
多分この記事を読むこと自体が嫌悪だった人もいたんだろうと思います。

「そういう風に育っちゃったから生理的に受け付けないんだ」
というのもこのblog以外の場で複数の方から聞いたので、
それも受け取っておきます。


安楽死と尊厳死/ALS->TLSなどの問題に見られる
「死を望むことを正義とし、生にしがみつくことを悪とすること」への提言というのは
私も以前記事に書いた通りですし
私以外の人もいくらかは感じている筈です。
不死欲求を悪と置く価値観は、
これと通じていると思っています。

生の欲求は否定されるべきではない。

あなたの考えは僕に近い

はじめまして。


僕も不老不死になりたいと思います。そして、管理人様の考えと非常に似通った思考です。
不老不死というものは、いわば変化の連続ないし永続なんだと思うわけですよ。
「え?何言ってるの?」って感じかもしれませんが



人間の体は細胞分裂や代謝によって古い細胞を新しい細胞に変化させています。
でも、決して自己の連続性は断たれませんよね。それは、変わりつづけることができるからです。
環境に対応して変わる。それが、自分を変えない唯一の方法なんです。

それは、普段の生活も同じなんですよ。同じような仕事でも、取引先や経済状況で忙しくも暇にもなります。
それは、自分以外の人がいるからです。相対的な世界の中で、絶対的な自分を確立させるためには、他者との関わりが必要なんです。
すなわち、不老不死を実現させた時に、愛する家族や友達がいれば、別に不幸でもなんでもない。



あるアニメの台詞です。


「たとえ繰り返しても、仲間がそばにいれば悪くない」

「生きる方が戦いだ!」

「僕たちは知っている。わかっていけることも、変わっていけることも。だから明日が欲しいんだ。どんなに苦しくても、変わらない世界は嫌なんだ。」

「死に意味などない。無価値。だが、明智光秀という漢の生は、信長が背負う価値がある。」



一番上の台詞は、不老長寿の敵が悩んでいた不死性に対しての回答です。
孤独に苛まれていたが、斃される間際に主人公はそれを知ります。それに対して、愛する仲間さえいれば、繰り返れる時間を共有できるとしたのです。


2、3番目は同じアニメ。どちらも最終回の台詞ですが、上は生きることの辛さを語っています。
死は楽かもしれません。ですが、辛いことを生きる糧として、その先にある喜びや楽しさを得るために戦う大切さ、世界と向き合う心を言っています。
下は主人公がラスボスについて問われたことへの答え。
絶対に戦争が起こらない代わりに変化がない管理社会より、戦争が起こる゛かも゛しれない自由な世界を望んだのです。
無限の可能性、それは無限の危険性の裏返し。何があるかわからない。でも、それは自分達がそうならない道も選ぶことができる、そんな回答なんです。


最後はゲーム。謀反を起こした光秀を斃した信長が吐いた台詞。
死という事象ではなく、共に歩んでいた生の中で培った友情こそが、その価値観を抱かせました。





不死否定は変わることを恐れ、生きることを諦めたクズに等しい思想としか言いようがありません。
これは個人を否定するわけではなく、死を受け入れるような考えそのものがゴミみたいなもんとしているからです。
世界も自分も生も、自分が素晴らしいと思うことで変えていけるし、永続して楽しんでいけると思います。




だから、ips細胞やテロメラーゼなど、そんな研究に希望をもって、日々の生活をしています。
諦めたら、そこで試合終了ですからね。

Re: あなたの考えは僕に近い

長いところ見て無くて返事が遅くなって申し訳ないです。

>愛する家族や友達がいれば、別に不幸でもなんでもない。
そうですね。
そして不死拒絶の場合、
孤独という状態によってコレを否定するのは一つの定石になっていますが
自分以外が自分をおいていく場合に必ずしも孤独によって絶望に陥るかどうかは断言できませんよね。
仰るとおり自分(以外も含め)は常に変化するのですから、
絶望からでさえ回帰の可能性はあり完全否定は出来ず、
よって不死を孤独で否定しようとする場合、
人類や世界の滅亡を引き合いに出さなければ一部否定にしかならない。
恐らくそれはいつかはやってくるのでしょうけれど、
そこで私はいつ来るかわからない未来を恐れることで
直近数十年で生を全うすることに自信を持つ方法がわからない
ということを常に思っています。
コレについては基本的に回答を貰ったことがありません。

>諦めたら、そこで試合終了ですからね。
そうなんですよね。
でも、不死拒否の方々は、
「受動的な死を受け入れる姿勢に対して積極的である」ということについて
それを「諦め」とは捉えていないようなのです。
勿論気の持ちようの話なのでどうにでも転ぶのでしょうけれど
そうであるならば有限な生も不死も等価なはずであり
不死=不幸を絶対化するには足らない筈なんですよね。



私はとにかく死にたいとは思わない。
そしてそこで、
「自分の持つ不死願望を他の人へ押しつけたいとは思わない」けれど
「不死=不幸が絶対という論を押しつけられるのが鼻持ちならない」
そして大体の場合「それをする人の論は論理的に不足している」という点と
「不死拒否が道徳として信仰されているような」、
「不死肯定拒否を議論さえ出来ないような」
そんな空気が気持ち悪かったという点を総合して行動した場合に
「不死拒否派の理論不足を突く発言をする」という行為に至ったというのが経緯です。

別に不死を拒否する人がいてもいいと思うのですが
不死を拒否する人が「不死拒否を盲信しているその論」だけは打ち消したかった。
それはここまで私やここでコメントを下さった人達で作り上げた経緯が作り上げた通り
どちらかを完全に言い切ることは出来ず、よって肯定しても拒否しても等価なはずです。
その「等価」を成立させた上で、私は「不死を肯定」したいのです。

不老不死実現へ向けて

返信していただきありがとうございます。


不老不死が実現する可能性を多いに持ってる万能細胞。
人の皮膚や髪の毛から作れるips細胞は、テロメア修復と各部分の再生ができることがわかっているので、ガンに分化する恐れを消せば、多いに可能になるはず。


また、脳細胞や神経細胞も再生可能だとわかってきたので、脳死も治すことができる。





つまり、不老不死の実現はあらゆる病気を克服する研究にも繋がるはずなんですよ。
そして、不老不死を普遍的なものにできるので、永遠の孤独を否定できます。

その欲望こそが生きる原動力となっている。だから人間は進化できたんじゃないかと思うんですよね。
ああしたい、こうなりたい。果てしない欲望、おこがましいと批判することそのものが、人類の発展を阻害し、助かるはずの命を見捨てる倫理が、人の姿とは思えません。

私は万能細胞の研究をしてる人には手紙を送り、働きかけはじめています。
返信はきたことがありませんが、諦めるわけにはいかない。だから、与えられるのではなく、勝ち取るために、これからも筆を走らせていきます。

Re: 不老不死実現へ向けて

少し話はずれるかも知れませんが
昨今原発の問題が浮上してきていて
それからみで
「朽ちていった命」という本のことを知りました。

まだ読んではいなくて
webで情報を拾った範囲でのコトになりますが

あの方への治療行為を
「無駄だから止めろ」とするのか
「それでも医学は努力しなければならない」とするのか
非常に難しい問題だと思いますし
結果として
救命に失敗したことと
苦痛を与え続けたことから言うなれば
治療行為そのものに対する問題視が上がることは禁じ得ません。
ただ、「医学としての努力」を放棄するわけにも行かないというのは
これも否定しがたい事実だと思うのです。

で、
コレを永遠の命と言うことに当てはめると
同じ事が言えるのではないでしょうか。
(当該事例においては傷の少ない遺伝子が体に残されていたのか
遺伝子がなければ
現代医療が想定しうる再生医療も施せない可能性があるので
ここはただのたとえだと思ってください)

医学というモノが進歩を望んでいる。
それは病気を克服したいという
人間の「種」としての欲求なのだと思います。

「種として」と付け足すのは、
「個」レベルでは安楽死/尊厳死を望んだり
西洋医学的な方法を望まない人もいるからと捉えてください。

そう言う方々を黙殺するわけではないのですが
それは「既に可能となっている選択肢」なんですよね。
法制度はともかくとして、それは人間自らの意志だけの話。

ところが生きたいという欲求は
コレがそう言った少数派には動じないレベルで推進されている。
だのに「まだ不可能な選択肢」なんですよね。
その欲求を、種として満たそうとしている。

医療の究極は
「死なないこと」ではないのでしょうか。
(それは現代の生死観によるところが大きいのかも知れませんが)


「致死レベルの放射線被曝の人を苦痛から解き放ち救う」
「死なない」

どのようにすれば綺麗に切り離すことが出来るのでしょうか。
恐らく油がしかれたフライパンから目玉焼きを取るような
綺麗な分離は出来ないはずです。

「死なない」という欲求は否定しがたく
それを求めることも否定しがたいはずなのですよね。

だって
「あんた肺炎だから。
うん、死ぬ死ぬ。
医療行為が禁忌技術として封印されていなかった頃は
簡単に直せたらしいんだけど。
今の時代、医者って犯罪者だからねえ。
生まれ変わった次のことでも考えて諦めな」
って世界に生きたいと誰が思うでしょう。


「欲望」を阻止しうるのは
「不可能性」
そして「倫理観」
です。
この二つを見つめ直したときに、
新しいスタンスが見えてくる気がしています。

またまた返信ありがとうございます。

全くみこうさんの仰る通りです。


僕としては死ぬという選択肢がないんですが、選択できる自由は人間にとって最大の幸福だと思うんですよね。


例えに出てきた放射能汚染を受けた人が、治せる技術があれば大多数が受けると治療するでしょう。
それは生きたいという欲望、否定しきれないし、誰かが決めていいわけではないと思うのです。

僕からすれば安楽死というのは本人が望むならまだしも、家族が決めてたりするのは勝手じゃないかと思うんです。
どんなに痛みや苦しみがあっても、諦めないで生きようとする人がいるなに、

「かわいそうだから、楽にしてあげたい」


っていうのは、本人ではなく、家族が見るのが辛いから起こる逃避感情を正当化するためにしてるにすぎないと思うんです。
僕ならどんな状態でも、意識不明でも、生きてくれてたら一番いいんです。
今日は無理でも、明日は話せるようになるかもしれない。
そんな希望は、生きてこそ光があると、信じれるんです。

Re: またまた返信ありがとうございます。

意思の疎通が不可能な相手に対して生を終了させるかどうかについての問題は
http://monostation.blog112.fc2.com/blog-entry-2043.html
で書いた通りなのですが

意思疎通が途絶えてしまっているのなら
一番近しかった人が決めるのは致し方ないと思います。

生きている方が幸せに決まっている、と
「他人に押しつける」訳にもいかないんです。

私が不老不死を肯定することの真意は
「不老不死は一切確実に否定されるべきだ」という意見を否定したい
というコトなのです。

その選択肢と、選択肢を模索する為の議論を厭わないこと。
その忌避が倫理であるとか不可能性によって「慣例的に」「特に理由無く」為されることが
いやなのです。

Re: 【思考】不老不死への欲求について

あなたの意見には賛同します。

 やっぱり生きててナンボですよ。生きて
いれば嫌なこともあるだろうけど、死ぬ必要が
ないなら希望はいくらだってあると思います。
同時に何かを発見する可能性も。

それに皆変わらず元気で一緒にいられるのが一番の
幸せです。

 多くの人は「限りのある命は尊い」って言います
けど、やはり死があるといろいろ問題あると思います。死があるから殺人や遺産の後継ぎ問題、命を狙われて怯えて暮らさなきゃいけなかったり、戦争があったり、と人間関係がギスギスする要因を作っています。そこで僕はそんなことがあってまで有限の命を肯定する必要があるのかと思ってしまうんです。
しかし、人間って頑固ですねぇ、そんなことを口にしようもんなら意固地になって叩くんですから。


 だから僕はあなたみたいに不老不死を肯定する人のがいると嬉しく思います。もし、問題があったら皆で一緒に解決の糸口を考えればいい。夢があった方が楽しいじゃないですか!!

Re: 【思考】不老不死への欲求について

コメント有り難う御座います。
言い方は非常に悪くなってしまうかも知れないですが、
頂いたコメントのような、明快で単純、身近な感覚と印象というのは重要だと思うのです。
不老不死を望むというのは、恐らく私がエントリをしたため、コメントに返答していくような小難しい話は不要なんだと思うんです、本来。
シークさんが考えていらっしゃるような
極々当たり前なテーマであって、
不老不死を望むか望まないかは
トマトが好きか嫌いかと同じレベルでいいと思うんですよね。
私を含め、何故か綺麗だとか潔いだとか結果的に不幸になるだとか高尚(笑)な話にしてしまう。

その上で、不老不死肯定派としては
仰るとおり、命あっての物種、なんですよね。それは何もかも。

こうしてエントリを書いてみると、
幾らか不老不死肯定派の人の言葉をかいま見ることが出来て
とても嬉しく思います。
ここを読んでる人なんて両手の指で数えられるくらいしかいないんですけれど
それでもコメントをいただけると言うことは
やはり抑圧されているだけで
結構な数の同志?がいるのではないかなあと思うに至ります。

Re: 【思考】不老不死への欲求について

 いえいえ、自分が信じているものが共感されないと
いうものは結構つらいもので、やはり同志がいるってことは心強いですよ!だからついコメントをしました(笑)

Re: 【思考】不老不死への欲求について

なんかこう、声の大きい人が、叫んでくれればいいんですけどねえ。
声が大きいからこそ叫べない立場なのかも知れませんけれど。

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