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【記憶】イメージ力と理論思考と脳みそと創作

先日
東方×日本酒合同同人誌に向けた
日本酒の試飲会を開催して合同誌には参加せず試飲会のみの参加の方もあったんですが
その中でとても面白い人と話をする機会を得た。

曰く、
「自分にはまったくイメージ力がない」
とのこと。
でもその人にはしっかりと
絵分野における実績があって
それについての自信もあるらしい。
イメージ力なしでも「技術的」に実績を叩き出す事ができる
という生き証人でもあった。

私はイメージ力≒才能という意識があったので
特筆した才能のない私は
才能のある人が直感で作り出すものを
技術的に作り出すメソッドがないかと探している節があります。
もちろん自分が好きなものについてしかやろうと思いませんが。

だから彼の存在は非常に頼もしいものでした。

ただし、彼は強くイメージ力というものを欲していた。
それがないということに強く飢餓感を覚えているようでした。

彼の発言には色々とと思うところもあり
共感する部分と疑問を持つ部分とがあって
じっくりと話して見たくて
本来行くつもりのなかった二次会に参加して
色々と話を聞かせてもらった。

自分の意見に頑なであり
他人の意見を柔軟に吸収しようというスタンスがあまりないようだったので
ちょっと話しづらい部分はあったけれど
言ってる事は非常に興味深い。

彼の主張が正しいのかどうかは
今となっては(言い方は悪いけれど)私にはどうでもよくて
彼から受け取ることができた信号を
自分の中でどう咀嚼するかの処理方法に対しての意識がが支配的です。




絵に関して
無駄に長く続けていた経験(≠技術、レベル)もあって
彼の言うところに共感するところは有意に大きかった。

絵を
想像からキャンバスに落とし込むのではなくて、
こういう図形を描けばそう見えるという
図形の暗記によって描写しているのだという。

ここまでは訊いていないが、
恐らく、
では顔に見せるにはどういう特徴を持った図形を描けばいいか
これが服のしわに見えるにはどういう図形を描けばいいか
そういう図形の暗記の段階的細分化によって描いているのだろう。

また途中経過的なところでいうと
ひたすらに書いて
そのように見えるようになるまで修正する
という書き方をするらしい。

イメージ力がないために
そのような構築をせざるを得ないのだという。
そして絵というもので大成する人間は
そういう書き方ではいけなくて
イメージ力に富んでいなければならないのだという。
腕は脳がはみ出したものでなければならない。

イメージ力が必要なのは間違いがないと思うのだけれど
恐らく彼の言う「イメージ力」というものは
われわれ(いや、私)が一般的に耳にし想起するものと
は少し違うように思えた。

それが何なのか明確に言い当てる言葉を私は持ち合わせていないのだけど
なんとなくその違いは感じた。
彼の言うイメージ力というものは
恐らくとても強力な武器であることは私にも感じられた。

彼のイメージ力と私のイメージ力と
指し示すものが
別物であるのか
もしくはパラメータの違いだけのものなのか
その実際もわからない。



イメージ力というものの在不在、要不要、対象。

これについて何が正しくて何が正しくないのか
それについてはあまり重要ではないかなと思っていて
そういう人がいるという事実に向き合って
自分をその鏡に映したときに見えてくるものを
少し考えてみようと思った。

噛み砕いて飲み込んで消化するのに時間がかかったので
彼がいる前でそれを掘り下げるような思考を行い
噛み砕いた返答をできなかったことは本当に残念だ。




かく言う私も彼の自称する
「図形の暗記による書き方」をしている。
そういう人が多いのか
そうじゃない人が多いのか
彼が本当にそうなのか
そうじゃないのか
それは知らない。


ただ、「イメージ力」という言葉が
色々と物を作っているときに
さまざまな場面で色々なものにかかってくることを
彼の言葉をきいて以来、再認識させられている。

絵を描くときにただ構図を取るのに
目を瞑ってキャラ人形を動かしているとき。
もしくはひたすらに書き直しをしているとき
「この線はそれらしく見えるのか」の
比較対象として用いる脳内の映像。
色を塗ってみたときに感じる「コレジャナイ」感。

文章を書いているときに
その人物のどこを強調したいかの選別。
人物の感情を描くときに何をさせるかの想像。
人物以外を書くときにどこをクローズアップすれば
そのシーンに持たせたい雰囲気を出せるかの捻出。
もしくは論理的に正しい文法を用いるか用いないかの選択。
文字が並んでいるその文字列を画像として捉えたときの画像的な見栄え。

グッズを作ろうというときに
何を作ろうか。
何を作ったら面白いか。
どう作ろうか。
どう作ったら楽か。
どんな材料を使おうか。
どんな工具が必要か。
最終的にどんなものにしようか。

カラオケをしているときに
自分の声と歌いたい歌の音程を
実際に声に出さないですり合わせてみる。
もしくは声の使い方を想像してみる。
歌ったらキモくなるだろうことを想定してげんなりする。

鍵盤楽器は最近はじめたばかりだけど
今のところ弾くときに指を運ぶ動作を
鍵盤と鍵盤の間を結ぶ線で形成される図形で覚えている。
私はまだできないけれど
出てくる音を
サイン三角矩形鋸の形と
それにかかるフィルタで感じることができるんだろうか。

そういうのは、NLPと、もしかしたら関係しているのかもしれない。

とか。





そういう風に考えてみると
絵は図形の暗記で書いていたつもりではあったけれど
割りにがんばってイメージしているのだなとは思うし
文は意識せずにそういうことができているのだなと思うし
他は知らんけど。



文でそれができて絵でそれができていないこととか
そういうのについて
右脳か左脳かみたいなところに行きそうですが
今の私は
「イメージか論理か」っていうのと
「画像か記号か」って言うのを
同列に捕らえてはいけないのではないかと思っている。

どうにも右脳左脳信仰みたいなところの話を聞くと
この二つの命題を
一緒くた、かつ不可分、定形的なペア
として書いてあることが多い。

「イメージ・想像・感情・画像」
vs
「理論・記号・数式・文法」
みたいな。



ただ、
前述の通り、
私は絵でイメージをキャンバスに落とし込むのが得意ではない。
ただ、
文章ではそれが比較的に楽にできる。

絵という画像情報でイメージを扱うのが苦手で
記号化して描写していくしか手段をもてない。
目を瞑っても魅力的な構図など浮かばないし
そもそも色のついた映像を想起できない。
いつも線画に淡く彩度の低い色がのったくすんだ映像ばかり。
線を一本に絞ってイメージを形に直していくペン入れ作業が大嫌い。

でも
文という記号情報でイメージを扱うのにはそんなに苦を感じず
整然とした文法に面白みを感じない。
文法や期待される使用単語の語彙を一定的に無視した文を書いて
そういう文字媒体の中に
岩を砕いた岩絵の具ではなく
言葉を砕いた絵の具で
色ではなくイメージを描くのが大好きだ。


右脳左脳信仰における分離論とどうにも一致しない気がする。


それに従うのであれば
絵が得意で絵にイメージをぶつけるのが得意であるか
文が得意で整った文体で話を作るのが好きであるか
どっちかになる気がする。



もやもやとした形のない得体の知れない感情を描くのに
絵や色彩ではなくて言葉(を砕いたやつ)の方が楽で
しかもその言葉の使い方選び方が
人に言わせるとどうやら普通の選択と違うらしい。

確かに意図的にそうしている部分はあって
文脈的に飛躍した単語を選択したり
単語を羅列して共通する言語化閾値下の何かを指し示そうとしたり
そういうことをしているのだけれど

これを所謂右脳左脳論みたいなところに落とすと
どっちになるのだろう?

一見すると
インプットをイメージで行い
アウトプットを理論で行う
右左脳タイプとかいうやつになるらしいが

…私の出力するSSが理論的な姿だとは到底思えない。

まあ右脳左脳論と思考行動のタイプは
一定の相関関係が見られるように見えるものの
因果関係は認められていないらしいので
まあこの程度の結果になってしかるべきなのだろうなと思った。



ちょっと話がずれてしまった。
問題は右脳か左脳かであるというより
イメージ力があるかどうかということだ。
右脳を一切失って(その状態で生きている人がいるかどうかは別として)
その状態では「想像」という行為が一切できないかというと
恐らくそうではないのだろうし。

脳機能の後天的な可塑性については今注目を集めているようですね。
まあ専門外なのであんまり突っ込みませんが。



小説版のしか読んでないですけど
空の境界。
ストーリーとか別段好きじゃなかったんですが
設定で「こいつは面白い」とおもったのが統一言語を使うキャラ。
名前忘れたけど。
黒なんとか。ちがったっけ。黒って主人公だっけ?
まあいいや。

あいつ、
統一言語を使える設定と一緒に
記憶情報と現時刻の状態の照合による事実確認しかできない
(予告なく髪形を変えただけで別人だと認識してしまう)
みたいな身体的欠陥の設定を与えられていたと記憶している。
相貌失認みたいなもんかなあ。

これって
イメージと理論を両極端にデフォルメした上で
両方を一キャラに与えてあるという点で
ものすごく面白いキャラだと思ってます。

他のキャラほとんど覚えてないのに
こいつだけやたら色々覚えてる。

あと「傷んだ赤」っていう言葉と
「直死」っていう言葉と
「無痛症」っていう状態だけ覚えてて
後は覚えてない。

もし仮にイメージ力が皆無であれば
ああいう風に髪形を変えただけで別人として認識するはずだ。
逆に髪形が変わっても人を特定できる
(そこにタイムラグがあったとしても構わない。ただの演算処理の速度の差だろう)
のであれば、イメージ力はあるはずだ。
実際に前者な人なんてほとんど存在しないし、
日常生活に支障をきたして病人扱いされているはずだ。

でも確かにそういう人が相貌失認的な場合を除いて
ほとんどいないことの不思議さはある。それはまた別の機会に考えてみたい

で。
「イメージ力」というのは
目の前に実際に展開されていない状態を「創造(≒想像)」することでありつつ
同時に
目の前で実際に展開されている状態を何かと紐付けて「再生」することであって
実体と非実体の関係性で言えば
その両方の性質を持っているように見える。

これは私の見解ですが
「認識」と非常に似た性質なんですよね。
「認識」も、
対象の分化と統合の二つの局地から迫って
その二つが出会った境界線のことだと考えています。

目の前に犬と猫がいて
ポチとコロとミケだとします。
ポチとコロは同じ犬です。
ミケは猫です。
分化が進みすぎるとポチとコロとミケは全て別の生き物であって
「犬」という見解は意味を持ちません。
統合が進みすぎるとポチとコロとミケは全て四足の生き物であって
やはり「犬」という見解は意味を持ちません。
認識とはその分化と統合の妥協点であるのだと思います。
分化と統合どちらが先行するのかはわからないですが。

同じように
イメージ力も再生と創造の2機能に分けられるのではないか。

今までに生きてきて経験してきたことの再生と
それらの帰納によって得られる創造。
経験したことだけに頼るのであれば夢に欠け幅の狭いものになりますが
経験を伴わない創造のみであれば恐らく形を持ったものにならない。
その二つの境界線がイメージ力なんじゃなイカ。



そう考えると
「イメージ力がある」「イメージ力がない」

これらどちらの機能についていっているのか明確にしない限り
あまり意味のある主張にならないのではないだろうか。

かなり前のほうで書いた
「彼の言うイメージ力と私の考えているイメージ力に差を感じる」
というのは
ここが関係しているような気もする。



そうやって考えてから
あらためて絵を描いてみると
図形の暗記で描いていたつもりの絵も
前述の通りイメージ力をずいぶんと使っていることに気づく。
文章に関してもしかり。
逆に使わずに物を作っているシチュエーションがまったくない。
少なくとも「再生」は使っている。



私にイメージ力があるかどうか
それが人と比べてどうなのか
もしくは理論派なのか直感派なのか
それはともかくとして。

よし「イメージ力捻り出して描くぞ」
みたいな意識をすることがなくても
今迄とまったく同じスタンス同じ作業内容であっても
ただ
「あー、今こういう作業してるけど、きっとここでイメージしてるなー」
って
自覚するだけでも
緩やかに伸ばしていけるものなのかもしれないなあ。

と思っています。



願わくば、
「創造」方向に傾いたイメージ力を
より強く身につけられますように。








こんなことをつらつらと描いて自分に説明しようとするんだから
私は所謂左脳派の論理派だと思うんですが、

私は数学もプログラミングも大嫌いです。

ああ、左脳派なのに論理的思考が弱いから何やってもダメなのか!
しょうがないじゃん、細かいこと嫌いなんだから!

……でなくて。

イメージなのか論理なのか文系なのか理系なのか
関係ないんだろうなと思います。

もっとこう、
大空魔術的な、メタ超弦理論的なものが


わかりません。




なんか取り留めのない記事ですがまあ、いつもどおりということで。

言いたい結論なんて別にない。





っていうか周りが凄い人だらけで萎える。

この記事へのコメント

Re: 【記憶】イメージ力と理論思考と脳みそと創作

やべー、ゴドーワードの認識能力の障害の設定なんて、ほとんどうろ覚えになってるな。
とまあ、私の記憶力のスカスカっぷりはさておきまして、本題のイメージ力について。

みこうさんの文章をそのまま採用すると、イメージ力は「再生」と「創造」の二機能に分類される、
もうちょい噛み砕くと「完成図(作りたいもの)をイメージする力」と「完成図をアウトプットする力」となるのか。

この二つの境界線について考えてて、思ったんですが、この二つって、さらに二つずつに分かれる気がします。合計四つに。
再生は、①「経験を伴わない、もやもやとしたままの衝動めいたイメージを起こす力」と、②「そこに経験や認識を加え、具体的な形を与える力」。
創造は、③「頭の中でイメージした完成図を、さらに『アウトプット後の完成図』として明確にイメージする力」と、④「実際にアウトプットする能力」。
オーソドックスな(イメージ力が十全な人の)、創作する時の能力の使い方の順番は①②③④の番号順になるはずですが、そこは人それぞれ、行ったり来たりして作ってる人もいると思う。
そのみこうさんが話した彼が言ったような、「ひたすらに書いてそのように見えるようになるまで修正する」というのは、④によって②③を補う作業ということになりますか。

すると再生と創造の境界線は、②と③の間にあることになると思います。
そしてたぶん、その彼が言っていたイメージ力というのも、この②と③の両方のことじゃないだろうか(③だけかも知れない)。
まあ、この記事を読んだ限りでの感想ですが。

みこうさんが求めるイメージ力がどこにあるか、というのはちょっとわかりません。

こうして比べてみると、同じ「イメージ力」という言葉を使っていても、それが何かという定義は人それぞれであったり曖昧だったりするというのがぼんやりとわかりますね。
今まで、そこまで掘り下げて考えたことも無かったしな……
今のところ言えるのはこのくらいです。

Re: 【記憶】イメージ力と理論思考と脳みそと創作

私は逆に言語化する方が苦手かなぁ。話下手。日記を書くにしても言葉を選んだりその意味を考えたりで相当時間かかる。骨を考えて肉付けするだけの作業なのにいつも提出期限の10倍くらい掛かってる。

>絵というもので大成する人間は
>イメージ力に富んでいなければならないのだという。
>腕は脳がはみ出したものでなければならない。

脳の動きが自分の意識ではなく運動や反射によるものだとして、
あるイラストレーター曰く、
“フォトショで絵を描くなら主な機能やショートカットを把握してストレス(迷い)なく描くことが出来る。これが最低条件。”
らしい。そのとおり。
エンピツの使い方で迷う人が少ないように、道具の使い方で迷うなということになる。
道具のスペックに左右されない表現がしたいなら。
これを前提として考えると、技術とイメージ力を繋げるとするのであれば、強烈な記憶による再構築かあるいは意識に邪魔されないで出力する必要があるのかな。
彼の言う“イメージ力”というもの本当に自己の意識でもって実行される必要がのあるものなのかよく分かりませんね。

これ参考になりそう
オートマティスム - Wikipedia シュルレアリストによる自動筆記 http://bit.ly/HRGDAg

オートマティスムは文字書きの人なら持ってる人結構いますよね。
メインディッシュを描きたいがために物語を埋めていったり、要件定義やら仕様をしっかり考えたらストーリーは勝手に埋まるとか。
デジタル絵なら10手進んでから10手戻して直すこともできるけど、アナログ絵だととにかく進むしかないからある程度着地点考えないといけないけど。

売るために市場に迎合したから「まわりと同じような表現で想像力が貧困」と感じているのかもしれないですね。となるともしかしたら「売るための技術」というものは彼にとって耐え難い苦痛だったのかもしれない。修行(体に技術を覚えさせること)は苦痛だけど、出力することまたは結果が快楽であるのならこの齟齬は生まれなかったと思う。


ひらめきとかときめきは、意識したわけでもないのに出来上がりや行為によって自分の興味や関心のチャネルが少し広がった時に起こる快感。
会話のキャッチボールでホームラン打ったときに似てる。
あとアナログ制作でデジタルではありえない金銭的コストや労力に衝撃を受ける瞬間も。

かもしれないばっかり。

Re: 【記憶】イメージ力と理論思考と脳みそと創作

イメージ力、という言葉の曖昧なところ
そしてその割りに重要で、
重要なんだけどいつの間にか使ってる空気みたいなもの
という再認識がありました。

その強弱によって、創作の効率が大きく変わるだろうことも感じました。

in/outの関係を主体に置くと
いくつかのレイヤーに分かれると思います。

--------------------------アプリケーション層
in:記憶、経験
~処理~
out:脳内にのみ生じる完成図
--------------------------インターフェイス層
in:脳内にのみ生じる完成図
~処理~
out:体の外に出力される運動指示
--------------------------物理層
in:体の外に出力される運動指示
~処理~
out:作品

私はアプリケーション層のことだけ言っていたつもりなんですが、
おっしゃるとおり、実際に出力されるところまで視野に入れても、確かに同じところになるなと思いました。

④によって、②③を補うというのは
少なくとも私の絵の描き方について言うのなら
そのとおりだと思います。
この辺?この線?こんなかんじ?
を置いて消して近づけて置いてを繰り返して(④)
①と一致させる。
おそらく絵が巧いといわれる人ほど、④の反復は少ない。
イメージ力の強い人は、②③においても強固な連結があって
結果として①と④が近い形ですんなり出てくるんでしょう。


文章において少し違うかなと思うのは、
④をした時点で、
①②③を満たしたと、出力者が思ってしまうことが多い
点かなと思います。
推敲、というのはそれを見直す行為を含んでいると思いますが
出力された④が他の人の目にはいったときに
同じ①を想起できるかどうかの可能性について
文字という記号は画像という記号よりも情報の再現度が低く
また、受け手の再生能力について作り手は想像できません。
書き手もそれをできないし
読み手もそこまで原因を掘り下げて考えないで
「面白くない」
で済ませてしまうでしょう。

絵なら「異次元www」とか
ちょっと前にあった「いまいち萌えない娘」が何故萌えないか
みたいな考慮が比較的容易にできるのに。

だから、
文字においては①②③④の連結の必要性が薄いのではなくて
それが意識されていないだけなのだな、と
いただいたコメントで認識が深まりました。

物理層について、コンテンツとメディアに細分化するような見解が最近私の中のhotな思考なんですが
これはまた次のときにでもかこうと思います。




自動筆記。
文でも、そして私の見解としては絵でも
そういう「自ずと埋まる部分」というのはあると思っています。
その広範化というのが、技術としては必要なんだろうとも思いますね。

また、高速筆記による無用な要素の除去という方法について
私は高速筆記できないんでアレですが
wikipediaにあるような倫理観や美意識という
本質かどうかに疑問がある要素について
意図的に除去して言葉を選んでみるということは
文章ではやることがあります。

絵ではまだそこまでできないですね…。
人を書くときに、人の形を描いてしまいます。


作品を書くということに
ある一定以上の「商品(売る目的というよりは、安定した品質を保つ少量以上複数の別作品という意味での)」
であるには
どうしてもそれが
「偶然」つくられたものであってはならない
「発想」や「経緯」、「中の人の性質」を考慮に入れることなく
「技術的に」「意図的に」作られた
純粋に「出力結果として完結するもの」なければならない。

それが芸術という分野を商業ベースから分離させている一つの要因だと思います。

そして、「同人」という世界は
芸術性を重要視する領域が小さい。
…というのも
最近銀蔵さんとお話していて感じることですね。

いや、気づいてはいたけど意識しなかった、というほうが正しいでしょうか。

パトロン、という後ろ盾があるような
そんな分野でも、時代でもないのだから
おそらくそういうのは場違いなんだろうとも思いますし。

と思う一方で
大手作家みたいな人と関係性を持つというのは
ある意味でパトロンを得るのと近い効果があるとおもっていて
それは歴史的に必然性を持つ(正しいかどうかまでは知らない)。
だからこそ、
人間関係によるマーケティングというものについて
私自身は疑問を持ちつつも否定はしません。
でも、一部の人は否定まで、してしまうんでしょうね。

創作というのを
そこまでの個人技に仕立てるには
「商品」としての品質を上げるしかないわけで
それを至上とする人達なのだろうとも思います。

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