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【ぼやき】「うまれた」という受動態

学生時代は親が大嫌いで
経済的な理由で縛られているからガマンするだけ
経済的に自立できるようになったら解放されるはずだと
中学生の頃からずっと我慢し続け
大学を卒業して就職して一人暮らしするくらい
親が嫌いだった。

いろんなことが巧くいかなくて
生きるのが面倒だと思ったことはあるし
死にたいと思ったこともある。

でも

「よくも生みやがって」

と思ったことはない。

それは多分
親に縛り付けられた環境を
必死にかいくぐって反抗し続け
(でも学校という子供にとっての「社会」でのルールは守って)
それによって
「結果は出なくとも自分の思ったとおりに運ぶように努力はしてきたから」
だと思うんだよね。

結局今の私の状態が
何をやっても中途半端でうだつの上がらない人間になっているのも
すべては私の責任であって
親の責任ではないのだと思うから
「生みやがってこのやろう」
とは思えない。

まあ逆に自分に対する無能感/幼稚な全能感は染み付いちゃったわけだけど。

いろいろに失敗したって親のせいじゃない。自分が悪い。



まあ酷いやり口だったのかもしれない、私のは。

縛り付けられて雁字搦めになったら
それが少しだけ緩むように抵抗をやめて
少し緩んだら緩んだところから抜け出す。

抜け出していることを気付かれないようにだまし続けて
上っ面は従って生きているので
最終的な結果が出る時間的タイミングになるまで
親は疑わしいと思いながらも尻尾をつかめずにいて
最後に大失敗して爆発する。
(当然親のほうが人生経験が在るのだから
縛り付けるほうが正しいことのほうが多いので)

それの繰返しだった。

かといって親に従うほどいい子ではなかったし
それが正しいとわかるほど賢い子でもなかったので
何度もそのパターンを繰り返して
結果として今の私という酷い人間が出来上がっている。

でも
自分で考えてその縄を緩めて緩んだ中で好きなことをし
その結果で自分が巧くいかないという

自己責任感があったから

世の中に対して巧く立ち回れないからって
「何で私を生んだんだ」
という疑問には絶対に結びつかない結果になってもいる。

私は片親だ。
小学校の低学年くらいでもう父親は家にいなかった。

仮にもエロSSとかを
それなりに心情と絡めて書いたりしたりもする
そんなお頭の構造は昔から変わってなくて
そんな身からすると
どうしてあの二人から自分が生まれたんだろう
という疑問はあった。

付け足しておかなければならないのは
「生まれるはずがなかったのにどうして」という部分について
責任を追及するつもりの疑問ではなくて
純粋に不思議だったのだ。
私が物心ついたとき赤ら県下が日常で
中のいい二人など全く想像できなかった。
そんな二人がどうして結婚してどうしてセックスしたのか。


で、高校だか大学高のときに正面切って母親に聞いたこともある。
「何で僕生まれたの?あ、生んでくれるなって意味でなくて。仲悪い頃しか知らないから。」

そしたら
「気の迷い」

と一言で切られた。
「なんじゃそりゃ」(うはwwwまじでwww)

と思ったけど
今になって考えてみりゃ
ありゃあもしかしたら
母親はあんまし答えたくなくてお茶を濁していたのかもしれないな。

実際に口に出してきちんと答えを貰ったって言うのは
どういう結果であれ重要だったと思う。
憶測だけで決めても、何にもならない。

まあそれが
本当にせよごまかしにせよ
「気の迷い」で生まれたといわれても
別にそれ自体にはあんまり恨みはなかったかな。

それを

「うーん、私って何なんだろう」

なんて思ってたのは1年くらいのモンで
「んなこといっても自分は自分だしなあ」
とスグに立ち直ったものです。

それも、
良くも悪くも自分勝手に生きてきた
私の持っている数少ない「自信」なのかもしれません。





ほぼほぼ「自分に非はなく人が悪い悩み事」なんてないんじゃないか。
悩むってことはいくら必ず自分にも責任はあるんじゃないか。
自分の責任をクリアにしないで相手のことを訴追できない。
もしくは相手の責任もろとも自分の責任も捨て去るかどちらかだ。







私は平均して年に一度くらい塞ぎ込みます。大小ありますが。

去年はちょっとひどくてですね。
実際におうちまで心配で見に来てくれた人もいましたし
見に来なかった人もいましたし
メールなどで心配を伝えてくれた人もいましたし
メールくれなかった人もいました。

で、その塞ぎこんだとき
心配して欲しいなんて思っちゃいないんですよ。

でも心配してくれた人をすっごくありがたくは思うんですよね。

かといって
「あの人別に心配してそうに見えなかったし」
なんてことはないんです。

あの人は心配してくれた/あの人はしてくれなかったって、
そもそもそういう区分を自分で引いている時点で
塞ぎこむこと自体が「ポーズ」ということになるっていうのが
そのとき改めてわかった。

ああ、マジで塞ぎ込んだら、そんな区別すらしてる余裕ないわ。
復帰できたことだけが安堵。それ以上は望まない。

そして復帰してみれば、
そんな風に心配の有無での人に対する区分には
区別してる人の私情以外のものなんて挟まってなくて酷く恣意的。

更にその後にいろんな人にあってみれば
結局心配してない人なんていなくて。

それは「心配の大きさ」が幾らかは関わるけど
その人の性格なども絡むものだから
それは心配していなかっただなんて決められない。
相関関係はあるかもしれないけど
因果関係に結び付けられるわけじゃない。

そもそも塞ぎこんだ理由は、心配して欲しいからじゃない。
問題がそこにあってそれを解決することに精一杯だったからだ。

そう考えると、実際に心配してくれたかどうかなんて問題じゃなくて
その後でもう一度受け入れてくれるかどうかだけが問題なのだ。
私は私の問題を解決することで頭がいっぱいで
他の人に対して積極的に関わりにいくエネルギーを割く余裕がなくなる。

でもそれは「関わりたくない」のでもなくて
自分であちこちに動く気力がなかっただけ。
向こうから来てくれたときは嬉しかったし
実際にそれによって気分も状況もかなり好転した。

心配して行動に移した人と移さない人を区別するつもりはないし
心配して欲しかったわけでもない。

でも、行動に移してなんらかアクションを起こしてもらったことについては
本当に感謝している。
別に解決に協力できたかなんてどうでもよくて
気にかけてもらってるんだなってわかるだけでも全然違う。




だから私は

・塞ぎこんだ方は、手を伸ばしてくれた人とそうでない人を恣意的に区別すべきではない。
区別するなら、塞ぎこんでいたのは唯のオナニーだ

・周りで見ている人は「どうせ何も出来ないし」ではなくてとりあえず手を出しはするべき。
見てみぬ振りをするのは、見殺しにするのと等価だ

という二つの立場を主張する。




「生みやがって」だ?
生がクソなのは、手前がクソったれだからだ。
生まれたことを悔やんで死ぬなら、そのクソったれの手前をクソったれと肯定するだけだ。

「死にたい」だ?
止めないけどね。ただ、良いか悪いかじゃなくて、もったいないよ、とだけいっておく。
死にたいといえば心配してくれると思うな。

「心配してくれなかった」だ?
心配して欲しがる余力があるなら、まだまだ余裕だね。
相手に何を期待してるんだ。それにほとんどの人は心配はしてても、何もしちゃくれないよ。

「俺には助けてやれないからほっとく」だ?
何も出来何じゃなくて、何もしたくないんだろ。優しい振りが気持ちいいかい。

「自殺を止めて助けてやった」だ?
命の意味を履き違えてないか。
生きているのは生への肯定の最低条件だしそれを助けたのは評価に値するが、
自殺を止めてその人を救ったつもりなら思い上がりだ。

「助けてくれなんて頼んでない」だ?
だったらどうすればお前を真の意味で助けられるのか誰かに吐露したのか?
世の中超能力者だらけじゃないんだよ。
それに、そういいながら助けて欲しくて自殺するやつが多いんだよね。




結局のところ
お互いの謙虚さが必要で
どっちかが欠けても巧くいかなくて
でも結局欠けるから何もかも巧くいかないように見えるんだよね。

人間って頭悪いよなあ。



この記事へのコメント

Re: 【ぼやき】「うまれた」という受動態

ううん耳が痛いことで。私自身、どちらかというと友人知人の内情には滅多に深くは踏み込まない人間だったりします。
まあ理由の大半は、そもそもそんな他人の事情に関わってる余裕が無いためですが。
でもたまに相談される側に回るハメになると、自然と深く踏み込んでしまいますね。そんなにまで助けたいと思ってのことじゃなく、止めどころがどこなのかがわからないっていう。

見殺しにするのと、助けようとしたのに相手を傷つけてしまったりしてしっぺ返しを食うのと、どっちがマシなんでしょーね。動機に善意があっても、世の中結果だっていう事実は覆せないし、そこは誤魔化しちゃいけない。
友達のためならどこまでも献身的に、というのは確かに理想ですが、私はどっちかっていうと自分の生活サイクルのほうが大事な人間なんで。
冷たいと言われかねない話ですが、しかしこっちだって他人様を上手く助けられる余裕は滅多に無いわけです。下手したらこっちがドツボにはまりかねない。
余力があれば助けたいですけどね。それも含めて、もっと計画性持って動きたいものですが。

しかしまあ自分に余裕があろうが無かろうが、見殺しにしてるっつー事実には変わりないのかなぁ。本当に助けたいなら自分の事情も関係無いですよね。
でもそれで、相手を助けて自分がつまづいて大怪我したら、それは相手のせいにしてしまうのと一緒じゃないのかなぁ。
そういう時に、自分も相手に助けてもらえればそれが理想なんでしょうし、そうしてもらえれば勿論嬉しいでしょう。でも、私は残念ながら、それを期待できる性格じゃない。相手の助けなんて期待しちゃいけない、自分のことは自分でやらなきゃ、と思う。

弱さは罪なんですかね。常に自分の弱さを歯がゆく思う人間としては、なかなか受け入れたくない結論なんですが。
弱かろうがなんだろうが、生きてて何が悪い。それが罪だといわれるほど悪いとは思いたくないですね。
でもやっぱりあんまり人様に迷惑かけたくはないなー。ジレンマです。

Re: Re: 【ぼやき】「うまれた」という受動態

相談するつもりが相手を傷つけるという可能性についてですが
「心配される方」は「する方しなかった方」を区別すべきでない
を含めて謙虚であるべきであって。
心配することとしないことを等価に扱われている以上は、手をかける方は無理のない範囲で手をかければいいと思っています。

私の経験上「最近どうしたさ。飯食いに行こうぜ」とかいって貰えただけでも全然違いましたからね。

言いたいのは
心配してやってるんだよっていう出力はそこそこ
必要なんだと思うってコトです。
(そこそこでいい。過大で当人の負担になってもダメだし恩着せがましくなってもダメ)

じゃあ私が巧くそれをやれるのかというとそんなことはないです。
私はとにかくコミュ力が足らないので無駄にがっついたりもします。
かなりマシに立ち回っても、同じように踏み込みます。

コレは独善なんですけど、
私は無関心で置いておかれることの方が辛いので。
心配しているだけってのは「言うは容易い」ってのと同じだよねって感じですかね。

心配してくれたかどうかを区別したがる人というのは
どうしても区別したがるモノで
(私も昔はそうだった)

「心配している」って便利な言葉だな。
心の中なんて誰ものぞけないんだから、オレが死んだらそのまま無関心でいればいいし、生きていてひょっこり顔を合わせてしまっても「心配してたんだよ」って言えば善人ぶれるからな。

なんて思っていました。
そしてそう思う人は私以外にも少なからずいると思っています。

悪い言い方をすれば心配しているという証拠を突きつけるんですね。
それは無理矢理問題を解決する構い方である必要は無いと思っています。
出来れば出来るに越したことはないですが。

アレです、今回の自信で言えば
被災者全員助けるほど頑張るなんて、個人には無理だし、そんな必要ないんですよ。
自分の財布が許せる範囲で募金をすればいい。
そう言うノリです。

だから自分の生活を崩してまでそれをしろとは思いませんし、
何処まで踏み込むかもその人次第でいいと思ってます。

相手を助けようとして自分が怪我して相手のせいにするのはちょっと問題外すぎますね…相手のせいにするのでは心配しているなんて言葉が嘘だと自分で証明するようなモノですから。
でも心配させてしまった、怪我をさせてしまった方は、正しく負い目を被るべきでもあると思います。

なんて言うんですかね

<---いい人         悪い人--->
    助ける人  助けられる人

みたいな根底があるから
巧く行かないんじゃないかなーって思います。
私もありますしね。
でも本当はそうじゃないんだと思います。

まあいい人ぶって助けて結果がよければそれはそれでいいんでしょうけれど。

で、本当はそんな区別をするモノじゃあないってのも主張です。

お互いに謙虚じゃないと成り立たない。
理想論です。

だからこんなやり方は人間には早いとおもいます。
人間は頭が悪いから、そこで謙虚になりきれない。
私を含めて。私にもこんなコトは、今は出来ない。
でも、その方向に向けて努力はしていきます。


きっと、弱さは罪じゃないです。
ただし、弱さに溺れるのは罪なのだと思います。

Re: 【ぼやき】「うまれた」という受動態

ふーむなるほど。まあ落ち込んでる人にさりげなく話しかけたりという程度なら、普通にやる機会はありますね。
素直に相談内容や愚痴を言ってくれる人が相手だとそのへん楽でいいという面もあります。逆に本気で塞ぎこむ人が相手だと、まあやれることが無い分だけ楽というのはありますが、あまり力になれるケースが少ないですね。

相手の心配が本当かどうか、ってのは、自分ではあまり考えたことがないですね。
というか、相手の気持ちを疑う考え方が私には足りなかったりします。疑って何とかなる気がしないんだよなぁ。腹芸とか超苦手だし。
嘘とか本当とかどうでもいい。本当だって相手が言ってるなら本当だし、嘘だってわかれば嘘だったんだろう。私にできるのは、それをなるべく抵抗無く受け入れるだけです。

大事なのは意思表示、ですか。
相手に示すことが大事、という考え方は今まであまりしていませんでしたね。なるほど。

>相手を助けようとして自分が怪我して相手のせいにするのはちょっと問題外すぎますね…
ああ、ここはちょっと解釈すれ違いましたね。私自身は、私の結果を人のせいにすることはありませんよ。
ただ、客観的に見たら、あるいは相手から見たら、相手のせいにしてることになるんじゃないか、という不安です。

>でも心配させてしまった、怪我をさせてしまった方は、正しく負い目を被るべきでもあると思います。
という部分ですね。相手に負い目をかぶせるくらいなら手を出さないほうが良かったんじゃねーの、と。
……正直言うと、自分で言ってて馬鹿らしいと思いもするんですけどね。私の失敗は私のものじゃないか、それを他の人が責任転嫁するのはおかしいだろ。

>本当はそんな区別をするモノじゃない
これは全く同意ですね。人同士の気遣いに善悪をいちいち差し挟むと身動き取れなくなります。
……言いつつ、そうそう簡単に割り切れない部分もあるのが面倒くさいことで。

>ただし、弱さに溺れるのは罪なのだと思います。
いやはやごもっとも。
弱さに依存したり甘えたりして、厚顔無恥にはなりたくないものです。どんな罰が返ってくるやら。

Re: Re: 【ぼやき】「うまれた」という受動態

> >でも心配させてしまった、怪我をさせてしまった方は、正しく負い目を被るべきでもあると思います。
> という部分ですね。相手に負い目をかぶせるくらいなら手を出さないほうが良かったんじゃねーの、と。
> ……正直言うと、自分で言ってて馬鹿らしいと思いもするんですけどね。私の失敗は私のものじゃないか、それを他の人が責任転嫁するのはおかしいだろ。

そうですよね。
おかしいとはわかっているんですよね。でも割り切れない。私もそうです。
割り切れないことが、足りない一歩なんだと思います。

失敗したとしても、相手に被せると言うより、
相手も過失で被ってしまった、という結果が残るのだと思います。
で、それをそのように受け入れるのが、「恐らく人間には早すぎる謙虚さ」というところで
コレはたぶんその通り、人間という種には早すぎるんだと思いますね。きっと現実的じゃない。
そういうのって多分、アリやハチ、ゴキブリやシロアリには出来て、人間にはなかなか出来ないことですよね。

現実的じゃないというコトの内訳をもっというなら、
自分がそうしていても相手がそうしてくれるかわからないと言うところです。
せめて自分はそうしているくらいしか、できない。

でも、相手がしてくれないから、私もしない、では、いけないですし。

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