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【戯言】アリスに殺される合同で書きたかったけど書ききれなかったこと

そういえばオリンピックが東京で開催されることが決まったようですね。
放射能云々とかできっと無いだろうと思っていたのですが
東京人になって早々に現地でオリンピックが開催されることになるとは
うれしいような気もしますし
自分にはやっぱり関係が無いまま過ぎるんだろうとも思います。


オリンピックと同じように
パラリンピックも開催されますね。

パラリンピックで
チャレンジドの方々が
健常者同様に技を競うのは感動を呼んでやみません。


さて、
友人とゲームでskypeをしながら
オリンピックのことで話が進展したことがあったのと
それが割りと面白い内容へ「飛躍」したので記しておこうかと思います。

あくまで「飛躍」です。
極論を積み重ねた結果にあるかもしれないという
ひとつの見解であることは先に述べておきます。

なんだかの新記録が出たらしいタイミングの話でした。



「オリンピックとかでどんどん記録のびていくけど、
どうなっていくんだろうな。」
「人間が進化してるってことかねえ?」

そこから話がとっぴになります。

「体がその競技に恵まれてるかどうかって、一番の才能だよなー」
「背が高いとか、がたいがいいとか。
もちろん努力で覆る部部もあるんだろうけど。」

まあ会話形式で続けても仕方が無いのでこんなところにしますけど。




才能と病理は区別されない部分が出てくるのではないか。

たとえばイデオ・サヴァン。
特定の分野については凄まじい能力を発揮するのに
他の学習能力については通常、あるいは欠損を見せるわけですが
その「特定の分野」が、
誰もが認める「すばらしい競技」に偶然にもフィットしていた場合
その状態を「病気として治療」しようとするでしょうか。


たとえばバスケットボールのチームが、
他の選手の二倍近い身長を持つ選手で構成されていたらどうなるだろう。
実際には巨人症などで凄まじく背の高いNBA選手なんかは実在している。
それがどのような戦果を挙げたかはよく知らないけど
仮に全員をそういった構成に出来たとしたら
健常者のチームが五部の試合を出来るだろうか。
バスケットボールでなくてもいい。バレーボールでも。



じゃあ敢えてそういう人だけをチームに集めようとするとどうなるのか。
きっと人権団体なんかが抗議するだろう。
才能を病理として捉えているという転換が起こる。
事実は変わらず、認識だけが転換される。

仮にそういった抗議を乗り越えてチーム編成が出来たとして
大きな人たちチームが強いことが証明されれば
背が大きいという病理(才能)をが認められれば
さて、人間がもとある姿とは、病気とは、何なのだろうか。



義足のランナーがいる。
義足の技術進歩はめざましく
いまや義足のランナーは
健常者のランナーに引けを取らないとさえ言われているが
かの義足は「走ることを目的に」作られている。

目的にかなった非肉体を肉体の一部とする
肉体と機械の間におけるその統一を図ったサイバネティクスを肯定するなら
(否定されるべきとは考えないが)
生きたの足を超える義足は容易に作られるだろう。
もちろんそこには本人の人間尊厳への欲求が関係してくるのだろうけど

自分の足で早く走ることを望む人間が
それを跳躍する可能性はそう低くは無いと思う。



もし義足が生足の性能を超えたのであれば
それを装着する才能とはまさに「何らかの理由で生足を失うこと」になる。


気持ちが悪いと、そんな風になるはずがないと感じはするけれど
そうならないだろうか。

機械の体を求めて銀河鉄道に乗った彼の欲求は
万人が汚らわしいと感じる冒涜だろうか。

光を失った人が、
目にカメラと、そこから伸びるコード、電極を脳に埋め込み
電気的に視覚を取り戻したとして
喜ぶ人は0人だろうか。
もしそうすることで、老年による視力低下を防げるとしたら?

今は禁止されているロボトミー。
これは、精神外科という和名を与えられて
精神疾患に対して脳の手術を行うことだったが
悪魔の手術として封印された。

だが、今実際に行われている脳深部刺激療法は
ロボトミーと根本的に何か違うのだろうか。

常識はいつの間にか覆る。

人間に人間の足が付いていることがすばらしいというのが
常にすばらしいことであるか
疑わしくは無いか。

「ああ、腕が生えているよこの子。
これが無かったら素敵な義手がつけられたのにね、
今の法律では義手化のために腕を切断することは認められていないからね。
ああ、腕が無い人は才能だね。
足が無い人は才能だね。」

こうなる可能性は無いだろうか。




パラリンピックの選手が
インタビューに対して
「いつか一緒に競技が出来るようになりたい」
という返答をしていました。

素敵です。
みんな分け隔てなく同じところで肩を並べて
競技を楽しめたなら。


ですが
技術は人間自身の手で進歩させられますが
人間自身の体の進化は
自分の意思では行えません。

お互いに伸びようとして、それは平行線にはならない。
絶対に交差するでしょう。



サイボーグが生身の人間を軽く凌駕するフィクションは山とありますけれど
同じ土俵で勝負するには
・チャレンジドの方が何らかの補佐を得て健常者と同じ土俵に上がる
・健常者が意図的に機能を封じてチャレンジドの方と同じ土俵に上がる
どちらかしかありません。

そして後者を選択するとチャレンジドの方々の劣等感は払拭しきれない。
では前者が選択されます。

現実の流れとしても、
義足の進歩などは前者を選択した流れです。


義足=サイボーグだというつもりは無いですが
前述の通りなんらか軽い拍子で飛び越えられてしまう低い壁に見えます。

そしてサイボーグ化が進むというのは
人間とは何か問われることでもあります。

たとえば
攻殻機動隊では「ゴースト」というものを
最後の綱として用意してありますが

現実世界でそのような最後の一線が提示されるでしょうか。




オリンピックのような
全人類の最高を決めようとする競技とは
究極的には「今の人間の限界を超えようとする」ことに他ならない。

チャレンジドの方々を悪く言うつもりではないし
オリンピックに対して意義を申すつもりも無い。

ただ、今の人間はオリンピックが始めて開催された頃とは違い
自分の肉体を恣意的に改造する力を持っています。

だから、
これからパラリンピックの市民権を認めるにつれて
人間という本質がどこにあるのか
問われることになるのではないでしょうか。

病気と才能の境界
どこまで人間の体を持っていれば人間なのか
魂なんてものがあるのか。



「倫理」とか言うものがそれを阻止できるかにかかっているけれど
どこまでかなうか疑問です。
なんせ「チャレンジドの権利」に加えて
「美しいスポーツ精神」みたいなものまで付いてくるのですから。
たとえばクローン赤ちゃんと違って
チャレンジドの方々は権利を求めて自ら声を上げるのですから。





そこで提示される解決策は
格闘技に用いられる「級」の採用です。
同じ競技でも、クラスを設けて分離する。

でもどう分けましょう。

さて、これって、
健常者とチャレンジドが一緒に競技が出来るようにという原理主義が働いたゆえの
より一層の差別化ではないのだろうか。

おそらく「義足の選手はn人まで」みたいな規定が出来るでしょう。
各相撲部屋に外国人力士の人数制限がかかったのと同じように。




どうしろというつもりもないし
個人的にこれが悪いことだとも思っていません。
これが実現する可能性が高いとも思っていませんし
誰もがこれを臨んでいるとも思っていません。

ただ、
こういう可能性に
わかっていながら目を瞑っている人が多いというのが
不気味だなと思うんですよね。




実はアリスに殺される合同で書いたSSの根底は
こんなところにありました。

人間と人形の教会がどこにあるのか
姿を失うか
命を失うか
魂を失うか
それでも人間なのか
獣なのか
人形なのか
アリスの輸血実験は
「構想段階では」そんなところに根底があったのですが…

結局詰め込めるものではなかったので
それを語ることは諦めましたけど。



とりとめないエントリーでした。

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