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【言葉】違うということ

違うということ

回路というバンドの東方VAです。
切なくて少し元気が出るチルフラ曲。
とてもチルノがかわいい歌詞です。
私は回路は好みが爆発する感じではなくて、じわじわきますね。
想像力が乏しいから聞いてすぐその味に気づけないからだと思いますが。

違いは、その状態は客観として存在し、悪い言い方をすると何の価値も持たないし意味もない。
その事実を無色の客観として受け入れて、それでも同じ世界にいるのだから、違うけど同じで、同じなんだから違うところを補い合えるはず。
違いを悲しんだり相手の違いを責めたりしないようにしよう。そんなイメージ。
チルノかわいい。

今更東方VAは新規で興味もって入ってくる人なんていないでしょうし、そうであれば「回路おすすめ」なんていっても仕方ないんでしょうけど、おすすめです。

一期一会って曲もいいです。
こっちは大好きなCPもこてる曲だからその補正がすごく強いですが。





本題。




まあ違うってことをいちいち突っかからないで認めてくださいよ、ってことですかね。

昨日、テレビ見てたら、
プロフェッショナルて番組の総集編的な回で
「私の座右の銘」みたいなのをやってて
歌舞伎かな?の女形のすごい人(歌舞伎よくわからんので名前覚えてない)の座右の銘で

「型を知っているからこそ型破りができる。型を知らなければ、それはカタ無しだ」

というのをあげていました。
なんか師匠から言われて心に残った言葉らしい。

前にどこかのエントリでかきましたが
たぶんこんな感じの番組でなんかで聞いた
「個性とは、普通が何かわかっている奴がこそ発揮できる」
的な言葉が、
私の好きな言葉でした。
細かい言い回しまで覚えてませんが。

いってることは大体同じだなあ、と思って。
前者は少し芸術とか芸能より、
後者は商売とかビジネスより、
って感じの響きがありますな。

違い、
っていうのは、相対的な言葉ですよね。
んなもん、言われなくてもわかるって話ですが
実際本当にこの言葉を相対的に使っているかというと
必ずしもそうじゃない気がします。

自分、他者1、他者2の関係において、
他者1と他者2の違いをみようとするなら、
これは相対的になるでしょう。
それは比較対象二つともについて、絶対的な見方をできないから。

でも、
自分と他者1、もしくは自分と他者2となると、
相対的な見方ができなくなる場合がある。
自分をどうしても絶対的な基点にしてものをみてしまうことがある。

これを無自覚にやると
違い、ではなくて、間違い、と誤認しかねないと思う。

というのは、自分を絶対的基点に置くような問題について、
自分という存在を否定しうるような観点、
つまり「自分を不確定な相対的な存在だと認めること」は
恐らく本能に近いレベルで否定しようとするからだと思います。

性質の違う相手を認めたくないことがあるというのは
もちろん相手に自分を否定されるからと言う状態もありますが、
この「違い」という言葉を相対的な言葉として扱い切れていないから、という見方もできるんじゃないかなあ。

最初に書いたとおり、
違いという言葉は相対的で、でもその事実だけが無色で毅然として転がっている。
そこに意味も価値もなくて、
相手と自分だろうが、相手と誰かだろうが、誰か同士だろうが、
それは変わらない。

でも少なくとも違う世界にいて違うということを認識しうる程度には、違うと同時に同じ世界にいて。

だからこそ認めるべき。



この違いを認めると言うこと
についても一考の余地があると思っていて、
違いを認めろ、とかいうと、
他者と自分の関係性において、
「他人が違うこと」を許容しろ、
と求める言葉として使われがちだと思います。

そもそもこの考え方自体が、
自分を絶対的な基点においていて、
違いという言葉を相対的に扱いきっていない考え方だと思う。
つまり、違いとはカップリングなわけですよ。
かける数とかけられる数が変わる場合が往々にしてあって
でも頑なに片方しか認めない奴がいる。

違いを認めろ、という言葉は
あの人と比べて「私は違うんだ」という事実を受け入れろ
と言う意味も持っているはずなんです、本当は。

なんか「俺はあいつ等とは違う」とかいうと
中二かよ、とか言われそうでそれはそれで怖いんですけど
ここまでいくと極端かなと思うんです。

というのは、
生きてる世界(視点、思想)は違えても、
同じ世界(空間、時間)に生きていることは変わりがないわけで、
異質と同質を等価に受け入れないといけない。

「個性」もしくは「型破り」というのは
「普遍」「型通り」という同質を認めてこそ、初めて相対的に位置づけられるものであって
その違いも、違うところにいる相手も、
その存在について価値をきちんと認めなければならない。
(存在について。違いそのものは無価値)

同時に
だから、違うことそのものに価値を見いだして、そこに逃げ込むような方法は、厳に避けるべき。
これは価値観が多様化されている現代において、
顕著に現れながら恐らく「自由」の皮膜に覆い隠された弊害じゃないかと思ってます。

少なくとも私は一度これに陥ってしまって
長きにわたって後遺症に悩まされています。



比較的身近にあって認める認めないが騒がれやすい「違い」に「性別」と「その同一性」があるかなと思います。

単刀直入に言って、
「性同一性障害」という「障害」が広く認められてしまったせいで
「性同一性障害」という「言葉」が作り上げる場所へ
(実体ではなく、言葉による区切りによってできただけの虚構的な立ち位置)
安易に逃げ込む人があると思う。

男であれば、
女っぽいから、女々しいから、男らしくないから、
といったいくつかの記号は、
そう言った安易な逃避を導くものだと思っています。

もちろん本当に障害である人
(もっと言うと、同時に「それを望んでいない」という条件は付けるべきかと思う)
もいると思うし、そう言う人たちまで矢面に立たせるつもりはないんですが

安易に「俺セクマイだから」とか
ある意味での開き直りというか、
居直りみたいなことをしている人がいると思うんです。

もっと違いをさ、
自分に対して違いを認めると同時に、
住んでいる世界は同じであることを認めるべき。

そんな風に自分を記号に落とし込んで
独立を叫びながら
単純に孤独への埋没に自ら進んでいくことに
違和感はないだろうか。

それは先に述べたような
中二的な独立心と同じではないのだろうか。



ここから少し自己談になるので
しばらく読み飛ばしてもらってもかまいません。

私は子供の頃、随分と女みたいだったようで
私を育てている親は
ある時点までは「かわいいかわいい」だったのに
ある地点から「オカマみたいでキモい」
に変わったようで、
ことあるごとに修正を求められたり
時には愚弄されたりして青年期を過ごしました。
(今でも感性が合わないんで親は苦手です)

その二面性について言いたいことも気になるところも
まあありますが、それは今回はおいておきます。

修正を求められながらも変える気がなかった。
自分はどうやら変らしい。
男として不完全で女の方が近いのかもしれない。
そんな風に考えて悩んだところに
性同一性障害という言葉が目に飛び込んできました。

男でも女として扱われることを、認められている。
(もしくはその逆)

これはものすごく甘く魅力的な言葉でした。

「僕もそうなのかも」

そう思って開き直ったり
そう言う行動に拍車がかかったりという時があって。

そう思いこんでしまうと、
本当に性同一性障害であるかどうかは関係なくなります。
自分をそのように自分で作り上げていくようになるので
これはアルコール中毒でアルコールをさらに摂取するのと何らかわりない気がします。
(生命活動の維持にアルコールが必要な障害の場合は除く)

恐らくそう言う状態で自分を押し進めていくなら、
病は気から、を実践するのにそう多くの時間は要さないんじゃないかな。

自分で拍車をかけてそうなろうとしながら
自分をして「障害だから認めてくれ」という。

その矛盾に疑問を抱いたのは実はそう古いことではなくて
大学に入ったくらいからなんで
長い間バカやってたんだなと思います。
今もだいぶん抜けきらない薬が残っていて、ふとした拍子で禁断症状がでることも少なくありません。

障害、病気という言葉に甘んじて自分を甘やかすのは、
甘い甘い麻薬です。

私は男であることに不満は特にないんですが
いきる上で目標にしたいとか
手を伸ばして欲しいと望むものが
おおむね女性のものです。
だから、相対的に
女になりたい、
って言ってる訳なんですけど、

具現化して現れるのは
かわいい服を着たいとか
あんな絵が書きたいとか
こんな声を出したいとか
そんな顔になりたいとか
結局外部からみると対して変わらないわけですよね。

だから
周りからはそう言う風にみられるし
みられるから自分でもそうであると
錯覚したり諦めたり流されたりしかけた。

でも本当は違う。
本質的には、女になりたいという訳じゃ、ない。
あくまで男でいることに比べて女がいい、というだけだ。

この微妙な違いをこそ自覚すべきだし、他の人にもしってもらいたい。
同時に、そう言う人は結構いると思う。

そう言う人には是非、
既存の甘い言葉(レッテルを進んで受ける逃避)に流された私のようにはならないでもらいたいなあ。
普通、っていうのは、
尊い訳じゃないけど
それなりに目を向ける価値くらいはあるものですよ。




話を戻しますと、
こういう風に、
人と違うと言うことを認めるに当たって、
違うことに開き直るだけではだめなんだと思うんです。

違うと言うことを認めると同時に
同じ世界に生きている存在だという自覚も持たないといけない。
もちろん
埋没方向に向かいたがる人と
孤立方向に向かいたがる人と
いますけれど、
いわゆる「普通」というものに対する
「引力」「斥力」は
は常にバランスをみながら扱うべきものだと思うんですよね。
弱い方の力を補助し、強い方の力を律する。
どちらに傾くかは、常に真ん中を認識しながら。

「個性を発揮するには普通を知らなければならない」
「型を知っていて初めて型を破れる」
このあたりの言葉は、
埋没と孤立のバランスについて理想を示した言葉だと思います。



こういうと
普通でいろ、と言ってるように聞こえそうで怖いんですが
しつこいようですがそうじゃなくて
普通とは何なのか、没個性も型も、
きちんとその姿とそこにあるリソースを認識したうえで、

大いに壊れればいいと思うんです。

そう言う壊れかたがこそ、
私たち持たざる凡人の取り得る最大の武器だと思う。

まあ最初から「魅力ある」「カオス」をなせる人もいますけど、そんなの一握りの人であって
それを認めるならば「才能」というものを認めた上で
さらにそれにあらがわずに敗北に甘んじてることになります。
それって悔しいじゃないですか。
才能のない身でも何かできるって思いたいですし、
思わないと生きてる価値を自分に見いだすのも難しいですし。

だから、言い換えれば、
理性的な技術に基づいて非理性を作り上げるような行為ですかね。
それを、突き詰めたい。

また個人的な話になっちゃいますが
文字とか絵とか書いてるスタンスでも

バカやカオスや狂気は求めながら
普通との距離を常に認識して、
ちょうど
「嘘を信じさせるにはほんの少し真実を混ぜるといい」
って言葉と同じように、
ほんの少し普通を織り込んで
解りそうで解らない
殆どの人は面白がらないが一部の人が面白がってくれる
そう言う距離感をもって成長したいです。

普通のことをやれと言われたら
まあぼちぼちちゃんとできるような
言い換えれば教養とか基礎学力のような
そう言うものもつけていきたい。

私はカタ無し側からのアプローチになってますので
今はほとほとひどいもんばかり作ってます。
いつか型を手にして、再度壊せる日が来るように。

今はそれをやろうとして
二枚舌だの何だのって揶揄されてますが
こういう感覚、解ってもらえないものかなあ。



ああ、100年あっても足りない……

この記事へのコメント

Re: 【言葉】違うということ

何だろう、意見が上手くまとまらないんだけど、
この理論は少数派のみこうさんだからこそ成り立つのであって、逆に、多数派の作風だけど型無しの人ってのもいるんだろうか。
というか、型というのは必ずしも普通側のみにあるというわけでもないのではないか、と思うのですが。実際はどうなんでしょうね。

しかし、文章書く場合の型がどこにあるか、ということ自体が、結構難しいというか、つかみどころが無くて困ります。
いや、私が文章書く側だからそう思うだけで、案外、絵とか漫画とか歌とかでも同じで、曖昧なものだったりするんですかね。
単に文法の話なら、国語の教科書を順に習えばってことになるんでしょうけどね。

Re: Re: 【言葉】違うということ

パソコンが壊れていてお返事が遅くなって申し訳ないです。

おっしゃるとおり、この意見は私が少数側にいるという前提に立っています。
おそらく、メインストリームというか、多数側が「ここにいれば変ではなかろう」という領域をどうしても踏み出してしまった人間だからその領域を「型」と感じるのだろうと思います。
おっしゃるとおり、規定するにはあいまいで、でも、なのに集合によってやんわりと、しかし数という圧倒的な結界をなすものだと思います。

教科書、というのは、言いえて妙かとおもいますね。
つまりそういういろんな人に主張しても反論が少なく、多くの場合向け意見の人にそれを教えることについてリスクが非常に少ない、ということが、型という概念へのひとつの解だと思います。

非難を恐れずに言うのであれば、そういう「最低リスク」を、忠実に「規定」と捉える場合と、文字通り「最低限」と捉える場合との区別が必要だと感じていて、より事故の内部で規定化を進めている人にとって、私のような「はみ出してみた」というのを、理解できないとか、規約違反だとか、奇をてらっているだけだとか、つくりみやびだとか、そういうことで「型」の中から弾いたところに設置しようとするところがあると思っています。

外にはみ出すのであれば、はみ出していること、どれくらいはみ出しているのか、はみ出すことで何をしたいのか、をきちんと自覚しておかないと、説得力を持ち得ないな、と感じた反省を胸に刻みたいのです。

悪く言うのであれば、防御力を高めたい、というそういうことですね。
普通側に型がない可能性はもちろんありますが、その場合「防御する必要がない」のですよね。

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