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【パルスィ・勇儀】愛憎倍増安全ゾォン

それ、夜伽のコメント欄に書いてくれるだけですごく救われるのにどうして書いてくれないのだろう。
やっぱりこの作品にも書いたみたいに、tweetなら「募金感覚で」できるからなんだろうか。
ほんとはそんなこと思って無くてtwitterなら私が見てるだろうしとりあえずゆっとくかみたいな。
残したくないのかなって思ってしまう。まあ私も思い上がりが甚だしいか。コメントするほどの作品にはなってないってことだよな。





以下、アーカイブ
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――私のために、死んでくれる?――

 ケータイの液晶パネルの向こうで、女がさめざめ泣いてそんな台詞を吐いていた。
 バカみたい。こんな安っぽい台詞、本当に言う奴がいるだろうか。自分のために相手が、命までも投げ出すなんて。お前何様だっつうの。キシドーとかいうやつか。それともナカソネシンジュー?何にせよ、今日、命はそんなに安くないっての。色恋なんかに命安売りしてる奴、見たこと無い。
 私は動画アプリを終了して(念入りにプロセス終了までしてやって)、今度はSNSアプリを開く。ドラマを見てる間に、メッセージが3通、新着。内2通は登録済みのアプリか、お店の会員登録か、その辺からの広告メール。配信停止するのも面倒くさくて放置してる。ツータッチで削除できてしまうから、どうでもよくなっていた。削除。
 そして、最後の一通だけ、別物だった。

《おはよー。今日もいい天気だね!》

 うげ、これか。
 私はバスの中を見回した。私はいつも後部座席2番目か3番目。窓際に座れれば左右も含めてどっちでもいいけど、逆に言うと選ばなければ窓際に座れる程度の人しか乗らないバスだ。だからそこから車内を見回すと、すぐに、ほら、いた。今乗って来たところだ。
 あれは人一倍背が高いから、すぐに見つかる。あれは人一倍目立つから、すぐに見つかる。あれは人一倍……輝いてるから、すぐに見つかる。
 視界に入ってきた瞬間、――こっち見てやがる――私はすぐに視線を逸らした。窓の外でくるくる回る風景に視線を投げて特に何を見るでもなく。あれさえみていなければ
 関わり合いになってやるものか、と意地を張るが、こうしてアドレスを知られてしまっているのだ。何故、教えたのだろう。自分の愚行を呪った。
 私の視線を捕まえた(と勘違いした)あいつは、すっくと立ち上がってこっちに寄ってくる。視界の隅にそれを捉えていたが、顔を向ける気にはなれなくて、私はすらりとした長身がすたすたとこちらへ歩いてくる足音と気配だけ、それがまるで不吉の這い寄りであるように、察していた。

「おはよっ!今日もべっぴんだねえ」

 不幸にも、私の隣はまだ空席だった。あいつはそこに腰をどっさと落として、ここが公共の場だと忘れているかのような大きな声で言う。公共の場、といっても、このバスにはほとんどうちの生徒しか乗らないし、今は誰も乗っていない。それにこのバスに乗る誰もが、こいつを知っているのだ。こいつにとっては、公共などではないのかも知れない。

「――声大きい」

 窓のサッシで頬杖突いて外を向いたまま、敢えてあいつの声で掻き消える程度の声量で、言ってやる。それでも声は聞こえたらしい、小さく溜息を憑くのが聞こえて、私のテンションと一緒にあいつの肩が下りるのがわかった。

「ごめん……おはよう」

 くっつくと言うほどではないが、プライベートゾーンを僅かに削る距離に鼻先だけを入れて、もう何度目かにもなる"おはよう"。そうまで繰り返されて、全てを無視するわけにはいかなかった。嫌悪、はある。だが、それにまかせて挨拶しない不道徳を犯すのが平気なほどで私は悪人ではない。

「おはよ」

 それでも顔を向けたりはしない。
 "わたしはあんたがきらいなんだ"、その意志を誤解されるような挙動だけは見せるわけにいかなかった。

「いつも、このバスなんだ?」
「決めてるわけじゃないわ」

 確かに決めてるわけではないが、起きる時間、シャワーを浴びて、少しだけメイクして朝食、そうした朝のルーチンに従えば、確実にこのバスであることに間違いなかった。だが、明日からは、2本遅らせよう。そうしても嘘にならないように、そう答えたのだから。いや、遅くするのは朝練の時間に関わりかねない。仕方がない、2本早くしよう。
 明日から20分早く行動しなければならないことを憂鬱に思い、私は溜息を吐く。これ見よがしに、大きくはないが、深く、嫌味を以て。
 壁を作って、シャットアウトしたいのだ、星熊を私は。バスの中、私からは何も話しかけない。そも、用がない。関わり合いになりたくもないのだ。視線もくれず、じっとバスの窓の外に流れる鄙びたシャッターモールに視線を投げっぱなしにしたままあいつが余計な言葉をかけてこないことを願って時間が過ぎるのを待つ。だがそれは、腹立たしいことに毎朝毎朝往々にして叶わないのだ。

 私のクロスを見て、声をかけてきた。

「試合、次の日曜だっけ」
「そうだけど」

 私はラクロス部に所属していて、今日だって朝練なのだ。他の生徒に比べて1時間は早い登校時間だけど、こいつはこいつで陸上部の朝練なんだとか言って、明らかに時間を合わせてバスに乗ってくるのだ。

「応援しに行っていい?」
「陸上部が何で来るのよ」
「何部だっていいじゃないか」
「……別に来たければ来れば。先輩方がお目当てなんでしょ。私はきっと出ないわよ」

 こいつの言う通り今週末試合があって、でも私は二年だが万年補欠。一度だって公式戦に出場したことはない。かといって全くダメなわけではなくて、一年生に比べれば技術は上だし、同じ二年でももっと望みのない奴らもいる。私は"後一息でレギュラー"という位置をうろうろするうだつの上がらない選手だった。

「えー、出ないの?」
「……嫌味ったらしいわね。ああ、陸上部のエースの辞書には"補欠"なんて言葉はないんでしょうね?羨ましいことで」
「そ、そんなんじゃないって。ごめん、そういうつもりじゃなかったんだ」

 別にいいけど。そう溜息と変わらない温度で言ってやる。

「ただ、水橋の試合が見たいだけで……ちょっとでも、出ないのか?」
「さあ。監督に聞いて」

 取り憑く島は取り除く。来て欲しくなんかない。私を見に来たいという意図がまるで分からないし(わからない訳ではないが、きっと付き合ってるだの何だのと言ったものの既成事実化の儀礼イベントとしてそこにあるだけだ、ウザい)、それに私はきっと出場しない。するとしたら大差で(リードでもビハインドでも)ゲームが決まったようなときに、お情けで出して貰うだけだ。そんな出場、最後までベンチにいるよりも情けない。万が一出場したとしても、そんな憐憫故の出場の姿を、どうして誰かに見られたがるだろうか。

「じゃ、じゃあ取り敢えず……」

 星熊が何とか食い下がろうとしたとき、不意に黄色い可愛らしい声が、かけられた。バスに乗り込んできた、後輩達――親衛隊、と言っても過言ではない――だった。

「星熊センパイ!おはようございます!!」
「んはよう」

 すっかり私へ声をかけるのを遮られ、星熊は視線だけを名残惜しそうに私へ向けながら後輩陸上部員と朝の挨拶(ロングバージョン)を続ける。ちらちらと私を気にする視線を私は、こっちから願い下げだと引き剥がして窓の向こうを眺めた。
 バスの後部座席、窓から覗く風景は見事なまでのシャッターストリート。時間が早いこともあるが、時計の針が半周分進んだとしてもこのシャッターが開くことはない。空き家、貸し店舗、ベニヤ板で全ての窓を封鎖した建物、それさえも出来ずひびの入ったガラス戸がガムテープで補修されただけの廃墟じみたところもある。このバス通りだけではない。最も人気の多い駅前でも商店街は閑古鳥、大手小売店が小さな小売店を淘汰して少ない客を全て飲み込み、しかも飲み込んだまま姿を消そうとしている。中程度の店舗も店仕舞いし、その後にはコンビニ・百均、それらの店さえ先日閉店した。コンビニや百均が閉店したらその地域終了のお知らせだと言われている。開かれない閉塞、見えない展望、薄暗闇の将来、消える飛行機雲。青い空ばかり綺麗でここには何もにない。空白。この町は、私と一緒だった。

 大都市に行けば、時代の先端機器が街を埋め尽くす。何もかもが全自動で、電気があればユートピア。だが今やその電力が足りず汲々とし、万人が血眼になって闘争する世界。空は閉じられ大地も汚染が進んでいる。その中で、いち早く"電気による満足"を捨て、その対価に黙殺という平和を得たのがこの街であったが、それは正しい選択だったのか甚だ疑問だ。結局奪い合う大多数を前に、僅かな猶予さえ略取されてこの街に残ったのは、文明の廃棄物と歴史の副産物だけ。ここは"かみさま"だって、来やしない、安全地帯のディストピア。滅び行く楽園を見届ける、日常と安定への頽廃がここにはあった。

 "転校"してしまいたい。その転校ではなくて、"あの転校"。誰にも知られずに消えてしまいたい。痛みも苦しみもなく水の泡みたいに消えてしまえるなら、私は"転校"の当事者になりたかった。

 乗るバスも電車も、古めかしい車体をぎりぎり使い続けていると言った感じ。レトロと言えば聞こえはいいが、実際に運用を続けられていればただ古臭いとしか形容できない。錆の浮いたコンテナに車輪を付けただけ、ぎしぎしぎいぎいといちいち五月蠅い様は、同じく塩水が淀んだ町並みによく馴染む。
 私はそんな呪わしい町並みが駆け抜けるのを見ながら携帯電話を鞄にしまい、ペットボトルを取り出す。昨日買ったままのぬるくなったスポーツドリンクが、三分の一ほど残っていた。捨ててしまおうか迷ったが、何となく喉に何か通したくて、ふたを開けて一口、飲み込んだ。ぬるくなった心地の悪い甘みが、無駄に浸透してくる。バスがガードの下を抜け暗くなった一瞬、窓ガラスに映し出されたのは死んだような目をした私と、きらきら取り巻きに囲まれながらも未だに私の方を見ている星熊の顔だった。

 何で、あいつは私を見るのか、私には理解できなかった。理解できないというのは都合のいい解釈かも知れない。実際には私は、星熊に近付かれるのが嫌で仕方がなかったのだ。どうして私なのか、他に目を向けるべき相手はもっといるだろう。例えば黒谷、例えば伊吹、例えば八雲、蓬莱山、犬走。
 黒谷は可愛くて明るくて人気者、学園祭二日目の一般公開の日のミニライブは、ネットで彼女の姿を見た部外者までステージに殺到して腕を振る、相当なもんだ。ネットを駆使してセルフプロデュースし、プロダクションにかからなくても十分に活動できる、少し日常に顔を出したアングラアイドル。人気も力も美貌も全て兼ね備えて、性格もいい。そんな、恵まれた奴が、クラスには、いる。もしくは星熊には伊吹という幼なじみがいる。ちっちゃくて可愛いのに柔道で全国級、星熊とガチで喧嘩出来るのは男女合わせても伊吹だけだろうと言われていて、容姿とはギャップフルなパワーと細かいことを気にしないおおらかさもあってカルト的な人気は根強い。こんな何もない地域の学校にも拘わらず、他にも個性的で魅力的なキャラクターを持つ生徒が、うちの学校にはごろごろしている。忘れられ黙殺されるこの町に、不自然ではある。この不自然に恵まれた人材が、"転校"を誘発しているのかも知れない。
 ともかく。"持てる者"の最たる存在である星熊の隣を誰かが歩くとすれば、それはきっと黒谷や伊吹みたいな、同じように"持てる者達"に、違いないのだ。

 私であっては、ならない。

 いつの間にかペットボトルは空になっていた。ぬるかったこともあったし、ぬるいそれは冷たいそれと違って喉にいがいが絡まるのも手伝って、喉が潤された感覚はない。キャップを締めて空になったそれを鞄にしまう頃には、冷たい水を飲みたいと思っていたし、それにバスは学校の最寄り駅へ到着していた。終点だ。乗客のほとんどが降りる終えるのを横目でみながら、最後にゆっくり降りる。出口に我先にと犇めく人の様子が好きではなかったし、その中に自分が混じるのも嫌だった。それに、そうするときに自分もまた早く早くと急くことも、さして意味があるわけでもないのにそれに躍起になってしまうのにも、自己嫌悪が付きまとうからでもある。

 私が人が捌けるまで座席から動こうとしないのを、星熊はもう知っている。窓の外に、沼底に沈んだみたいな町をひたひたと行き交う人の姿を眺める。窓枠に区切られた光景は、余りにも現実感がない、いや、そう感じようとしている自分がいる。窓ガラスに薄く映る乗客の捌け具合を確認していると、星熊の寂しそうな顔が後輩に囲まれ押し流されるように遠ざかっていくのが見えた。外も明るい窓ガラスに、あいつの姿だけがやけに鮮やかに、映っていた。
 彩度が低いこの世界で、あいつだけが、不当に、鮮やかだった。

 私がふう、と立ち上がってだらだらとバスの乗降口を抜ける頃には、生徒は誰一人バスの周りに残っていない。この時間に登校する生徒は、ほぼ必ず部活動の理由でこの時間に来ている。バスを降りてからだらだらとしている奴は、私を除いていやしないのだ。これも、私にとっては好都合なことだった。

 うちのラクロス部は決して強豪ではない。寧ろ同好会に毛が生えただけ、と言った程度だ。そもそも高校にラクロス部があるだけでも珍しい。朝夕の練習は一応欠かしはしないが、それもどこか緩い。強くなる覇気と言うよりは、仲間内で競技を楽しむことが優先、試合の勝率はその次といった具合。私が試合に出られないのは、実力が及んでいないこともあるが、友人らしい友人がいないことも、きっと原因していた。
 それでも続けているのは、惰性、と言う方が正しいかも知れない。他にやりたいこともなかったし、今のまま引っ込み思案であることにも一応の危機感はあったし、体を動かすのは見た目ほど嫌いではないので運動部を選んだ。そのまま辞めるほどの出来事もなく、ずるずると続いている。人の輪に入れないまま遠巻きに練習しているのは我ながら良いこととは言えないが。
 たとえば陸上の星熊みたいな、将来を嘱望される選手がいたのなら、私はそう長く続けることもなく辞めていただろう。それでも射命丸や犬走と言った選手は大学チームから声がかかるほどの実力者で、私には、同じチームではあるが遠い存在だった。

 ぼちぼち朝練の時間だ。私は部室へ向かうことにした。同級生や部員とのお喋りに咲かせる花もない私は、まあ時間ぎりぎりくらいに行けば十分なのだ。







 パスが下手。私がよく注意をされるポイントだ。そこからチームがアドバンテージを失うのだ。私には特に得意なポジションはない。何となくディフェンスにいるが、パスが下手なこともあってその後味方アタックのカットインにつなげることも巧くない。パスを受けるのは得意で人より早く身についたしクレイドルが若干人より器用だが、されれば受けられるパスも、実際に受けることは多くなく、クレイドルは得意でもダッチは苦手であまり有効に扱えていなかった。
 朝練の後半は紅白試合。部員を二つに割っての紅白試合では、出場できない選手の方が少ない。珍しく、私も実践を踏むことになったのだが……。

「水橋!」

 パスを受けるだけなら、どんな姿勢からでも、走り込める距離なら成功させる自信があった。パスを受けて、切り込む。ヘルプ!逆サイにいいポジショニングの名津が見えたが、下手なパスをして失敗することを恐れて中程のミディ、犬走へパス。

 巧くキャッチしてくれたが、あまり優位な体制ではない。何度もダッチを決めて奮闘するが激しいチェックを受けてラインを上げることも出来ずに、水平方向にいる姫海棠へパス。しかしそれがカットされてグラボ。

「んふふ、流石私、ナイススクープね。リリース、鈴仙!」

 敵チームの射命丸にスクープされてしまった。
 持ち前のスピードで切り込む射命丸、そこからのパスを器用にキャッチした鈴仙が、動きを惑わすフェイクとクレイドリング、華麗なロールダッチで、ダブルでついたディフェンス抜き去り、アンダーショット。それはゴーリー、ホンのクロスと地面の間を抜けてネットが揺れた。

「門番仕事しろー」
「起きてましたってば!」

 実際ホンはよく反応していたが、鈴仙のフェイクにかかっては惑わされるなと言う方が無理だ。結局、私のパスミスからの失点だった。サイドに見えた名津へパスを出していれば、寧ろこちらのゴールだったかも知れないのに。
 だったらあそこで名津へ精度の低いパスを出すべきだったのか、それとも自身で走り込むべきだったのか。もはや何をしてもダメだったのだろうと考えてしまう。

「水橋、あそこで私にくれても……」
「そうね、ごめんなさい」

 案の定、犬走にも、監督にもパス判断のミスを指摘されてしまった。技術のある選手なら、どう対応しただろうか。やはり名津へ、正確なパスを出しただろうか。

「どんなパスだしてもちゃんと取ってくれる点はほんと信頼性高いんだけどなあ。クレイドルも上手だし。でもその後生きないんだよね。ダッチの練習する?相手するよ」
「うん、ありがと。パスを、もうちょっと練習する」
「そっか」

 犬走相手にダッチの練習?ふざけないで。手を抜いて貰わないと、抜けるわけ無いじゃない。そういう情けの掛けられ方が、いちいち辛かった。でも犬走は責められるべきじゃない。練習相手になって貰って鍛錬しようとしない私が、愚かなのは明白だった。それでも練習中の風景を想像して、一切抜き去れないか、あるいは一歩踏み込むのを犬走がやめることで「抜かせて貰っている」か、どちらかだろうことは想像に難くなく、考えるだけで情けなくなってしまうのだ。

「ホンが水橋くらいキャッチ能力あったら、すごいゴーリーなのにな」
「じゃー水橋さんをゴーリーにして下さいよう。私ミディの方が」
「ホンはクリースが家なんだから、動かせるわけ無いでしょ」
「何ですかその無茶な使命!」

 逆に、パスなんて、受けられない方が不思議だと思っていた。ボールマンの動きをみていれば、どういうコースにどういう強さで飛んでくるかなんてすぐにわかる。ショットじゃないのだから、よほど無理な姿勢からでなければ虚を突かれることはない。そう思っていたのだけど、どうやらそうではないのらしい。私がパスキャッチばかり巧いのは、日頃から相手の視線や一挙手一投足を臆病に見る癖が付いているかららしかった。臆病にい人の行動を追い、見つめて反応する、私の情けない特性に因るものだったのだ。そしてクレイドルが巧いのは、友達がいなくてそればかりやっているからに過ぎない。

「ショットは、止められないよ。パスは手抜いて貰ってるから、取れるだけ」

 そうなのかなあ、と合点の行かなさそうな犬走。そうなのだ。パスは取ってもらう前提で飛んでくるのだから、フェイントや意表を突くコースではほとんど飛んでこない。取りにくい取れない取らせないといった視点から見れば、手抜きの球種でしかよこされないのだ。
 と。クールダウンを終えた射命丸が、犬走の背後から、妙に低い姿勢で寄ってくる。その光景は私からは丸見えだが、犬走には完全に死角となっている。射命丸のその低い姿勢の手の中には、クロスではなくカメラが収まっていた。

「文ぁ?」

 それに視線をくれるでもない犬走は、見てもいないのに正確な位置へ踵を振り上げる。射命丸はすんでのところでそれを回避し声を上げた。

「っひ!まって、人の頭をヒールリフトするのはどうかと思います!ラクロスはサッカーじゃないんですから!」
「じゃあ文の掛け持ち新聞部も、人のスカートの中の写真を掲載する週刊誌じゃないでしょ!?あのチビのケツでも追っかけてろ!」

 まるでそれが剣であるようにクロスを振り回す犬走。犬走の大袈裟斬りを射命丸はスウェイで回避、目にも留まらぬ三段突きも左右に振ってかわしきる。そのまま背を向けて逃げ出す射命丸とそれを追いかける犬走は、校庭の彼方へ消え去った。はっ、仲がいいことね、付き合ってられない。

 同級生や部員に、壁を感じる。あの和の中にはいるには、友人という鍵がなければいけない。中の人と、ではない。私にはこの輪の中に、友人と呼べる人がいますという事実。それが通行手形、ある意味での、信用なのだ。独り身は、信用を得られずあの壁の中へはいることは叶わないでいた。

 私は教室に向かう前にシャワーを浴びるべくシャワールームへ向かう。その後は歴史数学国語生物体育、部活。毎日特に代わり映えはしない。高校に通っているが、何だか小学校の頃から何も変わっていないように思える。空っぽなのだ、私は。







 シャワーに向かう前に、一旦部室へ。その道程で、グラウンドの向こう側に陸上部の練習が見えた。あれは、300メートル走だ。スタートラインに立つ選手達が、笛の音共に一斉にスタートした。
 速い。ラクロスは速さばかりの競技ではないが、スピードが特徴でもあり、アジリティは最大のアドバンテージとなる。エースの射命丸も、そのアジリティによって評価を高めていた。短距離の瞬発力にせよ長距離のスタミナにせよ、あの速さがあれば多くの陸上球技で大きな武器になるだろう。
 私程度の技術なら、他の人でもすぐに身に付けてしまう。そうしたときに、基礎身体能力としての走行能力がある陸上部員が、仮にラクロス部に遊びに来たとして、私は自分の立ち位置を守れるだろうか。補欠とレギュラーのボーダーをうろうろしている私は、完全に補欠になりやしないだろうか。もちろんクレイドルやパス、戦況の見極めの面で一日の長があるかも知れない。だがそれは、本当にわずかな差だということを、誰でもない私自身がよくわかっている。何よりラクロス部は同好会に部の名前が被せられただけの緩い部。意識にも差があった。

「走り込みならひとりでも出来る……かな」

 ひとりで出来る。これが私には重要な問題だった。人と一緒に練習するのが、私は苦手だった。常に敵ではない存在として相手を意識する、気を遣わなけれなならない、そのことが調子を狂わせて、練習の中で見いだしたい現在の状態を正確に把握できなくなる。
 そんな私が、何でチーム競技を選んだのか今となってはよくわからなかったが、勝敗をはっきりと自分一人の責任にする競技をやっていくような覚悟はなかったからかも知れない。当然、チーム競技だって極言すれば誰かのせいで勝ち負けが決まる。さっきの私の失点がそうだ。だがそれがはっきりと、個人の責として扱われることは稀だ。そんな甘ったれた理由かもしれなかった。負けもそうなら勝ちもそう。勝った試合のMVPであったとしてもそれはチームプレイ前提で、絶対的な勝因となる訳ではない。ただ、勝ったときの(あるいは負けたときも)達成感は、自分の仕事が出来たかどうかで自己評価してしまってもよいのだ。勝ったときに個々がその理由を何に見いだすかまで言及されることはない。
 対して優れているわけでもない自分の能力を前提とした、責任と達成感のリスクヘッジ。私にはそんな卑劣な思考があるように思えた。
 人付き合いが苦手ならば、個人競技で楽しそうだし人口の少ないコンパウンドでも始めればよかったかも知れない。それでも、個人として自分の責任を背負い込む覚悟がなかった私は、多人数競技へ「逃げた」のだ。

 それに比べて、陸上選手のストイックさは私には手の届かない輝きに思える。ほんとうは、友達のいない自覚の元、ひとりで練習できる陸上にしようかと考えたこともあったのだが、やめた。理由は、一つ。星熊勇儀が、所属していたからだ。
 当時星熊勇儀は既に将来を嘱望される選手として、陸上部の中で輝いていた。途中編入でそんな灯台の足下に入り込むような選択を、私が出来よう筈もない。あんな奴の傍にいたら、私は干からびて死んでしまうだろう。そう思って、ラクロス部を続けている。初めて彼女が走っている姿を見たとき、私は、あれには近づくまいと決めたのだ。同時に、心を奪われて、しまったのだ。
 でもこうして、あの輝きがここからでも見えてしまうのなら、いっそやはり向いていない運動部など辞めてしまう方がいいのかも知れないと、そうさえ思えていた。







 うわ、混んでる。陸上と重なったらしい。シャワー室は、順番待ちで既にごった返していた。

「椛ぃ、一緒に浴びましょー」
「はあ?またぁ?」
「混んでるから仕方ないじゃないですかぁ」

 うちの学校は女子校であることも手伝って、こうなるとシャワーのシェアが日常茶飯事だ。シャワールームが運動部員の数に見合っていないことに起因していると思うが、多分……奇妙な風習だと思う。他の学校とか知らないからわからないけど。
 シェア、といえば聞こえはいいが、あの狭いブースに二人一緒にすし詰めになるのは、結構きつい。

 射命丸に半ば無理矢理シェアをしいられた犬走。二人がブースに入った途端。がたんがたんと間仕切りに色々当たる音が響く。

「文!狭い!無駄にくっつかないでよ!」
「だって椛がシャワー独り占めするからぁ」
「だったら一人で入っ、ちょっ、ドコ触っ」

 急に静かになった。やれやれ、始まった。でも朝からなんてなかなか見かけないのに、お盛んだこと。
 そう、一人用のシャワーブースに二人入ることが文化として認識されているものだから……つまりそのケのある生徒には、好都合なのだ。出てくるときに、片方がやけに口数少なだったり、手をつないで出てきたり。人目もはばからずキスしながら出てくる奴らもいる。
 だからきっと今頃、犬走と射命丸が入ったブースでは

 ぎい

「ぷげっ」

 と思っていたら、犬走のブースの仕切が開いて、射命丸が腹を押さえて後ろによろめき倒れるように出てきた。息が出来ないようだ。あれは……鳩尾に貰ったな。追い出されたらしい。
 ぱたん、と倒れる射命丸を、笑いながら突っついているのは姫海棠。

「きゃはは、諦めないねえ?」
「恋はぁ、フられてからが、本番なんですよぉ、むぐ」

 再び犬走のブースが開いて、外の様子を見ている。射命丸の顔をつついている姫海棠を視界に認めたらしい。

「姫海棠」

 そういって手招きする犬走。
 慣例として、シェアは中に入った人が待っている人の中から指名する形で行われる。順番は関係ない。人気のある子は待っていても逆指名が捗るし、自分が一人で入ればお気に入りか仲のいい子を引き込む。あくまで厚意でのシェアであって、一人で浴びていても特に文句は出ないのが、私のような奴には救いだった。
 姫海棠は射命丸に代わって犬走とシャワーをシェアすることになったようだ。犬走のいるブースにすたすたと入っていく姫海棠。……変な声は一切聞こえてこない。話声さえ聞こえてこないのが、逆に怪しいが。

 まったく、仲が良いのも大概ってところだ。友達らしい友達さえいない私には、目の毒を超えて迷惑千万だ、よそでやれ。
 私は時計をみた。もう、朝のホームルームの時間が迫っているが、順番待ちの生徒は他にもいる。シャワーは諦めるしかないようだ。昼にシャワールームの貸し出し申請をして(しないで使う生徒がほとんどだが)浴びられるとしても、午前中一杯は汗と土埃の匂いが取れないで、べとべと肌同士や服が不快にくっつくのを耐えなければならない。それを想像しただけで気分も憂鬱になると言うものだ。
 
 逆指名性のシェアシステム故に友達のいない私がそれにあり付けることはない。私は諦めてさっさと教室に向かおうと背を向けた。

「水橋」

 と。不意に向けた背中から私の名前が聞こえ、驚いて振り返ってしまう。空耳かとも疑う自分がいたが、みると直ぐ真後ろのブースが口を開けていて……中から星熊が手招きしていた。

 ……まじか

 部活を初めてもう1年過ぎにもなるが、このシチュエーションは初めてだ。本当に直ぐ真後ろ、背を反らすだけで上半身が入ってしまう一番近いブースに、星熊がいて、私を招いている。
 星熊が私を指名したことに、順番待ちの生徒は驚きの色を隠せないでいた。なぜ水橋なのか。自他ともに認めるぼっちを、あの星熊が指名した。ボランティア精神か、もしくは順番待ちの生徒の中に、当てつけたい誰かがいるか。一瞬でそんな風な想像がわき起こり、その疑問をぶつけるような視線が私を四方八方から刺してくる。
 私の方は私の方で、卑しい思慮が高速回転。つまり、星熊にシャワーシェアを指名されたということを他の生徒への社会的優越とするか、もしくは星熊から与えられた憐憫を不服として突っぱねるか。――そして私には、憐れみかけられ嘲われることの方が、我慢ならなかった。

「他をあたっ」

 断ろうと口を開いた瞬間、ぐい、と腕を引かれて中へ引きずり込まれた。そのままブースの戸は閉じられる。

「ヘンなことしないから」

 星熊は悪戯っぽい顔で笑いながら、ブースへ引きずり込んだ私に声をかける。ここで慌てて飛び出してしまう、というのも何だか違う。こいつに、何か不服をぶつけてやらないと気が済まなくなっていた。

「ヘンなこと?へえ、いつもはしてるみたいね」
「してないよ」
「どうかしら。あなたなら、この学校の誰に手を出したって誰も文句は言わないでしょ」
「じゃあ水橋に手ェ出しても……いてててて!」

 脚の指を思い気入り踏んづけてやった。

「じょ、冗談だよ」
「冗談に聞こえない、この"たらし"が」
「むう。オレは一途だよ」
「知るか」

 星熊の手からシャワーをひったくるようにして奪い、独り占めしてやる。星熊は、文句一つ言わずに黙っていた。ただ、汗を流す私を見て、黙っていた。目を細めて、星熊が、あの星熊が、私を黙って見ている。舐めるみたいに下から上へ、鋭いが悪意ではない目は、肉食獣。視線を感じるだけで、脊髄を鷲掴まれているみたい。動けない、しかも視線一つで思考に関わらず体中を操られてしまいそう。ぞくりと粟立つ肌は、しかし嫌悪感からばかりではない。

「そうやって見られるの、気持ち悪いんだけど」
「えっ、あ、ごめん」

 そう言うんじゃないよ!というように狭いブースの中一歩退き、両手を広げて振る星熊。私の体なんか見て、何のつもりだろうか。特筆するところなど何もない。中肉中背、と表される見所なんて一つもない体。ブスと言われることはあっても可愛いなんて言われたことがないし、まして個性的でもない顔。つまらない。一方で、隣にいるスプリンタの体はどうだろうか。筋肉、曲線、背丈、質感、長い手足、包容感。鼻筋の通った凛々しい顔つきは、外人の血でも入っているのではないかと思うほど。切れ長の目は鋭いのに綺麗で、モデルみたい。さっきまで見とれていた、美しい姿、あの躍動をなす体と、今、皮膚一枚で離れているだけだと思うと、劣情が掻き立てられる。星熊の、体と、密着している。視線を感じてもそれを睨み返す体力は残っていなかった。既に弱り切ってその顎が皮を裂き肉を喰らうを待つだけの弱り切った草食獣。
 星熊が私を、シャワーシェア指名したのは、何故だ。毎朝の付きまといもそうだ、彼女は私を好きだと言うが、合点が行かない。いや、仮にそうだとしいても、その根底にあるのが俯瞰や侮蔑、憐憫だろうとしか説明が付かないのだ。
 星熊のような才能も人望もある奴が、わざわざ私のような劣等を側に置きたがる理由。ろくな想像など出来やしない。ピエロを側に据える王。綺麗で可愛い子とブスが妙に仲が良いときにその理由があるとしたら。
 瞬く間に、この狭い空間に一緒にいることがこの上ない苦痛に思てきた。見下されてる。憐れみか、道化か。対等などない。

 そう、対等など、ないのだ。

「でも、さっきの試合は、結構ちゃんと、見てた」
「えっ」

 シャワーのしぶきと共に頭の上から降らされた言葉。反射的に反芻してしまう。冷水のシャワーを浴びせられたみたいに、

 シアイ、ミテタ

 意味の解釈に、意識に対して有意なほどの時間がかかってしまう。シアイ。さっきの練習試合。ミテタ。さっきの試合を見られていた。さっきの私のミス、失点。

「だから?」
「よくあんな小さい玉、投げたり取ったり、あのネットで出来るなと思って」
「みんな出来るわよ」
「すげえ」
「だから、みんな出来るって言っているでしょう。何もすごくない」

 それが出来ないと、ラクロス自体出来ないのだ。新入部員でもない限り、部員はそんなこと全員出来る。取り立ててそれを言うのは、他に見所なんてなかったということだ。胃の上あたりから黒ずんだ落胆が、滲み広がっていくのを見ていた。でも、なんだかこの黒く染まった胸元が、元通りだったのだと気づく。落胆ならば期待が?期待?それが間違いだというのに。

「でもさ、クロスとボールが一番くっついてる感じがした。なんかくるくるまわしてボール保持する奴」
「クレイドル」
「くれいどる?は水橋が一番上手に見えたよ」
「意味ないけどね」

 ダッチもパス出しも下手では、クレイドルなんて何の意味もない。サッカーでリフティングばかり巧いのと同じだ。

「見てたでしょ、フィールド把握出来てないのと、パスが下手なの。しっかり得点につなげたわ、敵の」
「運だって、あんなの。射命丸じゃなかったら拾われてないって」
「でも射命丸がいた。それだけよ」

 そうなのだ。元から思い通りに事を運ぶ力のある奴の発想は、いつもこう。ポジティブと言えばいいが、分析力の不足(或いは黙殺)をパワーで押し切っている。成功するから、失敗の分析なんて要らないのだ。住む世界が、見ている世界が、違う。
 でも、それが星熊達のすごさだ。私は無力故にそういう力のある者達へ、どうしようもなく惹かれる。支配されたくて、あわよくば可愛がって貰いたい。歪んだ憧憬。そう、歪んでいるのだ、格差を乗り越えた向上的接続願望とは、歪みまくっているのだ、そう気付いてしまえば、素直にそれを望めるはずもなくって。それに気づかない奴らの感覚が、私にはわからなかった。そんな風に憐れんで貰って、情けなくなったりしないのだろうか。
 力への服従欲、被支配願望、それは絶対に手には入らないと判っていて望むのなら。上を向く方は偏愛で、破綻している。下を愛でる方は弱く小さな者を愛でる変態か、もしくは愛でなくば憐憫、強欲、嫌味。だから私はそんな、少ご女み漫く画ずみたいな恋愛なんて、絶対受け入れない。認めない。そんなもの、何処に救いがある。自分という個を大切にするなら、王子様の出現など望むはずがない。
 そして、私は今、不幸にもその立場にあるのだと自覚していた。

「水橋」
「シャワーに誘って貰ったのはありがたいけど」
「……わかってるよ。安い既成事実にはしない、肝に銘じる。ただオレは、水橋の助けになりたかったから」
「助かった、っとは思ってるの。ありがとう。でもこの後、そうね、朝のホームルームが終わる頃かしら、私はきっと自己嫌悪に悶絶しているわ。あんたのお情けに乞食じみてしまったこと」

 乞食か。星熊は、苦く笑う。

「出るわ。ありがとう。自己嫌悪が来るまで後数十分だけど、あなたがシャワーをシェアしてくれなかったら、3時間汗のべとべとに腹を立てているところだったわ」
「じゃあ3時間分だけででも、オレを想ってくれw」
「はいはい。でも、ありがとう、助かった。……本当よ」

 感謝の念は、本物だ。それに、私も相当に、歪んでいる。星熊が気紛れでくれただけの優しさに、まるで餌を放られた犬みたいに尻尾を振ってしまいそうになっている。嬉しいのだ、星熊が目をかけてくれたことが。遠くからでも輝きを放つ星熊勇儀という人物が、私のような最下層民へ手を差し伸べるシンデレラストーリーを、私は期待してしまう。弱く浅ましい、自分。毎朝のバスで毎朝声をかけられることも、こうしてシャワーシェアを申し出て貰ったことも、私の気持ちを揺れ動かすには十分だった。

 私は、星熊勇儀に惹かれている。

 私は心の奥底で、目の前にある逞しくも美しい裸体に、組み伏せられて無理矢理に奪われたいと願っている。いやだいやだと叫ぶのも無視して(だってそれは嘘なのだから)滅茶苦茶にされたかった。あの星熊勇儀が私のような矮小な者を本気で全力で求めてくる、本当なら容易に平伏せさせられる私を、彼女が、持てる全霊で奪いに来くるのを望むというグロテスクな優越感。自分への言い訳とアドバンテージ両方を実現するご都合主義な妄想。あの太くしなやかな腕が私を掻き抱き、星熊が、子供の泣きじゃくる嗚咽みたいに私の名を繰り返す姿。水橋、好きだ、水橋、水橋、水橋。

 想像して、私は、濡れた。

 どうしようもなく、疼いた。本人を目の前にして馬鹿げた妄想、あり得ない幻想、星熊のような遙か高みの存在が、私を?ありえない。

 でも、でも、堪んない……!

 だが。だがそれと同時に、それと同値に、私は星熊勇儀を、憎んでもいた。

 その甘い空想は何処までも愚かな妄想で、実現などしない。目の前に聳える巨大な壁は、想いの力でなど崩れないのだ。その格差を、支配と憐れみの歪みを、私に強いる相手を、理性は感情を抑え込んで、憎み嫌い呪っていた。それにほだされたら、私は私を失い、ただの肉の塊になる。最低限の誇りも自立もない、ただの肉。私をそんな物に貶めようとする悪魔。恋心?とは。緑色の有毒。

 私は、今回ばかりは何とか振り払うことに成功したようだった。だが、確実にダメージ蓄積していく。取り除けない。

「じゃあね」

 願わくば、今生の別れたれと。だが、学校という閉鎖社会では、それも叶わないのだ。毎日毎日、格差を目の当たりにさせられて、苦しみを植え付けられ続けるのだ。力の有無をまざまざ見せつけられて、住む世界の違いを知覚し、私が望むもの全てを持った相手を、爪を噛みながら憎らしく睨みつけるだけ。
 それに私をいちいち嫌みったらしく苛んでくる整理のつかない二極化した感情も、不快極まりないものだった。

「水橋!」
「なに」

 最後にひとつ、といった様子で声をかけられた。私が振り返ると、星熊は少し後ろめたそうに目を背けて、言った。

「射命丸が、いなければよかったのにな」
「どうかしら」

 結果に大差はなかったと思う。何より、星熊が"らしくもない"ことを言うのに、少し驚いた。「いまさら、詮無きことだわ」そう言い残してシャワールームを出た。

 予測された自己嫌悪の襲来は、ホームルームの開始を待たなかった。







 「転校」という気味の悪い噂がある。
 所謂"学校の七不思議"てやつの八つ目だ。他の七つが何なのか正確に知っている人も、もはやいない。ナナフシギという文字列だけが生き延び、本来の意味はすっかり失われていて、学校内で閉鎖的に伝承される怪奇的な噂という位置づけにすげ替えられている。ナナという言葉には、野菜が八百屋に売っているという"八百"程度の意味しかなくなっていた。"都市伝説"って奴と性格は同じで、由来も判らなければ確認も取れず、安い恐怖だけを煽るドキュメンタリ。
 だというのに。この学校から「転校」の不思議が姿を消す様子はない。もうこの学校の伝統的な話らしく、また、他の学校にはない独特の内容。特筆すべきは、他の"七不思議"と違い、ドラマが付随しない。つまり、怪談のような起承転結を持ったエピソードが備わっておらず、ただ事実だけが伝わっているのだ。

「普通は、ある生徒が――なんていう話も残るもんですけどね、怪談なら」

 教室の一番廊下寄り、前から二番目が犬走の席だ。彼女の席には、いつも通りに射命丸が来ていて、その少し離れたところで姫海棠が「またそのはなしか」という飽き飽き顔で二人を見ている。

「これだけ生徒の記憶に色濃く残る噂話には、尾鰭にはひれ、背ビレと胸ビレ、美辞麗句が付くと決まっています」
「よくわかんないけど美辞麗句は付かないと思う」
「そんなことはどーでもいいんですよ、椛、こないだ豆腐屋さんが転校なさったじゃないですか。連絡先、知ってます?連絡取れます?」
「いなくなったからってずいぶん失礼だな……。東風谷とは別に連絡取れるよ、多分。用がないから取ってないけど。メアドは知ってる。」

 じゃあお願いします、としつこく言い迫る射命丸に根負けした犬走が、用もないのにメール送信を強いられていた。

 東風谷は先月転校していった。特に不安を煽るような出来事もなかったし、仲のいい同士ではまだよく連んでいるという話も聞く。連絡が付かないということはないのではないか。

 この過疎地区から学生くらいの若年層が転出することは、特段不思議なことではないのだ。文明が制限され、アナクロにまみれた不便な地域。例えエネルギー抗争に足を突っ込みかねないとしても、都市部へ出て行く人が少なくなかった。
 しかしそうした過疎化が地域の必要エネルギーを低減させることは、こういった鄙びた閉塞を「平穏」と祝う一部の人と利害が一致しており、人口流出に歯止めをかけようと言う動きは余りない。そうした流出を経たとしても、ボロい電車に数時間も揺られれば、この地域の住民でも先端都市へ足を運ぶことが出来るのだ。何よりこの地域の指導者は、エネルギー抗争により難民化した人々を極めて安価な労働力として受け入れることを対外的にも明言している。周囲の都市部は嘲っているが、おそらく、それは現実の物となるだろう。エネルギー危機は、それほど深刻なのだ。だから、この地域の人で不便さを呪わない内は、この過疎化にさほどの危機感は抱かないのだ。
 そうした背景も手伝って、"転校"という怪奇事件は確認を持たずに延命され、今も学校生活深くに根を下ろしていた。

 どういった噂話か?

「メール、帰ってきませんね。東風谷さんは現代っ子でした。人とのつながりには過敏なほど敏感。メールを放置するとは思えません」
「独善的な推理だな。私なら引っ越し先に文からのメールが来たら無視どころか即着拒すっけど」
「ええっ、ひどいです!」

 やいのやいのと、あの三人娘はいつもかしましい。まあうるさいのは射命丸ひとりなのだけど。射命丸、犬走から少し離れたところで、携帯をいじり続けているの姫海棠。射命丸と犬走の話が明後日に向いたところで、口を開いた。

「そんなに気になるなら先生に転校先聞いてみれば?本人が嫌と言ってなけりゃ、教えてくれるでしょ。ちなみに東風谷がうちの学校で仲のよかった人とまだ定期的に会っているという話だけど、裏はないよ。それが誰なのか、誰も知らない。聞いたこともない。事実だけが歩いてて、七不思議と何も変わらない」
「ほら!椛、これは事件ですってば、スクープですってば」
「姫海棠の話を聞け。まず先生に聞いたのかって」

 そこまでいって、射命丸がぴたりと動きを止める。それ見ろと飽きれ顔の犬走に、射命丸はしたりがおで言った。

「"転校"ですよ。ただの転校じゃありません。先生方は東風谷さんのことを一言も教えてくれませんでした。あれほど何も知らないのは不自然、もっと言えば」

 射命丸は犬走の机に低く頭を寄せて、言う。

「知ってますね、あの顔は」

 学校の七不思議"転校"。それは、ある意味で神隠し系の怪談だった。何処へ転校していったのか誰も知らない。転校の手続きを誰かがしている筈なのに教職員の誰も、一切教えくれない。知らないのかも知れない。ただ、先生方は一様に「○○は転校した」という。どこにか聞いても答えてくれないし、大抵の場合前触れもない。もしかしたらただの個人情報の保護かも知れないし、ただただ本当に知らないのかも知れない。先に言ったとおり、この地域からの人口流出は激しく、転校で出て行く人が多いことに不自然さもない。
 だから、真偽は未だにわからず、七不思議として残り続けている。

「これは仮定ですが。普通は怪談じみたストーリーが付与されるこの手の話で、"転校"にはそれがありません。随分歴史のある話にも拘わらず。それは、この話の持つ怪異性が完璧故に、オチが付かないからではないでしょうか」
「へえ、面白いね、それ。射命丸にしちゃ良い観点じゃない?」

 でしょう?と姫海棠に返す射命丸。

「異界への扉系、神隠し系の話のご都合主義なところは、生存者がいるところです。生存者が話を持ち帰り、脱出したことがストーリーとして付与されます。この手の怪異が現実だったとするなら、生存者がいるのは怪異側が"ぬるい"ことになります。事実、異界への扉系の話の多くの場合、お守りや呪文、お約束の行動によってそれを回避できる。ですが、本当究極恐ろしい、失踪率100%あるいはとなる"強い""本物の"怪異の場合、生存者は残らないかもしれない。誰もその経緯や結果を語らない。そうならば失踪の事実だけが残り、冒険譚やホラーなストーリーが付与されることがない説明が付きます。」
「噂話はそれ自身の展開によってのみ進化する訳じゃない。その観点は、噂話や伝承が、容易に他と融合する性格を見落としてる。黙っていても、他の都市伝説や怪談と融合して変化し、その中でストーリーは与えられるはずだ。人がそれを望んでいるのだから。」
「じゃあ犬走はどう見るの?」
「しらないよ。そもそも"転校"なんて不思議事件は、誰かが作り上げて維持していく実体のないものなんじゃないの?文みたいな奴がさ」
「テキビシー!」

 結局、記事にするには情報が増えませんねえ、と射命丸がうなだれる。

「その程度の取材じゃ、前にも誰かがやってるよ、きっと」

 携帯電話に顔を押しつけんばかりの姫海棠。犬走も1時限目の準備を始めて、射命丸に対して邪魔オーラを発し出す。

「あ」

 物理の教科書を机の上に出したところで、犬走が携帯を取り出した。

「来たよ、返事、東風谷から」
「えっ、本当ですか!?」

 三人が犬走の携帯に顔を寄せ、そして何か解せない、という表情へ変わる。

「ほんとですかこれ?」
「さあ。疑うなら会ってきたら?」
「も、椛、一緒に来てくださいよ」
「やだよめんどくさい。こんな事に深入りしたがるのは文くらいでしょ。姫海棠といけば?」
「……たよりな」
「うっさいわね、一人で行きいなさいよ。それともあのおチビちゃんとか」

 結局あのかしまし三人組の会話は取り止めのない方向へ発散して終わった。東風谷と会う約束をしたみたいだが、そう簡単に"転校"の謎が解けるのなら、なぜ今まで生き残ってきたのだろうか。

「こらズッコケ三人組、もう時間だぞぉ」

 物理の宇佐見先生が入ってきたところで、会話はいよいよ断絶された。

 射命丸たち三人の関わり方が他と同じかどうかは私にはわからないが、恐らくは踏襲されたアプローチでその謎を解くことは出来ないだろう。そして、永く伝わってきた発端の知れない噂話に対して、踏襲しないやり方、を抽出して実行するなど易いことでもない筈だ。

(帰るつもりもない、私が当事者になってしまいたい)

 何故、の好奇心もある。同時に今こうして物理の授業の板書を写経して、この閉塞した私の殻に少しでも罅が入る様子もなく、このまま殻の中で矮死してしまってもいいと思っているからでもあった。
 いいや、消えていいなんて思っていない。でもきっと叶わないと諦めている。どろどろ腐った卵の中で死ぬしかないのだと考える。いっそそうして腐り果てる方が楽なのだと知れているのだから。それならばまだ、得体の知れない神隠しに呑み込まれて消える方がまだ楽しいと思えるのだ。
 この深い水槽にぴったりと溢れる腐れ水に溺れて身も心も不完全に分解されたグロテスクな死体となるにせよ、私達を俯瞰する何か神のような者へ媚びへつらうか、それを拒否して餓死するか。私以外の誰もいない真っ白い地平、摩擦のない立ち尽くす以外ない世界へ放り出されたとしても、私は他人と比べる必要のない世界を望んでしまうのだ。
 誰と比べなくても済む、等身大の自分だけが純粋な自分として存在できる世界。この世では、比べたくなくても、誰もが比較して優れた者を求める。その不文律が、つらかった。力のない者には、約束された敗北だから。逆に、力あのある者たちには勝利が確約されていて、私みたいな雑魚から搾取し続けるのが是とされるのだ。力のある者達。

――たとえば、星熊勇儀のような――

 その固有名詞が意味を持って脳内に描かれた瞬間、心臓が跳ね上がる。不安と恐怖に飼い慣らされ回避と陰鬱に進んで沈む神経が刺激される感じ。そして姿を現す、別の高まり。

 もやもやとした苛立ちは熱湯ではなく鋭利なメス刃でもない。壊死を誘うドライアイスと、錆び付いた鋸の刃。それが、胸元から喉を上ってこめかみをくすぐるのだ。すぐにでも残酷な痛みと苦しみを与えることが出来ると耳元で囁く、冷たくざらついた不安と恐怖と苛立ち、それら全ての源泉は、あの女だ、星熊勇儀、あの、女だ。
 シャープペンを握りしめ、いつの間にか奥歯を食いしばっている。
 そうして脳裏に描き出されるその姿。シャワールームで目と鼻の先に迫った、日に焼けた肌、筋張った手足と、低い声、私を見る切れ長の目。

(~~っ!)

 噛みしめる余り、唇を犬歯で抉ってしまった。血の味が、口の中に広がる。鉄錆の味、古く手入れの薄い水道管とそこを通った錆びた水の――あのシャワーの――においが、脳に突き刺さる。
 拳ひとつ分まで、近かった。あいつの裸体。濡れた髪が張り付いた背中、首筋、肩、頬。滴る水、流れる筋が艶めかしくて、視線を水平に保つことが出来なかった。追いやられるように下へ落とせば、みすぼらしい下半身と並んだ、気が狂わんばかりのセクシュアリティ。女同士で?頭蓋の裏に描いた記憶の再生に、ぶるっ、と震えた体の芯は錆びない硝子の透明、鋭利。
 だが上を見ることもやはり出来なかった。近い顔、だって濡れて赤く上気したあいつの顔が近くて、過ちを踏みそうだったのだ。湯気にくゆるあいつの裸体、素顔、近くて近すぎて、手を伸ばせば届くような錯覚と、触れて欲しい劣情、走る肉欲が拳ひとつの距離を皮膚の隔たりだけにすることを望んでいて。願わくば、粘膜、なんて。

 また、濡れた。

 殺したいほど憎い相手。遙か高見から見下される屈辱。どうしても越えることの出来ない壁。緑色に燃えさかる瞳の奥、灼炎。だのに、それの隣にゆらゆら浮かぶ、まるで補色のような、愛欲。消えない、憎悪に相殺されない、グロテスクな逆数感情。シャワーシェアなんかして、私の感覚は滅茶苦茶になっている。カラダが、たったそれだけのことを勘違いして歓喜している。バカみたい。でも、でも……!
 世界を解体すると嘯きながら私の感情たったひとつ説明し得ない物理のくだらない公式をBGMに、私は左手をおなかのあたりへ持って行く。黒板を眺めつつ少し崩れる姿勢を装い、左手が机の上にないことを補う。私の左側には窓しかない。前から見えるものではないし後ろは背中しか見えないはずだ。注意を払うべきは右、右肘を突いて崩れた姿勢は右側からの視線を防ぐ。……私の左手は、自由だった。それを確認したところで、おなかあたりを彷徨っていた左手は、するすると、しかし焦らされた切迫を以て、降りていく、へそ、ショーツの上から茂み。

(なに、してるんだろ)

 自分でも信じられない。皆がいる教室の中、授業中にこんな所を触っているなんて、変態だ。それでも、自ら描写してしまった再生映像は、消去も停止も出来ずに網膜に焼き付いて、四六時中私の脊髄に媚薬を流し込んでくる。寝る前とか授業中とか、一人で思考の殻に閉じこもるとき、それは干潮で姿を現す海底遺跡のように浮き彫りになって私をせき立ててくる。ちょうど、今みたいに。
 濡れているのは、触る前からわかっていた。星熊勇儀を想起しただけでこんなになってしまうなんて、本当に変態じみている。それを私は、触って慰めずにいられないほど、もう、窒息しそうに下半身を疼かせている。太股を擦り合わせて我慢しようにもあっさり限界点を突破する。皆に見られるかもしれないリスクも気にならない。とにかくあいつに植え付けられた淫乱の種が分泌し続ける媚薬に追い込まれて、私はショーツの上から濡れた淫裂をなぞる。

「っ!」

 刺激は想像以上だった。危うく声が漏れそうになる。ぱつんぱつんに張りつめた薄皮の水風船に、触るみたい。容易に爆発しそうなそれを、ゆっくり喉元をゆるめて、少しずつ吐息に逃がしながら。でも指先が上下になぞるのは、まるで誰かに操られているみたいにオートマチック。自動生成され続ける快感を授業中の教室内でどうやって発散するか、いきなりに困難に直面する。

(きもち、いい……)

 ベッドの中で、同じように星熊の姿を描いて滅茶苦茶にアソコをかき混ぜるのとは違う。布団の中みたいに声を出すわけにも行かないし、股を大きく開いて淫ら刺激を全開で受信する訳にも行かない。でもそれをしたくてしたくて仕方がない下半身を宥めながら、左手はやっぱり勝手にアソコをなぞってショーツの布の上から水気を帯びた陰唇を刺激し続ける。ナプキンを挟んだもどかしい刺激は、徒に劣情を高めてしまう。
 口がだらしなく開いてしまうのを何とかしようと思うと、逆に噛みしめなければいけなかった。シャーペンの背に犬歯を立ててしまう。視線は遮っているが、余りにヘンな様子だとばれててしまう。最も安全なのはすぐにこん倒錯的な行為はやめて、物理の授業で心身を冷却することだ。それを理性はわかっているというのに、左手は布越しに淫裂を押し込むように強く刺激してくる。動かしているのは私なのに、止めることが出来ない。勢いを増す手淫は、ナプキン越しだというのにぐいぐいと陰部に刺激を送り込んでくる。本来おりものを受け止めるべきそれは、今はしとどに濡れるその淫ら水を受け止め吸い込んでいく。吸水性のよいナプキンは、私の下の口がどれほど貪欲に涎を垂らそうと吸い取り、さらさらとした感触を保ってくれる。――それが、もどかしかった。
 不快なぬめりが股間を支配していく変質的な快感。「本来の目的で」使ったことなど一度もない肉壷への滑りがよくなる背徳。それが欲しくて、こんな、教室の中なんかで品性下劣な行為に及んでいるというのに、足りない。

(だめ、なのに)

 バレたら、どうするのだ。たとえば学媛アイドル黒谷なら、別の方面に食指を延ばして立場を保つことも出来るだろう。彼女を抱けるというなら幾らでも金を出すという輩もいると聞く。だが、私は違う。既にクラスの爪弾き、一部からはキモいと評判の根暗女だ。教室で授業中にオナニーするなんて知れたら、今でも足下おぼつかない居場所が、いよいよなくなるだろう。
 そう、わかっていても。指は止まらない。布越し隔たるもどかしい感触にシビレを切らして、私の体を支配する淫欲は手をいよいよショーツの内側へ潜り込ませてきた。直接触れるユルんだ肉穴は歓喜に涎の量を増やす。熱いような痺れるような快感が、ティッシュに水が染み込むみたいに腰を冒す。下半身全体がじんじんして、陰部周囲だけは飛び跳ねるほど敏感。指の腹がはみ出したラヴィアに触っただけで、体中の血が沸騰するほどに興奮する。そこに指を押し込んで中を侵襲し、柔らかいのか硬いのかよくわからない肉に触ると、説明の付かない快感が生じる。ぬるぬる粘膜を指全体で擦り、体中のここ以外でこんな風なぬめりと摩擦を得る部位は何処にもないのだ、ここが快感をもたらすのなら、我慢の仕方など知らなかった。

(ほし、ぐまぁ)

 それはもしかしたら、吐息混じりにうっすら声になっていたかも知れない。無視を決め込んではいるが本当は殺したいほど憎い相手に、私は欲情している。二度と目の前に現れて欲しくなんてないあいつのすがたを、私は自分で脳裏に描き、授業中にも拘わらず手淫に耽り快感に咽びそうになっている。
 矛盾した二つの感情。絡み合って鋭くも太い杭となって私の胸を貫く。一本の真っ直ぐなそれと違って、一度刺さると抜けない。抜こうとすると余計に肉を食って激痛を与えてくる。二本の指が、淫裂をかき分けて奥へ進入してきた。生殖行為とすっかり勘違いしたカラダが、子宮を押し下げていた。

――授業中なのに、なのに……!

 男を望めるような外見でもないのに、カラダはしっかり女である哀れさ。使い道のない生殖機能は虚しいだけ、こうして、妄想に自分を慰めるしかない。そう思うと、余計に刺激を求めてしまうのだ。こんな風にしか、私の雌はこんな風にしか使えないのだと、思い知って快感を貪る。触れて欲しい相手は死んで消えて欲しい相手と同一人物。行き場のない感情と使い道の無いカラダ、ふさわしかろうと思ってしまう。

 中で指を曲げると、粘液に包まれた肉が圧迫されてこすれて、気持ちいい。奥まで入れる勇気はなかったが、入り口付近で愛液にほぐれた肉を弄ぶだけでオーガズムへの階段を駆け上がってしまう。
 教室中は黒板に注視しており私の行為に気付いている人はいない。正面から私を見る形になる先生も、今日は板書が多めで滅多にこちらを振り返らない。横の奴は、寝ている。壁の一枚もないのに、机のサイズに区切られた個室に閉じこもったみたい。自分の殻に閉じこもるとはこういう感じだ。その中で、私は解決不能の感情を持て余して性欲へ逃避していた。脳裏に焼き付いた星熊の姿は、授業中オナニーに耽る私をじっと見ている。えっちな場所を一心不乱にほじくって、快感を掘り出そうとする浅ましい私の姿を見下している。ただ、見ている。冷たい目、蔑むとか哀れむ目ではない、感情を込める価値のないもの、たとえば道程の石礫、電柱、打ち捨てられた雑誌、昔誰かを守っていたかも知れないが今は虚しく路傍に落ちる鈴守り、そういったものを見るときの目だ。
 そうだろう、あんたなんかに比べれば、私はどこまでも卑しくて矮小、取るに足らない存在、こんな風に惨めな自慰でしか自分を保てないバカな女だろう。存在を認識するかどうかさえあんたの気まぐれひとつなのだろう。あんたみたいな、綺麗で、かっこよくて、才能も人望もあって未来に不安なんてない奴に比べて、私は、私は……!

(とまらない……すごく、濡れてる、し……)

 吐き出したい、恨みにも近い感情。胸と喉に絡み付いてそれも叶わない。喉を通れば剃刀の刃を通すようなもの、でもその感覚を、今は肉体の快感で塗り潰していく。
 憎悪と共存する尊敬を、性欲は融和させる。まるで水と油と石鹸のように混じり合わない相容れないものが、今は解け合って私の血管を駆けめぐり全身を支配している。
 気持ちよくなればなるほど、あいつを憎む気持ちが強くなる。人を好きになる気持ちとは自分の理想の姿、人を尊敬する気持ちとは自分にないものへの憧れ。どうして純粋に好きだけでいること、純粋に憧れるだけでいることが、出来るだろう。好きな気持ちは裏返しと同時に、育っていくのだ。それが、本当に気持ちに正直なあり方な筈だ。

 腰がじんと響いて粘膜を潤す液が粘りけを増す。空気を含んだ攪拌音が、僅かに耳に滑り込んできた。

(きこえちゃう)

 勿論、人に聞こえるほどの音ではない。自分にだけぎりぎり聞こえる程度の音だ。下半身で生じる水音なんて、授業の声が満たす教室の隣の席へ聞こえるほどの音にはならない。それでも、淫裂から鳴る、くちくちと醜い音は、自分の耳へ入り込んできて、今自分がしている淫らで反社会的な行為を他でもない自分へ知らしめてくる。興奮が、際限なく膨らんでいく。

「っ!」

 かき混ぜる肉溝から、突然逆さ雷が生じて能を突き刺した。思わず漏れそうになる声を、慌てて口を噛んで押しとどめる。歯が唇に当たり、また軽く出血した。なんで、こんな馬鹿げたオナニーに、私は夢中になっているのか。

 ほしぐま、ほしぐま、ほしぐまほしぐまほしぐまほしぐまぁっ!!

 ラストスパート。中に入れた二本の指を小刻みに動かしてうねる肉襞を虐める。大嫌いな相手の名前を胸の中で呪文みたいに繰り返すと、もう止まらなかった。
 シャーペンを握る手を代わりに淫核に触れて押しつぶしたい衝動に駆られるが、両手とも下におろすのはさすがにバレる可能性があるので出来ない。動かしている左手の一部が当たるようにして何とか欲求を満たして、オーガズムへの階段を駆け上がっていく。膣が捻り縮みあがっている。指を男性器と勘違いする惨めな女性器。幾ら締めても射精はしないのに、ありもしない精液を子宮へと送る蠕動を繰り返している。それに逆らうように、粘膜を擦りあげて指を細かく出し入れする。ぶちゅぶちゅ音が聞こえる。えっちと言うよりも、気持ち悪くて汚らわしい。でも、だから、感じる。
  憎い相手を思い描きながら秘密裡に"行為"へ及ぶ背徳感は、実際に神経を腐らせていく伝染性の快楽に致死性さえ、与えるようだった。
 星熊勇儀。あの太いのにしなやかな腕に、抱きすくめられたい。その腕に噛みついて肉を千切ろうとしてしまうだろう私を、それでも力付くで抑え込んで犯して欲しい。私を殺し、私があいつを憎いと思う気持ちをめちゃくちゃに踏みにじって、内臓の奥から恋心だけ引きずり出してそれを食べて欲しい。私の憎悪を犯して殺して、恋心だけを花よ蝶よと愛して欲しい。

(い、いき、そ)

 そんな独善的な想いが、私をより深い淵へと引きずり込んでいくのだ。もう這い上がることは出来ない。二度と上れぬ底なしの沼は、愛憎の共生というグロテスク。誰も、このいびつな気持ちを是とする人はいないだろう。
 「殺したいほど愛してる」そんな安っぽい下らない混同ではない。ふたつの相反が、背中合わせで成長し続けるのだ、決して手は取り合わずに。
 もう我慢できない、と、シャーペンをノートに放り出して右手でクリトリスを摘まむ。長く弄ると姿勢でバレるので、一撃で、自分へとどめを刺すように。ぐり、と肉芽を押し込んだ。ムケた先端に乾いた指の腹、刺激は強烈だった。

「~~~~っ!っん、しぐ……まぁっ」

 最後の爆発に、私の意志力は耐えきれなかった。漏れだした声は、隣にも聞こえそうな大きさ。でも、まったく偶然に、時限を終えるチャイムが鳴ってそれはかき消された。
 細かく震える右手でシャーペンを拾い直して、蜜でふやけた左手も机の上に出し、私は授業を受けていたフリを続ける。アクメの余韻が、脳の裏側にこびりついている。酔った時みたいに思考クロックが低下して、視界が残像を描いていた。星熊の映像は、薄れている。それでも、カラダはまるで、星熊にイかされみたいに高ぶったまま、快感の爆発の余韻に揺れていた。
 日直が、起立、と号令をかけたのが聞こえたが、ふらふらの頭では、その意味を理解するのに時間がかかってしまう。少し不自然な遅れをもって立ち上がったが、私の変容に気付いた、或いはそれを気に留めた人はいない。礼、と言われて皆がバラバラと動き始めるのを見て私は椅子に崩れ落ちるように、座り込んだ。机に突っ伏して、外界を遮断する。脳裏に消えかけている星熊を、留めたかった。まだ拍動が収まらない心臓の音に包まれながら、ぐるぐるまわる世界を今は心地よく感じてしまう。イった後の気怠い浮遊感に包まれて、後ろめたいような、後悔と一緒にオーガズムの満足感。
 つん、と手から漂う愛液のにおいが、鼻腔を撫でた。他人にまで漂う匂いではないし、届いたとしても同一性を確認するには至らない。その事実を知っている自分だけがただ、その匂いの意味を理解して、イった後の余韻に溺れながら身を縮めて上がった血圧を宥めていた。

 手、洗いに行かなきゃ……。

 そう考えるも、教室オナニーに麻痺攻撃を食らったカラダが、言うことをきかない。 きっと一緒にシャワーなんか浴びたから、気が動転しているのだ。好きと嫌いの位置が逆転して、意味は変わっていないのに感覚が狂っている。そんな感じ、だった。







 一斉にスタートした一団。
 私は、今日も陸上の練習風景に目を奪われている。

 300メートル走は、正式競技ではないが、トレーニングとしては有用なのだという。だが、正式競技であるかどうかは私にとっては余り関係のないことだった。走るという行為自体がパラメータのひとつでしかない球技という観点からもそうであるし、"もう一つの意味"でも、それは大した問題ではなかった。
 競走アスリートの体躯が、好きだ。例えるなら豹。猫科のしなやかさと肉食獣の獰猛さを兼ね備えた芸術兵器みたいで、私はその姿にしばしば見とれてしまう。今も、そうだった。ラクロス部は同好会みたいなものだからそう長くない練習で終了するが、陸上は必ずと言っていいほど私達より後まで練習を続けている。だから今も私は、練習が終わってシャワーを浴びる前、グラウンドの端でも中でもない中途半端なところで立ち止まって突っ立ったまま、陸上部の光景に見入ってしまっていた。

 アスリート達はスタート後、三分の一ほどまではまるで映像の早回しみたいにぐんぐん加速していく。多少ばらつくもののほぼ一団となって中程まで。そして三分の二くらいまでは最初に得た加速度を落とさずに、トップスピードを保ったままゼロ摩擦の運動みたいに伸びていく。この姿が、私を捕まえて離さない。トップスピードに乗ってからゴールまでが短い短距離走ではこの高速直線運動は堪能できないし、中距離以遠になるとペース配分によって爆発的なスピードは失われる。私が大好きなこの姿を最もよく見ることが出来るのは、公式種目ではなくただのトレーニングメニューである300メートル走だった。
 さあ、残り三分の一を切ってからだ、勝敗が分かれるのは。トップスピードの高さだけでは勝ち残れない、ペース配分だけでは戦略にならない、300メートルの醍醐味。残り100メートルを残したあたりで、選手同士がばらついてくる。極々僅かなトップスピード、スタミナ、あるいはそのバランスの差が如実に顔を出してくるのだ。三分の二まで引き上げたパワーを、いかに最後まで保つか。300メートル走の勝敗はそこにかかる。
 ばらつき始める選手達。その中で、ひとり、全くペースが落ちないまま相対的にぐんぐんと先頭へ姿を現すスプリンタ。他の選手が徐々に下がり、まるで彼女を押し上げているようにさえ見える。そのまま、彼女はトップでゴールインを果たした。
 100メートル、瞬く間にトップスピードへ。
 200メートル、速度を殺さず終盤へ。
 300メートル、まるで100メートルごとにそれが一歩の歩幅なのではないかと思うほどの延びでゴール。
 彼女の走る300メートルは、あたかも三歩踏み出すが如し。
 スタートから、300メートルを駆け抜け、ゴールラインを割って速度を落とし止まる。その一連を、私は片時も目を離さずに、見つめていた。その余りにも輝いているスプリンタの姿から、私は、いつも目を離せず、こうして惚けるようにその姿を見つめてしまうことは数知れなかった。

 コースを踏みしめ地面を引き寄せる脚。逞しい太股とふくらはぎが、しかしただごついのではなくしなやかな美しさを保っている。下半身とアンバランスにならない上半身もがっちりしいていながら女性の曲線を兼ね備えていて、その四肢には余りにも創造主の贔屓を感じる。

 走り込みが終わったのを見て、私はやっと、まるで金縛りから解き放たれたみたいに歩き出す。そうだ、シャワーを浴びないと、その前に部室に寄らないと。視界から、陸上部の練習風景を追い出す。意識からも、意図的に。それでも、星熊勇儀、走り抜けた瞬間の彼女の横顔が、脳裏に焼き付いて離れない。どうしても、どうしても離れない。毎日それを見て、ピアノ線みたいな細い糸で胸をギリギリ締め上げられるような息苦しさと痛みを感じながら、毎日毎日また、星熊が走る姿を目で追い続けてしまう。
 抱えていたクロスとボール。つい、目の前にあるテニスコートとグラウンドを仕切る金網に向けて、思い切りショットを打ってしまう。がしゃん、と音を立ててボールは地面へ落ちた。それをすくい上げて、もう一発。それでも、気分は晴れない。苦しい。たった二発ショットを打っただけなのに、私は肩で息をしていた。ムキになっても、瞼の裏から剥がれない星熊が走る姿を、追い払おうとする。しかし追い払おうとする度にそれは、より色濃くなって脳裏に沈着していくようだった。
 その病状の原因に、私は気づいている。だが、その合併症については、恐らく誰にも理解されぬことだろう。語る気はないし、理解を求めるつもりもない。私の中でただ、グラデーションを失い、二値化していけばいい。

 残り100メートルでみえる、彼女がぐんと抜きんでたときの、「他の選手が彼女を押し上げている」ような錯覚。もちろんあいつにはそこに上り詰めるだけの力があって、だからこその栄光なのは承知している。だというのに、併走するライバル達が一様にあいつをゴールへ押し出しているような錯覚。しかも、白線に区切られた狭い世界だけで、それが実現しているようには見えなかった。
 当たり前だ、彼女を勝たせるために他が手を抜いているなんてことはない。彼女以外の選手達が約束された敗北の中で全力を尽くす辛さは、私が"身を以て知っている"。それを疑おうとは思わないが、それでも思ってしまうのだ。ああして皆から担ぎ上げられてしかしそこには恨みっこなしの勝負の世界の後ろ盾があって、そういう風にして不当な推挙が正当化されているのではないか、と。
 くだらない、被害妄想だ。ただの、根拠のない被害妄想。
 だが、あの心臓を鷲掴まれ魅了を強要するが如き不公平を前にして、強烈な憧れと理不尽を感じることを、私は否定しきれないでいた。

「死ねばいいのに」

 私の脳裏で、スタートを切って300メートルを走り抜け凛々しく眩しい横顔を繰り返し見せる愛しい人に、私は呪詛を吐いた。
 グラウンド、私とあいつの間は歩いてでもすぐにたどり着ける距離しかない。でもその距離は、私には無限にさえ思えた。見えない、遙か無限遠聳える壁が、はだかっているのだ。







「射命丸は、昨日付けで転校した。代わりのミディを選抜する」

 それは余りにも突拍子もなく、しかも軽薄に伝えられた。"転校"を伝えたのは、ラクロス部の顧問教師、特に私は何の教科で世話になっているわけでもなく、部活で顔を見るだけだ。その教師の顔を、私は今までで一番まじまじと見たかも知れない。この教師の発言に、疑いはないか、冗談で言っているのではないか、もし本当だとしたら教師はそれをどういった面持ちで言うのか。
 教師は別段感情に乏しいキャラクターではなかった。むしろ明るくてけらけらとよく笑う印象。プレイを指導するときも厳しい表情になるし、能面みたいに感じたことはなかった。だというのに、その言葉は余りにも軽く、まるで興味のない文章を読み上げるみたいに、感情のこもらない様子で解き放たれ、それはティッシュのように重みのない様で私達の耳へはいった。私達は、自らの耳で、そのちり紙みたいな軽い言葉に鉛のような重みを付けるしかなかったのだ。だからこそ、教師の軽薄な様が、余計に腹立たしかった。たとえ特別親しい生徒でなかったとしても、少なくとも射命丸の脱落はチームにとって大打撃であるはずだ。転校の事実を、そういう点からも全く何も感じていない様子は、射命丸彼女自身が言ったように、不自然とも思えるものだった。

「……は?」

 最初に疑問を声に出したのは、犬走だった。

「きいて、ないんだけど」
「急だったからな」
「そうじゃない、監督に、じゃない」

 射命丸と犬走、姫海棠が特別仲が良いことは構内でも有名だ。3人が同性愛者同士であることも、割と公然とした事実として知れ渡っている。

「先生、それ、本当なんですか」
「ああ。今朝早く連絡があってな」
「本人から?」
「……ああ」
「どこの学校ですか」
「それは言えない。本人の意向だ」

 嘘を吐かないでください、そういって犬走は射命丸の転校を告げた教師を睨みつける。本来ならそんなもの筋違いの感情なのだが、こればかりは私にもわかった。射命丸自身がそう言ったように、明らかに、嘘を感じる。

「とにかく、射命丸はこの部にはいない。来週の交流戦に向けて、代わりのミディを選出しないといけないな」
「文の代わりは、いません」

 強く言ったのは、やはり犬走。

「そうだな。パス重視の戦術とポジションは組み立てにくくなるだろう。アタックの鈴仙にどうつなぐのか、新任のミディにかかっている。場合によっては方針変更やディフェンスの犬走を前に出すかも視野に入るだろう」

 切り替えが、早すぎる。私は不信感を払拭しきれなかった。
 射命丸の群を抜いた敏捷性とグラウンドボールに対する嗅覚はポゼッショニングに大きく貢献していて、チーム戦力の柱だった。魔法のようなスクープ率は、本当に、射命丸の目の前にグラボが落ちる魔法を使っているようでさえあった。
 うちのチームの、ポゼッションを重視した戦術哲学は射命丸と犬走によって掲げられ、事実その二人と鈴仙によって維持されていたようなものだ。同好会レベルの部活が他校と交流試合をしてそれなりの戦績を残せているのは、射命丸の敏捷性によるところが大きい。更に言えば、哲学を個人プレー重視に切り替えたとしても射命丸の能力は十分過ぎるほどで、それをしてなお彼女がパスとポゼッション重視を掲げていたという事実は大きかった。
 だというのに、この顧問の口調や態度からは、射命丸を惜しむ様子は微塵も感じられない。むしろ、意図的に殺しているかのように不自然なまでに、感じられない。だとするなら、顧問は射命丸の"転校"の真相を、知っているに違いなかった。射命丸の、言っていたとおりかも知れない。

「転校とか、一言も言ってなかったじゃないか!」

 不服を訴えるべき先が顧問ではないとわかっているからか、それ以上を顧問へ言うのをやめた犬走。代わりにここにはいない射命丸へ叫んでくるりと振り返り、朝練を放り出してその場を走り去った。きっと、射命丸へ連絡しようと携帯電話のある部室へ向かったのだろう。
 つい先日、"転校"のことを射命丸、犬走、姫海棠の三人で話していたのを憶えている。他の二人あまり興味なさそうだったが、射命丸は違った。一人強い興味を示し、きっと取材を続け、そして"転校"に至ったのだ。
 他の生徒もさることながら、会話の当事者だった犬走は気が気ではないだろう。この部に所属しているわけではない姫海棠も、きっとそうに違いない。

「"転校"……本当に、あるのね」

 他の部員が、顧問に聞こえないような声で、不安を口にした。誰もがその危惧を持っていたのかその部員を一別し、頷いたり同意を表すように目を伏す。

「偶然、だろ」
「だよな、でも」

 全員が、勘定の処理に困って持て余している。ワイドショーじみたゴシップをうれしがる野次馬根性、それの当事者となったときにどうしたらいいのかなど、ほとんどの人間は知らない。皆、蓋をされた日常密閉空間に、封じ込められているのだから。射命丸が都市伝説のような不可解な退場を果たしたが、それを深く掘り下げようとする者や、原因を探ろうとする者はいない。

「転校、転校って……」

 "転校"は、根拠が無いながらも生徒のほとんどがその現象を信じている、ある意味で"合意を得た"怪異だ。"転校"による失踪が、その相手との今生の別れとなることは、誰もが感じている。ついでに言えば、その相手が何処かで生きているという情報は一度も得られていなくって、神隠しや通り魔、カルト教団の仕業などの噂が絡み合って、"しんでしまった"とニアイコールな認識になっている。
 だというのに、この学校の生徒達はそれに対して真っ直ぐ直接の恐怖を覚えて対処しようとはしなかった。すぐ傍に、ただ、自分の世界に肉薄するゴシップ記事がひとつあるだけだ。射命丸が描こうとしていた「身近なニュース、本当の新聞」とは、そう言った乖離への警鐘だったのかも知れない。検索結果やトラフィック分析、閲覧数やヒット数という得体の知れないカプセルに押し込めて客観化正当化することで、身近な出来事を他人事へすり替える情報伝達のあり方は、私にも不信感があった。
 だが、その射命丸は失われた。不可解な事件への恐怖、信頼するチームメイトの突然の離脱、そういったものを巧く処理できず、安っぽい客観に落とし込むことで距離を置こうとする。そういった感情と姿勢が、旗印を失ったこの場の空気を支配していた。

「じゃあ、早速だが、射命丸を抜きにしたチーム編成と戦術を……」

 顧問が切り替えを促し、日常への回帰を促す。部員達は釈然としないながらも他に対処の仕方を知らず、ただ練習メニューをこなすしかなかった。ただ一人、練習を抜け出した犬走を除いて。







 教室の窓からはグラウンドが見えて、放課後ともなればグラウンドでは運動部が練習していて、同じく運動部である筈の私がその光景を見ているのは、いささか矛盾を感じるところではあったが。ラクロス部は、現在機能していなかった。射命丸の転校をうけて、犬走が休みがちになり、リーダ格が一気にいなくなった。ポゼッションラクロスのもう一人中核であった鈴仙は、トップと言うよりサブのカリスマ性でキャプテン腕章は辞退し、旗印を失ったままの部は自然に瓦解していった。
 もしかしたら、私がレギュラーとして入り込める隙が、今の部になら合ったかも知れない。最悪、私が言えば星熊を引っ張ってこれるかも知れないという思い上がった考えもあったが、星熊のことは私にもわからないし、崩れかけた部に今だと食い込むのもなんだか屍肉を食らう行為のように感じられて、そんな踏ん切りさえ私にはつかなかった。本当なら、そうでもして食らいつくべきなのかも知れないが、私の、弱さかも知れない。意気地のない私。

 グラウンドの、私から見て少し右寄りが、陸上部の練習場所だ。短距離長距離いるらしく、全員が右寄りの場所に集まっているわけではないが、その周囲から視界を広げていけば、それはすぐに見つかる。走る、星熊。彼女の走るコースは、ほとんどの時間、彼女専用だ。300メートルは、本来ただのトレーニング科目しかないのだ。対し、星熊は、だというのにそれを専門にしているのだという。記録は残りはするが、正式ではない、相手もいなくて、そこにやりがいはあるのだろうか。ただ一人、孤独に300メートルを極めようとする姿。私は胸が押し潰されそうになりながらそれを見ている。何故、星熊が300メートル走を選択したのか、何を思って走り続けるのか、私にはわからない。ただ純粋に、かっこいい、と思う。憧れ、好意の正体とは、知れている。それでも収まることのない、双子の感情。
 また、一本走り出した。トップスピードまで、ぐん、と跳ね上がって超伝導の無抵抗みたいにのびる走り。もっと、何度も、何度も何度も繰り返し、あの走りをみたい。もっと走ってほしいと、わがままな思いが沸き出す。
 だが、それとは裏腹に、彼女は最後の一本を走り終えた後、汗を拭いて携帯を確認するや立ち上がって校舎へ戻ってきた。何か用事でも出来たのだろうか。私は視線と意識を教室内へ戻し、部活のない放課後を手持ち無沙汰に過ごしていた。帰ってもいいのだけど家に帰ってもすることはない。寄り道をするアテもないし、遊ぶ友達も私にはいない。図書室で本でも借りてこようかとも思ったけど、なんだか読書という気分でもない。相手のいないSNSをゲームセンターにして遊んでいるだけのむなしい時間になっている。

(これじゃ、だめだな)

 私は溜め息を吐いて、考えを改めようとした。
 ふと、視界の隅では、黒谷が男子からカラオケの誘いを受けている。男三人のグループから、奢るから、とまでせがまれていた。黒谷を誘おうとするのは別に、今日あの三人組ばかりではない。黒谷は学園中から可愛がられるアイドルで、誘いを受けたり優遇されることは日常。それも、校内だけのことではない。彼女はネットを拠点に活動するフリーのアングラアイドルなのだそうで、こんな田舎ではなく主都部にも有志のファンクラブがあるのだとか。私には彼女のすごさは想像だに出来ないし、ネットでの影響力の大きさがいかほどなのか私にはよくわからなかったが、少なくとも学園祭のミニライブ(と彼女を見にわざわざ都市部からやってきた一般参加者)を見れば、都市部と地方、エネルギーがどうのと叫ぶ政治家よりも、よほどアイドルの方が影響力を持つという意味を見いだせるような有様であった。

「ごめん、今日、先約があってさ」
「星熊かぁ?オレ、同性愛とか生理的にムリだったんだけど、星熊と黒谷見てたらかわったわw百合カプ最高b」
「はは、なっにそれ。ごめんね、キモいレズでwでもごめん、これでも結構人気のアングラアイドルなの」
「だっ、もう平気だって。カラオケくらい付き合ってくれよー」
「わかったってばw」

 登場した"星熊"という言葉。そのたった四音の言葉が、まるでブラックホールのように私の意識を吸い込んで逃れることが出来ない。

「いやあ、星熊が相手じゃあ、邪魔できないなあ」
「今日は星熊じゃないってばwでも、ごめんね、また誘って?」
「へーい」

 事実、黒谷は、星熊とよく一緒にいる。黒谷の方が積極的にアプローチしているみたいだったけど、星熊の方も黒谷と一緒にいるのはまんざらでもないらしく、別に避ける様子もない。私自身、談笑している二人の姿をよく見かける。

(私にもちょっかいだしてくるくせに。死んでしまえ)

 黒谷が星熊と、というより星熊が黒谷といることに、苛立ちを覚える。だったら、黒谷といればいいじゃない。誘って断られた男子が言うとおり、お似合いの二人だ。アイドルと王子様、この学園でもっとも輝かしいカップルに違いない。それに、私の視界にはやたらと多く写り込んでくる星熊だが、実際に星熊が私に理由のわからない執心を見せていることは、ほとんど知られていないのだ。学園のアイドル黒谷ヤマメは、星熊勇儀と百合カップルなのだというのが、周囲の広い見解であった。私にシャワーシェアした話は一時期頻りに騒がれたが、そもそもシャワーシェアが必ずしもそう言った観点で行われるわけではないこともあり、そのままなりを潜めた。私が、あの後しばらくひたすら星熊を避けていた所為もあるかも知れないが、星熊と私の接点を、誰も見いだせなかったからだろう。

 その星熊は右手に絡む黒谷を強く振り払うわけでもなく、左手を私に伸ばそうとする。二本早くしたバスも、一週間後にはバレて結局一緒になり、結局全て元に戻っている。星熊が何らかの理由で私に拘っているのは明らかだが、だというのに、だったらなぜ、黒谷を断らない。あの二人はいつも、ではないが一緒にいることが多い。私のことなど、いつでも吹いて消せるどうでもいいものだと思っているに違いなかった。
 と、廊下を歩く

「あ、星熊。ごめん、呼び出して。部活、いいの?」
「まあ、しゃーないだろ。手短に頼むよ」
「すぐ済むから」

 黒谷は星熊に駆け寄る。なにか、小声で会話しているようだが、その距離は密着、親しげだ。

(死んでしまえ。何が"一途"だ)

 星熊を睨みつける。星熊は私の視線に気付いて、ばつが悪そうに目を伏せるが、やはり黒谷から距離を置くような動きは見せない。黒谷が開いたスレート端末に目を落としながら、会話を続けている。
 私は、星熊を恨めしく憎く思う反面、しかしそれは仕方がないことなのだとも思う。私と黒谷、どちらを選択するかといって、私を選択する奴はこの学園に限らず、一人もいないだろう。黒谷は、地域を越えて人気のアイドルなのだ。それと、英雄色を好む、ではないが、星熊のような存在には浮ついた話のひとつやふたつは付きまとうもので、私という存在はその一つにさえなれない酷く小さなチリのようなものに過ぎないのだろう。
 星熊を憎く思いながら、私は反面で諦めを抱き、更にそれを裏返すと自分も星熊も世間も何もかもを恨む悪意へすり替えられていて、そうした自分の幼稚な思考回路への自己嫌悪を呼ぶ。それはさながら、湿った岩の裏にびっしりと黴と地虫の密集のようにこびり付いて蠢いていて、私に吐き気を強いてくるのだった。

 すてぃっくすさいふぁしゃめいまるが

 睨みつける先の星熊と、それに寄り添うような黒谷。その黒谷が開いた口が、確かにその名を紡いだ。あの子が、その子が、あの集団が、あいつらが、私の悪口を言っているに違いないと目敏く捜し当てる中でいつの間にか独自に会得してしまった読唇術。黒谷が、射命丸のことを星熊に告げていた。他にも幾つかの単語を抜き出せた。

 がくとひぞうしんあき

 今一つ、意味が分からない。星熊と黒谷の間に、固有の文脈があるようだった。ひとつ、引っかかるのは、星熊のもとへ駆け寄るところまではにこにこ笑っていた黒谷が、その傍に寄った瞬間、そして星熊の方も黒谷が駆け寄った瞬間に、表情が「硬く」なったことだ。その硬い表情の中で現れた、射命丸の名前。キィがなければ意味の読み解けない幾つかの単語。あの二人の間に、他の何者も割り込めない別の世界があるようだった。二人だけの世界、馬鹿げたことだとはわかっていても、それに憧れてしまう自分は、やはり幼稚なのだろう。

(ちっ)

 いらいらする。黒谷と一緒にいる星熊を見ていると、緑濃菌に冒されたみたいな組織が胸の中に蔓延っていくのを感じる。まるで病巣、そのさまは。二人諸共嫌悪感の毛布にくるんで火炎放射器で焼き払いたい。

「死ね」

 鞄に諸々詰め込んだ後で誰へともなく小さ呟き、席を立つ。特に用事はないが、部室へ行こう。ここよりは、居心地がいい。

(……ランニングくらいは、しておこうかな)

 部活の練習はないものの、ないからといって道具一式を持ってこないほどの度胸はなくて(置いて帰ることは禁止されている)、今日も手元に道具はある。部が瓦解したとは言え、メンバーのモチベーションの問題ひとつだ、ひょんなことから再開されるかも知れない。そのときに、レギュラーに入れるなら、少しくらい自主練をするのもありかも知れない。
 随分、変わったものだな、と思う。引きこもり一歩手前で自分で危機感を抱いて運動部に入部した位だったのに、いきなり練習がなくなるとなんだか物足りないと思うまでになってしまった。部活がないと運動をしないからと、ご飯を食べた後に体型的なものが気になってしまったり(私にはどうせ意味のない配慮ではあるのだけど)して。

「廊下の真ん中で、じゃま」

 私は、あからさまな不満顔で立ち上がり教室を出て、まだ廊下で話している星熊と黒谷との間を割るように通り抜けて毒吐き、通り抜けて部室へ向かった。二人の間を割って抜ける一瞬、星熊が私を見る視線と、私が星熊をみる視線が交差した。私は怨恨睨みつける目、星熊のそれは……

「水橋!」

 通り抜けた背に、星熊の声。振り返ると、黒谷に背を向けて私に向き合う星熊の姿があった。

「……部活?」

 そんな改まった様子で、何を言うかと思えば。

「自主練」
「そっか」
「――もう、行っていい?」
「あ、うん、引き留めてごめん」

 ん、と振り返って部室へ向かって歩き出す。歩きながら、胸の内はぎゃーぎゃー騒がしくなっていて、自分でも訳が分からない。背中から死ね星熊ビームが撃てそうなくらいだ。

(何が、"部活?"よ。なんかもっと気の利いた言葉はないわけ?)

 元々悪い目付きが、更に険しくなっているのがわかる。眉間にしわが寄っている?それを人に見られたくなくて、いつもみたいに俯きざまに歩く。少なくとも顎の関節は悲鳴を上げていて、奥歯はみしみしと軋んでいた。
 私から星熊への憎しみというのは、陰鬱で消沈したものであったが、今こうして星熊と黒谷が二人の世界を作っているのを見て感じたのは、幾許か軽薄で陳腐なものであったかも知れない。それは、前者が星熊と私の間にある関係性を原因としているものであるのに対し、後者は星熊と黒谷の間にある関係性を原因としているせいであるように思えた。
 自分のせいではないなら、いいのか?そう自問するが、その通りとしか、私の中の判断装置は答えない。酷い自己中心。相手への嫌悪感を自分の都合で決める利己性。

「ああ、腹が立つ」

 何に腹が立つか、ありとあらゆるものだ。自分を含めたあらゆるものが、私に対して不都合だった。
 足早に廊下を歩く。防火扉を幾つか壁に認めてリノリウムの床を蹴り、スライド式のガラス戸を抜けて外、グラウンドの脇を通って部室へ。窓から見えていた通り、ラクロス部以外の運動部は練習中だ。
 誰もいない部室。椅子の上に、鞄を放り投げる。放り投げるというか、投げつける。金具と木製の天板が衝突する派手な音が響いたがそれを聞くものは私以外にいない。

――なにが、なにが

 何が何だというのか、自分でもわからない。何がこんなに、イライラを加速させるのか、わかってはいるがこれほどのいわれはない。

(授業中に、あんなことまでして、私)

 自分がしたことを、死ぬほど後悔している。公序良俗的な意味でもそうだし、仮に誰かが見ていたらという恐れもある。それらのリスクを知っていながら何故続けたのかという自責が、胸を引っかいて八つ裂きにしたいほどに絡み付いてくる。そんな風に狂ったカラダの原因は、私を対等に見てなんかいないだろうと言う悔しさ、相応しくなれない自分への不甲斐なさ。それに、私には高嶺の花でしかない星熊勇儀という人物への、羨望を真裏返した憎悪。
 奥歯がまた、軋んだ。

 走ろう。
 スポーツ少女、というわけではなかったはずだが、練習をしているときは余計なことを考えずに済むのは確かだった。私はジャージに着替え得て髪を結び靴を履き替えて、私はグラウンドへ出る。
 グラウンドを見ると陸上部が――星熊が――練習しているのが目に入ってしまう。グラウンド周回コースでは、一周する度に星熊の走りが気になってしまうだろう。気持ちを落ち着かせる為に走ろうと思うのに、それでは本末転倒だ。私は準備運動をしてから、校区を周遊するLSDのコースへ、逃げ出すように飛び出した。
 歩行者とさほど変わらない速度で、ペースの維持とフォームの保持にだけ意識を集中して他の思考をストップする。意識をただ自分の身体内部へ向けて、脳へは向けない。余計なことは考えないように。
 自分の手の届かない領域にいる奴らのことでペースをかき乱されるなんて、不愉快極まりない。星熊も、黒谷も、私とは関係のない世に生きる人間、そんな奴らのことで気を揉んだって仕方がないはずだ。

――考えても、仕方のないことだ――

 私の能力でどうにか出来るものではない。星熊が誰と付き合っていようと、それを私がどうこうできるものではないのだ。それが、考えるだけで腹立たしかった。関係のない世界に生きる、とはその通りであるが、向こうからこちらへはきわめて迷惑な影響を及ぼすのだ。私の手ではそれを取り去ることが出来ない。考えたくない。考えて囚われるだけ、苦しくて殺したくなる。本当は、目を向けるべきではない命題、見てしまった私が、悪いというのだろうか。
 ただ、ゆっくりと、走る。頭を空っぽにして、カラダだけの抜け殻になって。何も感じることがなければ、心臓や脳味噌の周りにへばりついている真っ黒い脂肪みたいなものがぼろぼろ落ちていくみたいに楽になっていった。勿論それは消えているのではなくて感じなくなっているだけに過ぎないのだけど、今の私にははそれで、十分だった。

 悔しいのだ。目の前に、とても敵わない大きな存在がいて。そいつはことあるごとに私の目の前をうろつき無自覚の毒をまき散らしていく。私の気も知らないで、知ろうもしないで。いや、きっと知ろうとしたところで、わかるまい。才能がある奴にとっては、努力の量までもが、バーゲン対象なのだ。全く、ふざけている。

――消えてほしい。いなくなってほしい。それだけで、私はどんなにか楽に生きられるだろう――
――私を見てほしい。そばにいてほしい。それだけで、私はどんなにか幸せになれるだろう――

 星熊への憎しみは、恋しく思う相反感情と絡み合って消化不能のケミカル。溶けない氷、熱くて飲み込めず、噛み砕こうにも水に逃げるポリモルフィズム。観測は意味をなさないのに、不明は不安、把握も儚く理性は犠牲にされ続ける。
 LSDを続けるカラダから、リズミカルな発泡。一つ一つに「恨み」浮かんで「憧れ」揺れて「辛み」くっついて「好意」浮かび「憎しみ」沈む「尊敬」まわって「反目」爆ぜる「恋慕」、群れる気泡が体内に溜まっていく。頭の方から順番に埋まっていって、体は普通なのに意識と魂だけ、窒息。一歩一歩、苦しくないペースでロングロングスローディスタンス、こんな速度であいつの背中を眺めているから、追いつけない?いいや、聳える壁は堆くて、速度の問題ではないはずだ 。空っぽにしていたはずの頭と体は、いつの間にか結局沸き立つ泡に占拠されていた。
 ぐるぐる廻る、思考の無限地獄。世界の理不尽と感情の不溶解。接続のない意味同士を無理矢理言葉でつなげて、それでも出来るのは納得ケーキではなく、残念でしたの黒こげパン。出口のない苛立ち、浮かれ上がる恋心。暴れるハイテンションを狭い箱の中に押し込めて東京湾へコンクリートダイブするみたいな、不条理な圧迫感があった。深海には光も音もなくて、水圧で動き回ることも敵わない。目の前に存在するあいつのせいで世界が閉ざされ圧殺される、そんな感じ。

 いつの間にか、LSDに相応しくないスピードに、なっていた。情念発泡に追い立てられて気付かなかったが、乱れたペースは速すぎて、超長距離を流すようなものではない。息が上がり、足は急激に疲労を訴え始めている。

(弱い、な)

 精神的な動揺に弱く、心身がすぐに崩れる。たかが、小さな悩み一つで走るペースが乱れるなんて、それに気付かないなんて、心が弱すぎる。だから、だから強い人に憧れて、惹かれて、同時に羨ましくて、憎たらしい。好きな人が、いちばん、目障りだ。
 それでもかれこれ1時間近く流していたことになる。理想的な速度なら6、7キロ、でも少し速すぎたから、7、8キロ走っただろう。コースは終盤にさしかかっていたが、私はLSDを諦めて、どうでもいいからさっさと着替えて帰りたかった。自分と戦うパワーはすっかり失われていて、私はとぼとぼ学校へ向かって歩いていた。

 自主練は、悪くない。
 星熊が邪魔さえ、しなければ。







「最低だな、お前」
「……どっちがよ!」

 この間まで三人組だった二人が、声を荒げて喧嘩していた。

「文が、いなくなればいいと思ってたみたいな言い方して。部もそうだけど……私達だって、文がいなくなって、なんか巧く行っないじゃないか」
「その通りだわ、私、文に消えて欲しいって思ってたもの。でもたかが"転校"でしょ?別に死んだ訳じゃないわ。何をそんなに怒るの?結局私のことなんて邪魔だったんでしょ!?二人でばっかり一緒にいて、私はいつだって除け者だったじゃない!うまく行ってない?私なんていつも二の次だったじゃない、犬走は、いつもいつも、文、文、文、あやあやあやあや!」
「そんなことないだろ!文と私が一緒にいる時間が長かったのは、部活が……」
「それだけじゃない!いっつも、いっつも、私は一人で、どうせ私は最初から輪の中にいなかったから邪魔者扱いで、私が文を邪魔だと思って、何が悪いのよ!」

 なんだあの昼ドラ。
 射命丸が欠けたせいで、姫海棠と犬走は関係が悪化しているのらしかった。というか、話を聞くに(聞こえてくるに)、姫海棠は予てより射命丸に対して余りいい感情を抱いていなかったようだ。

――文に消えて欲しいって思ってた――

 いつも仲良さそうに、妙な存在感を出していた三人が、そんな行き違った感情を孕んでいただなんて。意外だった。
 でも、なんだかわかる気がした。姫海棠は犬走のことが好きで、犬走は射命丸のことが好きで、射命丸もきっと姫海棠ではなく犬走を好きだった。そんなのは、見ていればわかる。姫海棠が射命丸を疎ましく思うのは、当たり前かも知れない。仲がよいのと恋敵ではないのは、直結しないのだろう。
 そこに偶然重なった、"転校"。
 微妙なバランスのもとに保たれていた三人は鎹を失って崩れようとしている。
 見計らったように発生した"転校"。それは本当にただの偶然であるのか、それとも何か、七不思議がストーリーを持たないという特異な形を保っているというような、大きな力が働いているのか。確かに、重要なファクターであるような気がした。

――キエテホシイトネガウ――

 誰かを疎む思いの力が?
 莫迦らしい、だったら私はこの世のほとんどの人間を消している。

 私は鼻で笑って、教室を出る。射命丸がいなくなってから犬走もああして不安定。部活はまだ、凍結されている。もう、うちのラクロス部が試合を行うことはないかも知れない、そうであればレギュラーがどうのだなんて考える意味もない。

 それにしたって、シャメイマルという存在は大きかったのかと思う。あの三人もそうであるけれど、黒谷と星熊の密談にもその名前は登場していた。やはり、存在を大きく扱われる人間というのは、力があったり人望があったりする者なのだろう。ああいう、いなくなってからも影響を与えるような大きな存在感というものには憧れを感じる一方で、しかし私はそう言った存在を見上げるだけの砂粒に過ぎないのだという諦観は紛れもない。
 ああいう奴らが、羨ましい。羨ましいが、届かない。
 だから、いなければいい。カリスマもリーダーも、いなければ、平等で平和なのに。心は穏やかで、日々を自分なりに良くしようと言う意欲もわいて来ようものを、あいつら力のある人間達が、それを根こそぎ刈り取っていくのだ。

「そうね、消えて――死んでしまえばいいのに」

 愛しい誰かの顔を思い浮かべながら、私は憎悪に顔を歪めて呪詛を吐き出していた。

 なんで、相殺しあって消えてくれないのだろう。消えてくれた方が、ああいう輩のことは気にも留めず無感動無関心でいられた方が、絶対に楽だのに。星熊という存在に限ったことではないが、今、私の短い人生小さな世界で、もっとも存在感を以て私を苦しめて――あるいは惹き付けて――くるのは、紛れもなく星熊勇儀という無限に遠く身近な存在であった。
 相反する気持ちは胸の中でぶつかり絡み合って、延々と副産物をまき散らし続ける。胸の中にあるタンクにそれは貯蔵されていき、許容量を越えると些細な振動で溢れて漏れてくる。
 その精神廃棄物の形は丁度、両の目頭から溢れてくる鬱陶しい水分と、とても似ていた。








 LSDは、割と性に合っているかも知れなかった。自分のペースを守るというのは、いかにも私に必要な鍛錬であったし、それをしようとする課程で人と関わる必要がない。一人で黙々と取り組むことができて、一人でマイペースにできる。しかもそれが部活での体力作りにも役立つと思えば、これはいいかも知れない。ただ走るだけなら、用意する者も精々ランシューくらいだ。河川敷を走れば特別の空間も必要ない。

 今日もまた、無理のない範囲、でもちょっとだけ背伸びした距離のLSDをこなして、今度はうまくペース配分した上で学校までちゃんと戻ってくることができた。途中ペースも大きく乱れることはなかったと思う。

 私はそれなりに満足を得て部室により、着替えをとってシャワー室に向かった。

「お、水橋」
「げ、星熊」

 シャワー室の扉の前で、全く線対称の様にはち合わせた。

「部活?」
「自主練」
「へえ、えらいじゃん」
「えらくないし。何その上から目線。」
「そ、そんなんじゃないって、ごめん」
「……言い過ぎた。こっちこそごめん」

 先どうぞ、と促されて先に入る。どうせブースはいくつもあるのだから、先も何もないのだが。
 私は適当なブースを開けて中に入る。後ろ手に扉を閉めようとした瞬間、違和感を感じて後ろを振り返る。

 星熊がいた。

「ちょっ、な」

 私に変わって扉を閉めたのは星熊だった。非難の声を上げようとした私の口は、星熊の口によって塞がれた。

「んっ!?」

 ふざけないで、どういうつもり?
 視線を投げつけて、後ろに身を引いて口を話そうとしたけれど、それを上回る勢いで、星熊は私の体を奥へと押し込んでくる。唇を、重ね合わせられたまま。
 背中が壁に当たり、そのまま強く押しつけられる。私よりも頭一つ分以上大きい星熊が、被さるように私を壁際に追いつめたのだ。

 やめて、なんのつもり、一瞬離れた口で抗議するが、星熊はそれを全く聞き入れないで、水橋、ごめん、水橋、と私の名前を浮かされたように繰り返している。私は星熊の体を押しのけようと腕に力を入れるが、星熊の体はまるで鋼鉄でできてるみたいにびくともしない。頑強なアスリートのボディに、私は掴まってしまった。

 人に聞こえるように声を上げようかとしたら、また口を塞がれた。星熊の舌が、私の口の中に入り込んでくる。唇と唇は全く隙間なく合わさって、そこからは息も声も漏れ出さない。私は、そうされたときに星熊の舌を噛み千切ることだって出来た筈なのに……それをしなかった。出来なかった。シャワーブースの奥に押し込められて、覆い被さられて追いつめられて、自由を全く奪われてキスされて、口の中を犯されて、私は体の奥がジンと熱くなってみるみる力が抜けていってしまっていた。星熊はそれを一瞬で見抜いたらしい、そこにつけ込んで、口吸いを強くした。体をより私の体に押しつけて、左手が、体操着の中に、そのままブラの中に入り込んでくる。私は拒絶反応と言うよりも、それよりももっと甘い電流に打たれたみたいに体を跳ねさせてしまった。口が塞がれていて、声は鼻から漏れる。その声は、既に桃色に媚びかけていた。
 私を奪いにかかってきた星熊を、直視できずに私は目を閉じたまま。あんな風にこっぴどい口調で拒絶していたのにも関わらず、力付くで体同士が接近してしまえば、私は一瞬で雌になって甘え始めていたのだ。こんな痛い女は、いない。星熊の手が、私の薄い胸をまさぐる。首を反らせて逃げる私の口を、星熊は荒っぽく追いかけてきた。性格に唇を吸い続けるのはもう辞めたらしい、私が、抵抗の声を上げないと、もう見抜いているのだ。

 あ、っん、ゃ、だ

 声というより吐息に近い言葉しか、絞り出すことが出来ない。星熊に体をまさぐられる快感に反った首筋、星熊は今度はそこに唇を這わせてきた。唇で、線を描くように首を鎖骨を肩を、食んでくる。その熱い感触が、私の理性をぐずぐず崩していく。その合間合間に、星熊は私の名前を呼ぶのだ。名字だけではない、ここぞとばかりに下の名前を、首や肩、耳に凄く近いところで囁く。低い声、息が多く混じった掠れ気味の声で、私の名前を、愛おしい者を呼ぶ声で。そんな風にされたら、私、抵抗できない。

 大嫌いなのに、近くに寄られたくもないのに、大好きで奪って欲しいと思う共存感情が、今この場では勝ってしまう。悲しいのは、セックスアピールに乏しいと自覚のあるこんな体でさえ、愛されれば感じてしまうと言うことだ。

 ほし……ま……

 私も、名前を呼んでしまう。服の下に入り込んできた手は、縦横無尽に私の上半身を愛撫して、その触られた全ての場所に熱源を置いていく。触られる場所はどこでも性感帯に改造された。唇、頬、耳、首筋、鎖骨、襟を引いて肩まで、隅々に口づけをされて、私は完全にとろけてしまっていた。私を壁に押さえつけていた手が放れて、シャワーのハンドルを捻る。体操着のまま、頭のてっぺんからシャワーを浴びせられた。星熊も、ユニフォームのままだ。服を着たまま、熱いシャワーに濡れる。私のいつもの温度と違う。キスが離れたので目を開くと、湯煙の向こうで上気する星熊の顔が、私をまっすぐ見ていた。まっすぐ、星熊のひととなりそのものみたいな視線が、私をとらまえてはなさない。

「っ」

 抗議をすっかり諦めていた私は、顔を背けて形だけの拒否を露わにするが、それは失敗だった。私よりも圧倒的に大きな体で覆い被さり私を追いつめている星熊に、その仕草は、きっと”恥ずかしいけど、OK”に映ってしまったことだろう。シャワーは全身に浴びせられ体操着と下着は私も星熊もぺったりと肌に張り付いている。空気を含まなくなった繊維は肌との密着を増し、その薄い隔たりの向こうには同じく星熊の体がある。
 星熊の逞しい体のラインと、私の貧相な体が重なり合うのを自覚する頃には、私は星熊の体に自分の体をくねらせ押しつけていた。何て、いやらしいのだろう。しかもあんなに嫌いだったはずの相手に媚びて、何て下品なのだろう。何て、甘美なのだろう。
 加熱した星熊の視線が、余裕のない焦りに見える。吐息一つ一つが灼熱を帯びているみたいで、私を奪い去る前の獣のよう。私を追い詰める体全体は、熱く燃えて私に延焼を強いるみたいに。心臓が、いつもの3倍くらい、早くて痛い。血液の早回しが、私の体のキャパを越えている。

「みずはし」

 覆い被さった星熊の視線が、私を磔にして動けない。
 星熊の唇がもう一度私の唇に重ねられた。再びしたが入り込んでくるが、今度はさっきとは違って、私も、舌を出した。舌同士が絡んで、唾液のぬめりが粘膜をねぶる。舌って、どうしてこんなに、性器なんだろう。食事の時にいつも異物に触れているというのに、相手の体に触れるときだけ、どうしてこんなにも性感帯に化けるんだろう。初めての感覚に、私は目を白黒させてしまう。脳味噌に一番地か居場所にある性器、それ同士を絡み擦りあわせて高まっていく興奮。私も、星熊も、鼻息を荒くしてお互いの舌を吸い、唾液を飲んで、時折僅かに離れた隙に互いの名前を囁きあって、そしてまた口づける。
 最初は星熊の体を押しのけようとしていた腕は、今は星熊の背に回されて強く抱きついている。もう離さない、離さないで、みたいに、体は嘘吐きで、どうしようもなく正直だった。服の上からでもわかるほど筋肉の付いた背中、盛り上がった肩胛骨、走る背骨のラインに指を伝わせては、逞しさに陶酔した。濡れた服同士体を重ねて擦りあわせることが、こんなにもいやらしいなんて。星熊の手も、私の胸を愛撫することにもう躊躇はなかった。人に胸を触られるのなんて初めて。まるで敏感にされてしまって、星熊のでにしろ、服の繊維にしろ、シャワーの水流にしろ、触れるもの全てに快感を感じてしまう。こんな貧相な膨らみを、本当に愛おしいものみたいに触ってなでて揉んでつまみ上げてくる。私はそのたびに甘い悲鳴を上げて、星熊の背中に回した腕に力を込めて強く抱きつき、もっともっとと言葉ではない言葉で訴えてしまう。
 星熊は、膝を突き出すようにして私の股を割る。背が高く足も長い星熊の太股に、私は股を乗せて体重をかける形にさせられた。

――こすれ、る……――

 もうシャワーでびしょ濡れになっているその内側で、別の液体が広がっている。ぬめるそれが、湯で薄まって、布地とこすれるのは少し刺激が強い。でも、それが逆に、私を追いつめた。星熊の太股が、私の股間を押しつぶすみたいに蠢く。体が浮き上がりそうなほど、股だけで私を浮き上がらせたり、前後上下に揺すってアソコを擦り上げてくる。

「だ、め……」

 もっとして、を意味する声を上げて、私は、星熊の太股の動きにあわせて腰を揺すっていた。まるで、星熊の太股で角オナしてるみたいで、凄く淫ら。私、こんなに品性下劣に快感をむさぼってしまうなんて。

 あ、ああ……んっ、んっ!はぁっ

 嫌らしい声が、次から次に口から漏れる。その淫乱な言葉を、星熊は一つ一つ口移しで食べるみたいにキスをくれて、そうされるたびに、私はまた興奮して、もっともっと淫らに腰を振ってしまう。星熊に強く抱きついて、雌媚びしてしまう。私のオンナを全部、星熊に捧げてしまう。
 そして。

「水橋……我慢、できない」
「ちょっと、まっ」

 まって、と言うのを聞かずに、星熊の手は私の股間に入り込んできた。
 にゅる、とそこは全く抵抗を見せなかった。むしろ下腹部あたりから陰毛に星熊の手が触れた段階で、入り口は瞬時に緩んだ。口を開けて、襞をそばだてて、私の淫裂はまさに、星熊の指ペニスを受け入れようとした。そしてそれが濡れた粘膜に触れた瞬間、自分でもわかるほど激しい蠕動。侵入してきた異物であるはずのそれを、私の膣はぐいぐい締め付けて、剰え奥へ奥へと飲み込んでいく。
 ぬるぬるになったそこは、星熊の指を二本、容易に飲み込んでしまった。指が私の媚び肉を擦り上げる度に、私の体は雷に打たれる。爆ぜる電流は、もちろんアソコが発生源。太股に割られた足の膝が、かくんと脱力したり、かと思えばピンと張ったまま動かせなくなったり。体重は、完全に間仕切りと星熊に委ねられていて、私の全身は星熊に抱きすくめられる悦びに打ち震えている。

「すごいよ、水橋のここ」
「い、言わないでよぉ」

 声は、泣き声になっていた。ヨガり泣きにも近い様で、星熊の行為に感じさせられて媚びきっている。私も、星熊を感じさせて上げたい、感じさせないといけないのに、私の体はその余裕を失っていた。
 星熊は一層強く、私の股間をまさぐる。淫裂に突き入れた指を、さっきよりも強く細かく震えさせて膣壁をかき混ぜてくる。攪拌された愛液と肉襞が、くちくちと野らしい音を立てているのが、耳と言うよりもヴァギナの肉伝いに感じられた。前後に抜き差しされると、もう堪らない。抜かれる動きには死ぬほどの切なさを感じて、抱きつく腕をぎゅっとしてしまう。腰をつきだして少しでも長く接続していたいと態度で示してしまう。寂寞に泣き咽ぶと今度は奥にゆっくりと押し込まれる。ぷつぷつ肉襞の突起一つ一つが、星熊の指ちんぽの存在を確かめて快感を炸裂させていく。奥に入ってくる動きには、腰を落として奥まで導き、前後左右にくねらせて膣内のあちこち、あるいは子宮の入り口付近にあるキモチイイところに刺激を送ろうとしてしまう。

「もっ、と、強く……ぅ」

 愚かね。可愛くもない顔、セックスアピールに乏しい体で、淫らを演じて見るも、なんて滑稽だろうか。それでも、私の体は悲しいほどオンナで、星熊に求められると死ぬほど悦んで媚びてしまうのだ。
 星熊は、私の求めに応じて指の動きをもっと強くしてくれる。膣には言っていない指を器用に立ててクリトリスも押し込むように刺激してきた。

「ぁっ!~~~~っ!そ、れ……っ、すご」

 自分ではそんな風に、自分を絶望的に追いつめる性刺激を与えたことがなかった。自分の意識とは関係のない動きで、自分では全くしたことのない強い刺激。女同士のセックスでは指がペニスの代わりなのだ、それを強く思い知らされる。星熊の指が、どうしようもなく愛おしく感じられていた。私を、快感に陥れる性器。私を愚鈍な雌に作り替える、魔法の肉。性交渉がまるで愛の表現であると錯覚してしまう悲しいカラダ。

「ほし、ぐまぁ、ほしぐま、ほしぐまぁぁっ!」

 シャワー室に誰かが来たら、誰かが星熊に抱かれていることがすぐにわかってしまうだろう。でも、きっとそれがあの水橋だなんてきっと誰も夢にも思わないだろう。
 名前を呼んで欲しかった。私みたいに、大声で私の名前を、誰かが来たら星熊に抱かれているのが私だってバレるように。
 でもそんなこと、口に出来ない。だって、相手はあの星熊勇儀なのだ。わたしとはすむ世界が違う、そもそもこの行為がただの気紛れかも知れない、今こうして抱いて貰えているのが、分不相応の幸せ、それ以上を望の何て、わがまま千万なのだ。私は、本当は、こんな風に求めて貰えるような存在ではないのだから。
 だから私は、星熊が私を呼んでくれるその代わりに、ただただ只管星熊の名前を叫ぶ。彼女がもしそれを嫌がるのなら、手で口を押さえてくれればいい。気遣ってくれるなら、キスで封じてくれれば、私はきっと聞き分ける。

「ほしぐま、ほしぐまほしっ、ぐま、ほしぐまほしぐま、ほしぐまぁぁぁっ」

 星熊は、それを止めなかった。私の名前を大きく叫んでくれることはなかったけど、耳元に甘い囁きで、名前を呼んでくれた。それだけで、私の意識はどんどんと白じんでいく。溶けて輪郭を失って、ただただ甘い蜂蜜に化けていく。
 股間から与えられてカラダ全体に感電していく快感は、もはや完全に神経を佐藤細工に作り替えていた。溶ける。甘い。キモチイイ。星熊、ほしぐま、嫌い、きらいきらいきらいだいっきらい、でも、でも

「す」

 き、は言わなかった。それを言ったら、きっと、いろんなものが終わってしまうから。私の中のいろんなものが砕けて、負けてしまうから。好きに塗りつぶされて嫌いが消えてしまうのだけは、私自身への嘘になる。

「水橋、なに?」
「すごく、きもち、い、もっと……ほしぐま、もっと……」

 どんな、だらしのない顔をしていただろう。星熊に媚びて服従する雌の顔は、どんなに下品だっただろう。好き、を言い掛けたことに、星熊は気づいてしまっただろうか。もし、察していたとしても、絶対に、口にはしない。

「く、る、キちゃう……!星熊ぁ、わたし、キちゃうよぉ!」
「うん、イって、オレの指で、オレの胸の中で、水橋、イって見せて!」

 星熊の指が、乱暴なくらい私の膣をかき混ぜてくる。入り口のビラビラをなぞったかと思うと奥まで突き入れて、中の肉襞一枚一枚をねぶり上げてはかき分けてさらに奥へ。こつん、こつんと固いところに当たる感覚は、子宮口か、そこを押し込むように刺激されると、お腹のそこから頭のてっぺん間で快感が走り抜けた。指を曲げて、へその下手前くらいのざらざらを撫でられると、もう、意識が飛びそうになる。変な声が涎と一緒に口から溢れ出して、視界はもうホワイトアウトしていた。首が据わらなくなって、膝日からも入らなくなり、かくんかくんと体が振れる。

「もう、だめ、らめ、っひ、らめぇっ」

 何がダメなのかわからないけれど、もうダメだった。耐えられない。いとおしさか、気持ちよさか、未知すぎる快感への恐怖か、好きだと叫んでしまいそうな自分へか。でもそれら全てが一点、オーガズムへ向かっている。星熊の指で、声で、体全体で……もしかしたら心で、私はイかされようとしてる。

「水橋、好きだよ、水橋、水橋っ」

 名前を連呼されて、それにそえられた”好き”の言葉。体を支配し続ける、強烈すぎる性感。シャワーの熱がそれらを全て溶解させて私の体の奥深くへ浸透させてくる。

 もう、限界だった。

 トドメだよとイわんばかりに、水橋はそれまで上半身を愛撫していたもう片方の手も下半身へ持って行き片方の手が膣内をしつように愛撫して私を絶頂へ追い込んでいく一方で、こっちの手は淫核にトドメを加えてきた。

「っあ、っっっっっっ!そ、そっれ、された、ら……」

 もう包皮は剥け去っている。剥き出しになった淫核媚粘膜を、容赦なくつまみ上げ、押し込み、つねる。突き抜ける快感は、私の許容量を一瞬で突破して……

「っ、あ、も、それ、だめ、だめだめだっめ、イく、イくっ、いくいくいくいくいっく、ん~~~~~~~~~~っ!!!」

 星熊の体と間仕切りの間にある私の燃え上がった体が、激しく跳ね回った。ぴぃんと背筋からつま先まで全部が仰け反り、星熊の体を跳ね飛ばさんほどに痙攣してしまう。
 私が何度かイき痙攣を繰り返している間に、星熊の手が私の手を握った。指と指の間に指を絡ませるように手がつながって、ぎゅっと握る。手がつながって、安心感がすうっと胸の奥に入り込んできて、絶頂に対する警戒心が消え去ると、私はオーガズムの波に抗うのを一切やめてしまい、そのまま意識を失ってしまった。







 星熊はその後、私を着替えさせた後で体もすっかり拭いてくれて私が目を覚ますまで抱いていていくれた。目を覚ましたときに、星熊の顔が、鼻が触れそうなくらいに近くて、目が合いた瞬間に、キスされた。そういうの、ずるいと思った。

「ごめん、レイプ、みたいだったかな」
「……レイプでしょ、あんなやり方で始めて」

 私がそう言うと、蒼白な顔をして土下座する星熊。

「いいよ、謝んなくったって。」
「えっ、ゆるしてくれる?じゃあ」

 星熊が言いそうなことは見当が付いたので、それを遮る。
 無理矢理、とはちょっと言い難い、私も流されてのことだったけれど、これは、はっきりと伝えておかないといけない。

「勘違い、しないで。あんな風になった私が、こんなこと言っても、説得力ないかも知れないけど」
「あ……」
「恋人になるとか、そういうのは、なしだから。そう言うつもりで、その、された訳じゃないわ」

 何を言っても、あんなに乱れてイかされた後じゃ、なんだかバカみたいだ。いっそレイプだったと怒り散らした方がよかったのかも知れないけど、あいつのこと、やっぱり好きなのは間違いがないし。それと同じぶん嫌いで、だからこそ、星熊が望んでいるような関係になるつもり何てなかった。それを想像しても、反吐がでそうでもあった。

「レイプだったなんて、言わないけど」

 星熊の表情が、少し暗くなる。

「だけど、二度とこういうこと、しないで」

 わかった、ほんとうに、ごめん。星熊はもう一度深く頭を下げて、私がもういいと言うまで絶対に頭を上げようとしなかった。

 私が、こんな精神異常者でなかったら、きっと星熊と幸せに、なれていたかも知れないのに。
 それは口に出さずに飲み込んで、私は、帰って、と星熊を先に帰した。私はしばらく、星熊が私をめちゃくちゃ抱いたシャワーブースに佇んで、かき乱された感情を整理しようとして……そしてそれはやっぱりうまくいかなかった。

 私は、本当に、クズ女だ。








 それからしばらくは、本当に何もなかった。
 星熊も、少しは行動をセーブしているようだったし、私の方も、以前以上に星熊の姿を避けていた。

 でも、その状況はすぐに変化してしまった。







 どうして、こうなってしまったのか。
 それを考えても仕方のないことだと思う。私にどうにかできることではなかったし、むしろ、星熊の人望と能力を考えれば、それは至極自然な出来事だったのかも知れない。

 チームは戦勝ムードに染まっていた。全国規模の大会の予選を勝ち抜けたのは、この学校初の快挙だったのだから。今やチームの二強となっている鈴仙と犬走は、ほかのチームメイトや教師達から、祝福と讃辞を一心に受けている。
 そしてもう一人、犬走、鈴仙と並んで皆の注目を受けている人物がいた。

 星熊である。

「射命丸さんがいたら、どっち側にいたでしょうね」

 鈴仙が、犬走に問う。

「そりゃ、あっちだろ」

 あっち、というのは、選手団側と祝福を送る側に分けた場合の、祝福する側の方だ。その中には、新聞部が含まれていて、選手にあれやこれやとインタビューをしている。

「あいつは新聞部の方が、本命みたいだったからな。そっち方面の成績はからっきしだったけど」
「これから目指すのは、先ずはベスト16です。そこまで上れば、きっとどこかで私達のことを見つけてくれますよ」
「……もう、あいつのことなんかどうでもいい。いなくなった奴のこと考えても、チームのためにはならないからな」

 そう言う犬走の表情から、本当にその通り思っているという様子はひとかけらも感じられなかった。少し俯き気味に鈴仙の問に答えて、それは明らかに射命丸のことを思い出している仕草だ。

「そうですね、ごめんなさい」

 鈴仙は、いらぬことを聞いてしまったと犬走に謝る。そして、今度は、あいつに、声をかけた。

「星熊さんのお陰、って言っても過言じゃないかも知れませんね、今回の勝利は」
「全くだね。文の抜け分、お釣りが来るかも」
「そんなことないって。鈴仙が抜いてくれないと点取れないもん。それと名津の名軍師っぷりかね、正直監督いらないわw」
「それは言い過ぎです、星熊さん。監督が立てるのは戦略、私が選手として実行できるのは精々戦術級のものですから。あなたのパワーは愚直ですが、相手チームにそれを抑える手だてがなかった。それだけの話です」

 そう。
 星熊が、ラクロス部に編入してきたのだ。
 しかもそれを契機にしたかのように、うちの学校は急に成績を伸ばして、今はこうして全国大会の地区予選を勝ち抜いていた。したかのように、とはこの状況にトリックが含まれているということだ。元々上り調子だった我がチームに、最初にもたらされた大きな専科というのが、星熊のレギュラー入りに時期が重なっていたという、それだけの話なのだ。

 小回りの点で言うアジリティは射命丸に遠く及んでいないが、直線に入ったときの速度や、ラインの上げ下げでの速度は、陸上で培った速度がそのまま活かせる。スポーツ万能をまるで絵に描いたような星熊は、基本動作をあっという間にマスターして気が付けばレギュラー入りを果たしていた。彼女ほどの実力者が編入することに、チームメンバーはさほどの抵抗を見せなかったが、それは実力と言うだけではなく、星熊勇儀というブランドのような何かが後押ししたせいもある。それが失敗であれば、やはり、と言う声も挙がったかも知れないが、結局こうして成功している以上、疑いを持つ者はいなかった。

「射命丸じゃ、だめだったってことなですか?」

 インタビュアーが質問を投げかける。答えるのは犬走だ。

「結果的に、そう言うことになるな」

 犬走はそう答えていたが、私のはそうじゃないと思う。うちのチームは弱小だったけど、もとよりここ最近は勝ちを重ねていた。それは、前まで仲が悪かった射命丸と犬走が、急に接近したからだ。彼女達二人が噛み合うようになってからは、チームをぐんぐんと引っ張って、それがチーム全体の底上げになっていたのだ。射命丸がいなくなってしまったのはチームにとっては確かに痛手で、星熊の参入はあくまでその穴埋めという色合いが強いはずだった。

 だが、それを口にしない犬走。逆に、彼女にとって射命丸という存在がいかに大きかったか、それを口実にしたくないという思い故にその回答になったであろうことは、容易に想像が付いた。

「あいつがいたら、内部事情を知ってるインタビューとかしてきて、死ぬほどウザかったさ、きっと」
「そう、ですね。」

 鈴仙は、犬走を気遣うように、そっと答えている。その一方で、戦勝インタビューは星熊のことへとフォーカスを移しているようだった。

「星熊さんは、何故陸上部からラクロス部へ?」
「どうせ300メートル走は公式種目じゃないから。それは個人で好きにやろうかな。だから、やったことのない球技でもやってみようかと思って。球技の中からラクロスを選んだことに、本当は大した理由なんて無かったよ。でも、やってみたら面白くってさ」

 陸上から球技に転向した星熊は、いつもそう答えていたが、肝心の、何故ラクロス部だったのか、という質問にはこの通り一切答えないままだ。それは憶測を生み、うだつの上がらないラクロス部を一気に全国レベルまであげることで、何らかの実績を作り出そうとしているのだ、とか、まあいろいろの噂が立った。しかもそれはすべて彼女に好意的な内容であって、逐一に星熊勇儀の持つ実力と人望の分厚さを痛感させられる。

 だが、これがうぬぼれでなければ、彼女の動機はそんな高尚なものではない。

 ――水橋と、一緒に登校したい。同じ部で同じ朝練に行くなら、文句ないよね?――

 いつかにそう言われたことがある。私はきっぱりと、迷惑だからやめてくれと突っぱねたつもりだったのに、彼女はラクロス部に入部していた。もう済ませてしまった入部の手続きをして、もはや私に何かできることなんて無かった。星熊が私にくっついて回ることを妨げるのはいつの間にか難しくなっていた。

 で、その私は?
 今回の予選では、結局一度も出場していない。完全にベンチウォーマーだった。ウォームアップさえしていない。試合に出られそうな予感もなくて、私は同じ試合に同席していながら、どこか他人事のように空を見たり携帯をいじっていた。これなら、試合になんかこないで、自主練でもしていた方が、ましだと思っていた。

 それに、あいつが活躍している試合なんか、見ていられなかったのだ。

 予感していたとおりだ。彼女のような実力者が介入すれば、私の存在なんか全く無視しても問題がないのだ。私の立場なんか一足飛びに超えて、彼女はレギュラーになり、こうして祝賀会で中心人物となっている。
 やっぱり星熊はすごい、そもそも期待値が違う。その上でその期待に正しく応えるのだから、評価はさらに上がっていく。

 私のような、それを得る機会のない弱者には、到底届くことのない領域が、そこにはあった。

 私は、このチームの一員であることに違和感を憶えていた。こんな風に祝福されるのは、実際に試合に出た人達だけでいいだろう。ワールドカップやなにやらと言うわけではない、控えの選手に重要性などほとんどないのだ。事実、祝福の言葉は多くが出場選手に向けられたものであって、スターティングメンバーではなくとも途中出場した選手もまた、あのプレイが、途中出場からアシストにつないだ、と華々しく扱われている。彼女達にはその資格があるのだ、ちゃんと、勝利に貢献したという実績があるのだから。

 だが私は違う。結局フィールドに一歩たりとも足を踏み入れることなく終わり、何のプレイもしていない。
 チーム全体の勝利です、とか、控えのメンバーの支えや安心感、なんて上辺だけの言葉に、なにも感じやしない。むしろ、そんな憐れみの言葉なんか、くれなくていい。情けなくなるだけなのだ。
 勝利はプレイヤーのもの。紛れもなく、その通りなのだ。

 私は、このチームの一員であるのに、相応しくない。

 勝利、予選突破という祝賀にあって、私は逆に強い疎外感を感じている。負けているときの方が、気が楽だった。私も一緒に頑張ろうという気になれた。同じく勝利というものを見て走っていられたから。だが、こうした雰囲気を一度でも纏ってしまうと、みるものはバラバラになる。勝利ではなく、その視線の先にはヒーローが立っているのだ。

 私は、チームの一員であることに負担を感じ始めていた。チームメンバーが固まって座っているあたりから、少し離れて人のいないあたり。照明も視線も余り当たっていない隅の方で、私はチームメイトが祝福を受けている様を憎々しげに見ていた。

 皆に囲まれて、笑う星熊。
 鈴仙や犬走と、チームメイトとしていい関係を既に築き上げているようでもある。あっこのしーんでは、相手の何番がほにゃららで、でも犬走がちゃんと止めたからさ、などと、試合の内容について話している。嫌みったらしくもなければ謙遜も過ぎない。それはある意味で、褒められ讃えられることそれ自体になれているからでもある。返し方が洗練されているのだ。それも、彼女達”持てる者”の特徴であった。本当に得意になっていないかどうかはわからないが、少なくともそれを感じさせない受け答えというのは、必須要件なのらしい。私の中には、そう言ったときのマニュアルはなかった。きっとしどろもどろになったあげく、印象のよくない返し方をしてしまうだろう。

 皆の視線が、星熊に向いている。
 いつもの、ことじゃないか。彼女はいつでも輝いていて、私はいつも通り日陰者。光と陰なんて対称を謳うのさえおこがましい。星熊にとって、私は比較対照にさえならない、取るに足らない存在なのだから。

 あいつが私を抱いたことと、今こうしてあいつと私の間に横たわっている大きな隔たり。それに目をやってしまうと、もう、だめだった。何もかもが腹立たしくて、自分が惨めで、そこにいるのが辛くて堪らなくなった。

 私は、一人その部屋を出る。
 つまらない。
 すべては、ああいう英雄達が持って行くのだ。私達底辺は、ある意味で彼らの餌食となって消えていくのだ。







 水橋!
 いつも通りの構内、”帰ろうと”歩いていた廊下で不意に呼び止められて振り返ると、案の定星熊だった。

「なんで、辞めちゃうんだよ」
「別に。前から考えてたことだし」

 嘘だった。でも、”星熊が近くに現れたら”という条件下で言えば、決めていたことだと言っても間違いはない。
 退部届を提出してきた。正直、星熊がそれをどこから嗅ぎつけたのかは驚きだったが、そんなことは別になんの意味もない。何故辞めたのかと言われれば、本当のところは、星熊、あんたが入部してきたからよ。

「オレのせい?」
「違うわよ」

 違わない。

「オレが入部しなかったら、水橋、繰り上げレギュラーだった?」
「そんなの知らないわ。監督に聞いて」

 確かに、射命丸がいなくなってその穴が繰り上がる形で埋められるなら、少なくともレギュラーには近づいていたかも知れない。だがそうはならなかった。星熊が来て、チームは成績を伸ばし続けていて、新たな英雄の登場を祝い、補欠メンバーは何も変わらない。元々、レギュラーになれなくたっていいと言うくらいラクロスが好きだというわけでもない。陸上部を回避した理由が星熊の存在であった頃から特に何かが変わっているわけでもない以上、ラクロス部に残っている理由も、特にはなかった。この先も星熊に傍にいられることを想像し、耐えきれなくなって辞めただけだ。

「その……シャワー室で、エッチなことしたの、やっぱり」
「あんなことが理由じゃないわ。あの時のことは、もう忘れるって、約束したでしょ」

 あんなことで、嫌いになったりするものか。元々嫌いなのだ。それだけじゃない、あんなことをされて嬉しいと思ってしまうくらい、好き、でもある。星熊から離れたくなるのはそう言う矛盾した感覚に自分で折り合いを付けられないからだ。星熊のせいだけど、星熊のせいじゃない。悪いのは星熊だけど、悪いのは私だ。私なのだ。責められるのは私だ。ただ、退部することで誰かに迷惑をかけているわけではない。チームの戦力は変わらないし、それ以外に私が部にいることで貢献できていたこと何て何一つない。

「じゃあ、なんでそんなに、オレを避けるの?」
「それは、元々だったでしょ。一回抱いたくらいで、勘違いしないでっていったはずだわ。私があんたを避ける理由があるとすれば、それはあんたが星熊勇儀だからよ」

 そんな、と星熊は困り声を上げる。

「やっぱり、学園のヒーローと根暗キチガイじゃ、釣り合わないでしょう?」
「釣り合うとか釣り合わないとかじゃなくってさ。……そんなんだったら、オレ、水橋にあんなこと、したいって思わないよ。水橋がどんなでも、オレには関係ないもん」
「あんたには関係なくても、私には関係あるの」

 あんなこと、とは、シャワー室で私を抱いて、散々甘い言葉で蕩かせて、何度も何度もイかされたことだ。星熊は、他の生徒の目とか外聞とか噂話とか、私の社会的立場とかそう言うのは全然気にしない、そんなのをひっくるめたって、やっぱりえっちしたいほど好きなんだと、そう言いたいのだろう。でも、そんなの何の解決にもならない。あんたの気持ちなんて、私には関係ないのだから。

「あんたにはわからないでしょうね。あんたが好きだって言ったら、断る女がいないと思ってるんでしょう?自分が好きなんだから相手も好きだって、すごい自惚れ。そう言うのが許せないって言ってるの。でもそうね、普通ならあんたの誘いを断る奴なんていないわ。ヒーロー星熊のアプローチを断るなんて、私がおかしいのよ」
「そう言うことを言いたいんじゃないよ」
「じゃあどういうことをいいたいの?」

 いくら何の理由を並べられたって、星熊を手放しで受け止めることなんてできない。だって、星熊勇儀は、もう、星熊勇儀なんだから。綺麗事じゃない。

「……水橋はさ」
「なによ」
「水橋は、オレと自分が釣り合わないからとか、いつもそう言う風に言うけどさ」
「ええ、言うわね」
「オレ、そんなの気にしないから。他のみんなが水橋のこと何て言ってるのかオレはよくわかってないのかも知れない。可愛くないとか?暗いとか?空気読めないとか?そんなことないだろ。オレは水橋のこと可愛いと思ってるし、暗いったって、ほら、こうして話できてるだろ。オレ自身空気読めない方だし、そんな噂、平気だよ。他の奴らには、好きなように言わせておけばいいって。そう言うのを除いても、オレのこと、嫌いなの?」

 星熊は、まるで見当違いのことを言って、私をフォローする。いや、きっと私が普通の女の子で、その上で同じ科白を言って星熊の誘いを断っているのなら、彼女の言葉はきっと救いになるのだろう。でも、私のは、違うんだ。

「質問で返すけれど、星熊って、どうして私のこと好きなの?」
「どうして、って……理由なんてわかんないよ。好きなものは好きなんだ。気が付いたら好きだった。いつも、グラウンドの隅でクレイドルの練習してただろ。あれ見てさ、かっこいいって思ったんだ。で、どんな子がしてるんだろうって近くまで行ってみたら、水橋でさ。今度は可愛いって思ったんだ。それから、ずっと好き、かな。一目惚れかも。こんな風に人のこと、他の誰も見えないほど好きになったのなんて、初めてだし」
「あんたよりかっこいい奴なんて、この学校にいないわ。可愛いのなら、黒谷さんがダントツでしょう?ラクロスのことなら、犬走が一番ね。……全っ然理由になってない。」

 やはり、そうなのだ。全く、よくそんなことを嘯けるものだ。

「一番じゃないと、ダメなのか?どうしてそんなことにこだわるんだ?愛してるって感覚は、そんな打算的なものなの?」
「私が一番でなきゃいけないなんて、そんなことはないわ。でも、あんたが”持てる者”なんだから仕方ないでしょう?あんたは一つじゃないいろんな分野で、一番になっていて、みんなはそれを認識してる。私だって、あなたを尊敬してるわ。星熊勇儀が私みたいな、クソ雑魚非モテぶさ女だったなら、私はきっと毎日喜んで手を繋いで登下校してたと思う。お昼御飯だって一緒に食べて、休日も一緒に過ごして、シャワーであんたにされたみたいなこと、きっともっといっぱいしてる。でもそうじゃない。私と星熊勇儀の間には如何ともし難い差がある。私は愛玩動物じゃないわ。尊敬されることも対等に並んで歩くこともできない相手と一緒にいて、よしよしいいこいいこ、なんてされるのが耐えられないの。そんな風にして一緒にいて貰うことの辛さがつわかる?尊敬している分だけ嫌いなの。憧れて羨む分だけ嫌いなの。好きだと主嘘の分そっくりそのまま嫌いなの。わかる?ええきっと、もうそこにいるあなたには、わからないでしょうね?」

 私がそう言うと、星熊は、わからないよ、そんな感覚、何で釣り合う相手とじゃなきゃダメなんだ?オレが水橋を好きだって言う感情は、間違ってるとでも言うの?と、悲壮なほどの表情で私の腕を掴んでくる。

「水橋を見て、この子を、守ってあげたいって、そう思ったんだ。あらゆる危険とか、悲しみとか、辛いこととか、寒さからも暑さからも、痛みも苦しみも、全部全部私が引き受けて守って、水橋にずっと笑っていて欲しいって、そう思ってる。それじゃ、足りない?」

 その必死な様子が、私にはもう、我慢ならなかった。

「足りないとか足りるとかじゃない。そうやって、守って貰うのが女の子の幸せだと思ってるなら、言語道断だわ。許せない、そういうの。」

 星熊が、唖然として私の方を見ている。きっと想像できなかったに違いない、彼女の辞書に、私のような思考回路の人間は存在しなかったのだろう。いや、ほとんどの人の中には存在しないのだ、私のような不適合女の思考アルゴリズムなんて。

「どうせ憐れみなんでしょう。何にもあんたになんて敵わない、ひとつだって釣り合うようなところもない、情けない女に対する、あんたの感情はただの憐れみ。愛?ふざけないで。そんなもん、いらないのよ。あんたみたいな奴からの愛情とかね、反吐が出るのよ!高みから見下して、"お前はそのままでいい"ですって?その態度が赦せないのよ!自分はお前よりも優れてるって、堂々としたその態度も、それが許されるあんたの有能さも、全部、ぜんっっぶ、赦せないの、憎いの、だいっきらいなの!!」

 星熊は、何も答えられずに、ただ私の目を見ている。そんなんじゃ、そんなんじゃない、私は水橋のことそんな風には、撫でる?抱く?きっと何か優しくしようとしたのだろう腕を、振り払った。
 星熊は、悲しそうな顔で、縋るような表情で、まるで星熊勇儀ではないみたいな弱々しい様子で、私に問う。

「……教えてくれ、オレは、どうすれば、水橋と一緒にいられるんだ」
「そんな方法、どこを探したってないわ。あんたが、星熊勇儀である以上、いいえ、その名前を捨てても、あんたくらい、必要とされる、素晴らしい、尊敬される、美しくて、格好良くて、誰もの憧れで、頼りがいのある、人望に溢れた……私より優れた奴は、誰だって、誰だって私に近付くのを許さない!」
「でもオレは、水橋のいいところ、いっぱい知ってる。オレは」

 暗闇、そう表現する者もあるだろう。その闇が深く暗くなるほどに、この緑色の感情は鮮やいでいく。感情の触れ幅が、端化していた。
 尊敬。敬意。憧憬。
 この人みたいになりたい。あんな風に自信に満ちてそれを裏打つ実力もあって。傍にいるだけでその欠片が拾えるみたいで。そんなあの人が隣にいたいと言ってくれて、その目が私を見、言葉が私のことを紡ぐのが、凄く嬉しい。
 その温かさを感じ、気持ちよくなるその真反対は、だが対消滅しないで一緒に大きく膨らんでいくのだ。
 劣等感。敵愾心。憐憫に対する反発。

「私の良いところを知っている、ですって?」

 私があの人を認めるその分だけ、あいつは私に対する優位性を持つ。私より優れていて、私は同じだけ見下される。あいつは、私を放逐する材料を、まさしくその優れた能力、篤い人望、自他ともの自信、何より、私があの人を敬い慕い憧れるのと等しい数持っていて、それをしてなお私に「対等」だの「一緒」だの「私の方が」「むしろその方が」「それでもまだ」と言うのは、あいつが自分の優位性を認めた上で、わざわざ私に合わせているだけに過ぎない。憐憫、慈悲、弱く小さく劣った私に対する、募金感覚なのだ。

「そんなの」

 謙遜も過ぎれば嫌味だが、それは主張の度合いばかりが作り上げるものではない。こうした歴然とした力の差、埋まらない溝、届かない距離、越えられない壁をして、相手がこちらへ渡ってくるのは、それ自体が。

「あんたが言う、そんなもの、罵倒にも等しいわ」

 責めているようで。嘲嗤われているようで。

「私があんたと一緒?そういう憐れみが、嫌だつってんのよ」
「憐れみなんて」
「じゃあ何なの?身分違いにも等しいこの二人の差を、何の想いが埋めるの?」
「好きって想いじゃだめなのか」
「"好きになるのに理由はない"?便利な言葉ね。本当に、そんなこと、あると思うの?」

 あの人を慕う感情その反対側に聳え立つもの。
 あいつを嫌う感情その反対側に聳え立つもの。
 どちらも私には、どうすることだってできない。あの巨大な存在を前にして、矮小な私には、どうすることだって、できやしないんだ。
 
「オレが入部したことを、怒ってるのか?」
「そんなことを怒ってなんて、ないわよ。自分に失望しただけ」
「自分を?オレを恨めばいいだろう」
「恨んでるわよ!でもそれは、入部そのものへじゃないわ。私より力があるっていう、あんたが思ってるよりももっとあんたの根本への恨み、私なんかあんたにとって存在しないも同然だって言う自分への憎悪」
「何で、自分に向けるんだ。オレを恨むべきだろう」
「だったら何で皆、あんたに笑いかけるのよ!?あんたを笑顔でチームに迎え入れて、頼りにして、皆、よかったよかったって、めでたしめでたしになるの!?それは、あんたが間違ってないからよ。あんたが望まれていて、私が不要で悪者だからよ。あんたを恨むなんて、間違ってる」
「悪者だなんて」
「じゃああんたに向けられた皆の笑顔は偽物?私よりあんたがいてよかったっていう、動かない証拠でしょう?」

 ネガティブ思考?客観よ。客観がネガティブに等しくなるのは、自分の能力が低い証拠。相応の能力が伴う客観なら、それなりのポジティブも生じるだろう。

「レギュラー入りとベンチスタートの差ばかりだけじゃないわ。私とあんたは実態として、どこを切り取ってもさっぱりああ言った様子なのよ。あなたは素晴らしくって誰からも慕われる寵児。私はその足元で、沼に沈まないように必死にもがくのが精々の亡者。」

 ごめん。
 理不尽で、行き場もない私の叱責に、星熊は腹を立てるどころかこともあろうに謝る。だが、そうじゃない。私は、あんたに謝って欲しわけじゃない。だって、悪いだなんてこれっぽっちも思っていない、反省のない謝罪なんてされるくらいなら、無視された方がましだもの。

「あんたは悪くないわ。悪いのは、全部私だから。力がなくて劣った私。受け入れられることも受け入れられないことも認められない愚かな私。今の私とあんたを見て、あんたを悪いという人は誰もいないでしょう。誰もが私を指さして、このキチガイと笑うでしょう。それが、事実よ」

 これが私でなければ。私みたいな歪んだ考え方の女でなければ……私よりも劣った誰かであっても、きっと素直にあいつの好意を受け入れ幸せな関係になっているはずだ。こんな風に捻れ、ぶつかり、感情の触れ幅が酷くなるのは、私が異常なだけだ。

「それでも、オレは、水橋が好きだ」

 真っ直ぐすぎる、星熊の感情。星熊らしい。私にはそれが愛おしくて、でも、眩暈がするほど不快なの!

「そんなに、私が好き?こんな、クズみたいな奴を。クズを好きだなんて、星熊勇儀も語るに落ちたわね」
「構わない、ただ、オレは。それとも、オレが嫌いか?」
「いつもそうだっていってるじゃない!」

 力がある強い者は、自分を信じて貫き通した上で、不利な状態からでも勝利をもぎ取るのだ。無力な者には全く想像も出来ない、手の届かない振る舞い。英雄、と、人は讃えるか。私からすればそれは。

「だったらさ」

 憎い。その才覚も美貌も、憧憬は愛情にも似て逆数。溢れた言葉はあんまりにも陳腐で、悪意。でも、本当。

「だったらさぁ、私のために、死んでくれる?」

 いつかのバスの中で見た、安っぽいドラマの台詞を、私は間抜けなオウムみたいに繰り返していた。あんな台詞、死んでも言うものかと思っていたけど、ははあ、「死んで」とは、相手にこれ以上ない苦痛を与えながら自分の世界から退場願うのに、もっとも効果的な三文字に違いなかった。

「ねえ。私の苦しみはね、あんたみたいな正義の優等と、それをもてはやす空気が蔓延ることよ。あんたたちの威光は、私の居場所を奪い、苦しめ、時には殺しだってする。あんたにその意志も意識もなくったってね」

 さすがの星熊も、面食らっている。冗談だろう、と笑おうとしたが、私の目を見てそれをやめたようだ。きっと、緑色、だったのだろう。

「だから、星熊、死んでくれる?」
「水橋」
「私を守りたいって言うんなら、まずあんたが最初に、死んでよ」

 死んでなんて、言い過ぎだったかしら。震える声で繋いで、最後の一言を、叫んだ。これが、私のすべてだ。

「私の目の前に、二度と現れないで!」







 昨日、あんな風に啖呵を切ってそのまま下校したものだから、自分がやったこととは言え余り気分のいい朝ではなかった。星熊は、今日、どういう風に絡んでくるだろう。おとなしくなるだろうか。

 ふとバスから外を見ると、やけに、パトカーが多くないか。私は何も悪いことなんかしていない。しているとするなら、私のような劣等が、他の能力ある人達と同じ資源を使い潰す「不平等」の罪だろう。だが残念ながらそれは刑事訴追されるほど認識された罪ではなかった。私はこれ見よがしに、三白眼で無罪の看板を振りかざすようなそんな気分で、バスに乗ったままパトカーの横を通り過ぎる。横目でその中を見ようとしたが、巧く見えなかった。救急車も止まっている。事故でもあったんだろうか。
 赤色灯が回る風景の中には、私の世界からは隔離されているだけで、涙や血が徒花を咲かせて小説よりも奇なる物語が紡がれている。日々その脇を歩き過ぎる中で、私はそうした痛みや悲しみを無視してまるで別世界に生きる全く笑うしかないお目出度い日々をへらへらと過ごしているのだ。こうして隔てる数メートル向こうには、器用に何事もなく――それは臆病さと狡猾さの反吐い部分だけを縫い合わせた様――生きる私からは無限の向こうにある世界が広がっていて、世間はそれを腫れ物のように扱うが、事実それこそが真実の姿なのだ。潔癖な無罪社会に、その歪な隔離は、人に何を植え付けるだろう。その狭間はしかも無人ではない。間に立って鮮やかな非日常を処理する日常生活者が確かにいて、そういった人達はより一層の理不尽に生きているはずなのに、私はそれにさえ目を瞑って生きている。何という歪さだろうか。

 私は、バスの窓ガラスに映る自分の顔に唾を吐きかけたくなるのをすんでのところで堪えた。

 いつも通りのバス、から二本早い、新たな定刻。それでもあいつは狙い澄ましていつも通り私の横に座る……だろうか。昨日、あれほどこっぴどく言ってやったのだ。本心には違いなく、欠片ほどの偽りもない。ほんの少し残る後悔の源泉は、私が悪態を付き本心を吐露してあいつを罵倒しているときに視界の隅へ入り込んだ、あいつの悲しそうな顔だったが、その程度の悲しみ、私が今まで生きてきてあいつ等みたいな「無自覚に持っている者」に与えられた苦痛に比べれば、屁みたいなものだ。むしろ涙でも流してくれた方が清々すると言うものだった。
 私があの、赤色灯の群に囲まれることだって、そう隔たったことではないように思える。勢い余って、私よりも優れた人達、私よりも支持を受ける人達、私よりも天に愛され、人に愛され、何より他人の容認の内に自分を愛する人達を、思う存分にコンクリートブロック、ビール瓶、、バールのようなもの、腕力に自信があったのなら拳で打ち付けて血と皮膚の境界をすっかりズタズタに破ってモザイク必須の光景をこの手で作り上げたとしても、私は自分に疑問は抱くまいと思う。
 星熊勇儀、あいつに対しても、それは例に漏れない。いろいろの局面はあれど、私があいつをそうするのに、そう高いハードルを越える必要はないと思っていた。

――~~、丁目。~~丁目――

 いつもあいつが乗り込んでくるバス停。アナウンスと共にすらりとした長身が、乗り込んで来るものと思っていた。

 だが、今日はその姿はなかった。

 こんな風に何事も起こらないこのバス停は、久しぶりだった。別に、降りる人が一人二人いるだけで誰も乗ってこないバス停車なんて珍しいことじゃない。だというのに、妙に、もの悲しい停車に思える。後ドアを開けるガス圧の音が、静寂にも似た寂寞をバス内へ描いて消えた。私は、もう閉まったドア、既に発車し誰も乗り込んでこないドア前の空間を、ぼんやりと眺めてしまう。いつもみたいに、あの長い足が、ステップを踏み上がってくるような、そんな気がして。

 別に。あいつが毎朝必ず私の乗るバスに乗り込んでくるだなんて必然があるはずもない。今日一日がそういう日であったとしても、この先それなりの頻度でこうしたことがあっても、何ら不思議はないのだ。そう自分に言い聞かせたとしても、何か妙な胸騒ぎが、治まらないでいた。群れるパトカー、救急車、まだ朝だというのに妙に鮮やかな赤色灯の回転光、けたたましいサイレン。昨日、言い過ぎたかも知れない、この台詞。

――だったら、死んでくれる?――

 背筋が冷えて、冬でもないのにぶるり、身を震わせた。まさか、あの赤色灯に囲まれた非日常の世界の中で、もしかしたら物言わない物体へと変容しているのは、まさか。
 私は努めてその先を考えないように、窓の向こうで走馬燈のように送り出されては消え変わりゆく後継に視線を投げ続けた。

(あいつに限って、そんな事を言われただけで)

 今日に限って、前髪が、やけに鬱陶しかった。
 バスに乗ってややもすれば、パトランプの姿など見えなくなった。そこに見えたかも知れない非日常凄惨世界も、遙か彼方の他人事へ追いやられる。脳裏にちくりと刺さる可能性と恐れは消え去ることはなかったが、それは無根拠な自己説得によって否定を継続されている。
 朝のホームルームの前には傍にいて、昼休みにはいつも通り私に絡む星熊の姿が、自分にはこんなにも想像力があったのかと半ば呆れるくらいに描き出されていた。それがただの虚構であったとしても、いまのわたしには、重要なつっかえ棒だった。
 私は目を瞑って、周りの光景が目に入らないようにしながら学校へ向かった。







 今日も、あいつは姿を見せなかった。もう一週間にもなる。

 学園でも人望の篤い、体も丈夫な体育系、陸上をへてラクロス部を全国区へ押し上げた立役者、皆勤ペースのあいつが、しかし欠席しているとのことで、私は自分の席から一歩たりとも動かなくてもあいつの噂を耳にすることになった。私がいなくても、こうして人が私の話をすることはないだろう。それだけ、星熊勇儀の人気は高く、それだけ私は自分の卑小さを思い知る。
 あの発言をした翌日、登校中の、バスの中から見た赤色灯の群を思い出す。パトカーだけではない、救急車も来ていた。あの付近は、いつもあいつが乗ってくるバス停の辺りではなかったか。

 不都合主義のピースが、隙間だらけに組み上がっていく。心臓が、徐々に拍動のスピードを増していく。体温が上がり、冷や汗が垂れる。

 まさか、本当に。

 携帯を取り出して、この辺りの地名と"その"ワードを入力する。僅か二文字のそれを入力するのに妙に汗が滑って、随分苦戦した。
 あり得ない。あり得ない。あいつに限って、そんなのはあり得ない。だって理由がない。私みたいな取るに足らない雑魚に何を言われようと、あいつを取り巻く分厚い支持層は変わらない。それこそあいつの正しさを肯定し私の誤謬を指摘する事実なのだ。そんなことをする説得力ある理由が、何一つ見つからなかった。
 私はああ言ってやったが、その実本来的には、私こそ、社会生活に不適合な私がこそ、殺されるべきなのだ。もちろん私は主体性を持っていて、自ら命を絶つほどの正義感もない。私個人としては私は無罪だ。だが世界はそうは言うまい。

――世間に余された不適合女が、将来有望な人材を死に追いやった――

 携帯の検索結果には、”それ”らしい情報はなかった。ない、だけだ。否定情報があるわけではない。ネットなどその程度の安堵しか担保しない。
 想像される最悪のケースが脳内に巡る。まだ、決まった訳じゃない。それらの情報を紐付けるキーは、まだ何も、ない。それでも頭の中をぐるぐると彷徨く想像は、まるで虚構に過ぎないのにもっともらしい色合いを帯びて写真じみて現実感を獲得していく。ああ明日には、欠席しているという話が、もっと凄惨な内容に変わっているのが、ありありと想像できるじゃないか。

(普通の感覚を持っていて。私が死ねと言ったから死ぬなんて、阿呆はしでかさないで)

 死んで欲しいと、本当に思っていた。
 でもそれをもっと解剖して奥を確かめてみれば、正確には少々違ったのだ。
 私は、あいつに「死」という苦痛を求めた訳じゃない。勿論そうであった方が胸はすくだろうが。私は、あいつに「消えて」欲しかったのだ。きれいすっかり、痕跡もなく居なかったことになあって欲しい。あいつが居た場所が、居なくなったことでぽっかりと空くことは望んでいない。居なかったなりの平坦、優れた何者かが担っていた重荷が地に落とされるのではなく、それを力のない者が協力して担っている姿が当初からである様、そういったものを望んでいた。死も血も痛みも、それは私の復讐心であり、願望とは少し、異なったのだ。

 あいつが、自殺、などという莫迦げたことをする筈がない、そんな行動に妥当性など無いという思い、それと同時に沸き上がる、憎悪とは全く相反する、感情。

 気付けば、爪を噛んでいた。あいつが、いつだったかもう記憶にないけれど、綺麗だねと言ってくれた爪が、もう二枚ほどぎざぎざになってしまっていた。授業にも身が入らない。メールを送ろうか迷っていたが、名目が思いつかない。心配なんかしてるように思われたくない。なにか動でもいい話題を振って、返事があればそれでよしなのだ。だがこのメールアドレスが送信欄に表示されたことは一度もなく、その初回にあっては、いかな理由を付けてもそれは言い訳で、心配しているという意思表示に違わず受け取られることだろう。
 爪がもう一枚、ぎざぎざになった。

"無断欠席とはいいご身分ね"

 下書きを保存しますか? いいえ

"今日、あんたんちの近くにパトカーいっぱい止まってたけど、なんかあったの?"

 下書きを保存しますか? いいえ

"(空メール)"

 下書きを保存しますか? いいえ

 いつもポケットに入れている携帯が、鬱陶しくなって鞄の中に放り込んでチャックを閉めた。イライラする。
 家も知らない。実際、あいつが気心を許している、欠席の理由を知っていそうな奴も知らない。伊吹。黒谷。全然交遊がない。私には書き掛けた幾つかのメールに、送信、をタップするしか、星熊にアクセスする術がない。
 いや、気になんかせず、明日を待てばいいのだ。明日になれば状況は変わっているはずだ。明日変わらなければ、また明日。そう滅多なことは、あるはず無い。明日になればまた、昨日と同じに違いないのだ。そうなればまた、こうして気を揉んだ自分に腹が立つのだ。考えるだけ、損というもの、あいつの思惑通りで癪に障る結末だ。

「星熊、どうしたんだろうな」

 その言葉は、他の音声がローパスされるくぐもった音に聞こえるのに比べて、余りにも鮮明に耳を抉ってきた。びくっ、と全身の体が強ばるが、立ち上がってしまうのを抑えて、視線の一つもよこさない無関心を装う。だが、心臓だけが、正直だった。

「ああいう無欠超人こそ、内に秘める脆さが、ってか?」

 私が、星熊を(いやそれを含めた、選ばれた人達全てを)憎み呪詛する言葉を吐き続けたときの、あいつの歪んだ表情が、浮かんだ。あれが、傷つかない優等種が、する顔だったろうか。あの苦々しい顔を、私の言葉が作り出したと思うと愉快にも思えると同時に、それは私の非でありあいつにはこれっぽっちも悪いところはないことを思い知ると、全てその痛みは自分へ返ってくるようだ。

「今まで皆勤だったんでしょ?よっぽどの何かがあったのよ。星熊さんに限って」
「俺、あの近くに住んでんだけど、パトカーとか救急車いっぱいだったぜ。何かに巻き込まれたとか」
「夏休み前さ、星熊さんおとなしいっていうか、いつもおっきな声で挨拶してたのに、ここんとこ小さかったじゃない」

 それは、私がうるさいと、言ったからだ。真に受けやがって、あいつ。

「なんか、悩んでたんじゃね?ほら、陸上さぼり気味でさ、最近ラクロス部に編入したじゃん。陸上部でなんかあったとか」
「人間関係?」
「あり得る。星熊がやられる原因なんて、そういうナーバスなところ位じゃね?それ以外、全然平気そうだし」

 人間関係、の言葉に、私はぞくりと身を震わせた。話の矛先が、自分に向くのではないか。勿論私とあいつの関係は広く知れたことではない。それでも、被害妄想じみた受動が、働いてしまう。

「もう1週間だしねえ」
「明日も休みなら先生が家に行ってみるってゆってた」

 そうだ。それが賢明だ。杞憂に、違いないのだ。ただ風邪か何かで休んでいて、明日には登校してくる。私は小さく息を吐いて、落ち着こうとする。しかし。

「もし今日まで連絡がないってことは、何事もないか、逆にもっとでかい何かに巻き込まれてるってことだろ。星熊って、親元離れて一人暮らしらしいじゃん。先生方が知らないってことは親から連絡も無いってことは、つまりやっぱりなんかあったってことだ。家で寝込んでるだけなら、まだマシかもな」

 どくん。心臓が、口から出てくるかと思った。
 いや、その後者は、悲観的すぎる。私達一般の人間の傍に、そんな過激な結末は……そこまで考えて、今朝来るときに感じていた隔世感を思い起こした。そんな過激な結末、じつはすぐ隣に転がっているかも知れない。自分に限ってそんな経験は、そんな幻想は、何らかの社会的浄化によって感じ得なくなっているだけだ。
 だとしたら、やっぱり。

――死んでよ――

 自分が言い放った言葉が、ぐわんぐわん、頭の中でエコーする。反響する度に、私に突き刺さるような痛みと不安を植え付けてくる。私が、私のせい?

「自殺してたりして」

 とどめの、一言。

「やだ、そんなこ」
「あいつが自殺するわけ、無いでしょ!?する意味が分からない!!ふざけたこと言わないで!!」

 話の輪の中にいる一人を遮って、机4つ分も離れたところから、私は大声を上げてしまった。教室中が、しん、と静まる。全員が、私を見ていた。今まで私を見ることなんて無かった目が、全て、私を責めるように見ている。一つ一つが、私を怪訝に、疑うように、気持ちの悪いものを見るみたいに、面倒事を疎むように。
 視線は一つまた一つ私から剥がれて各の元の方へ戻り、しかし意識は全てこっちを向いたままだ。ひそひそと私のことを喋っている。気持ちの悪い奴がトチ狂ったとでも思っているのだろう。当たり前だ、冷静に考えて、今の私の行動は、気狂えている。
 だが、同じことを星熊がやったらどうだっただろうか。なにやってんだよと笑いの種になって教室中和むとか、そうだそうだと賛同を得るか、そういう結末になっただろう。この冷ややかで不快な空気感は、あいつではなく私だから、なのだ。これが、格差か。
 人の死を噂することを、やめろと言うことが間違っているはずもない。だがここでは私はキモい女で私が間違っている。私が正義を汚す。私でなければ、もっと上手に扱っただろう。

 どうせ私。しょせん。嫌われ、誰にも。汚物、余され、邪魔者、キチガイ。どうせ、私。

 胃がよじれて熱くなり、不快感を伴って喉元をこじ開けてくる。一人机を突いて立ち上がった姿勢のまま、不自然に浮いたまま、急激な胃痛と、吐き気。

「う゛っ」

 口を押さえてトイレに駆け込もうと思ったが間に合わない。この場でまき散らすのだけは回避しようと、教室の隅にあるゴミ箱へ駆け寄り、まるでそこに頭から突っ込むようにして、視界がゴミ箱の青に覆われた瞬間堰を切ったように。

 びちゃびちゃ、深いな音がごみ箱の中で反芻して私の耳へ。昼に食べたご飯の粒々が、中途半端にぶよぶよで、蛆みたいになってる。味噌汁のわかめは消化されずに黒い斑点を残し、その他諸々の残骸は姿を解け合わせて汚らしいゲル状。胃液が食道と口内を灼き熱いのにそれは全然消毒してくれない。汚物を汚物たらしめる不快な熱さ。消化途中の吐き気を促進する匂いが充満して、そこに頭を突っ込んでいる自分の姿を想像すると情けなくて涙が出てきた。
 ほら、あいつと私はこんなに違って、私の方が不要で、あんたは、消える必要なんてこれっぽっちもないのに。

 一頻り吐き終えた私を迎えたのは、さっきよりも一層色濃くなった種々の目。いきなり叫び出しては吐き出し、今度は泣いているという、どう考えても精神的に異常を来している私の姿を、不快感を越えた憐憫の目で見ている。その目、哀れむような目、私が一番苦しく感じる視線を知っていて、こいつら、こいつら!!

 でも、悪いのは私なんでしょう。

 怒りと惨めさ両方のパラメータがカンストして、私はその場にうずくまって泣いた。このまま消えてしまいたい。消えるべきは、星熊、あんたじゃなくて、私なのだ。

(明日は、きっと、ちゃんと学校に来て。あんたは悪くない、悪くない、悪いのは、私なんだ)

 そう、頭の中で文字を描いてはみても、その文字の中に人体内臓じみて詰まっているのは、どろどろ腐れたあいつへの逆恨み。あいつが居なければ、あいつの持っている全てが憎い。私にもそれがあれば、こんなことにはならなかったのに!!
 頭の中が真夏の熱帯一週間放置した三角コーナーの中みたいになって、自分でも中を見たくない。蓋をして、でも中で腐っている様は絶対に認識していて、私は目を背けて。弱い。弱い。そんなだから。

 私は誰かの肩に背負われて、保健室へ連れて行かれたようだった。







 保健室の先生が、何かあったら言いなさいと私をベッドに横たえてカーテンの向こうへ姿を消した。もう一人、誰か別の人の姿がある。

「平気?」

 黒谷か。星熊とは別の意味で、人望の篤い……あいつの同類、私とは別の世界の住人。私を保健室につれてきたのは、黒谷だったらしい。何でわざわざ、こんな奴が、私なんかを。

「……ええ。ごめんなさい」

 目を合わせずに、答える。どうせ、あいつ等と同じ目をして私を見ているのだ。黒谷がこうして私なんかを保健室へ抱えてきたのだって、きっと別の理由があってのことだ。アイドルは、期待に応えなければならないものね。大変ね。でもそれだって、私に比べればずっとずっとマシなものよ。あなたは面倒だと思っているかも知れないけれど、それさえも欲しくても手に入れられない奴がいるって、知っている?関知しないんでしょうね。

「聞きづらいこと、聞いていい?」
「そう思うなら、聞かないで」

 肩を竦めて、小さく息を吐く黒谷。あ、人に聞かれると面倒だね、と急にカーテンの外に声を向ける。

「先生?」
「きこえてなーい」

 校医の鑑だな。その情報を後でどう使う気かは知らないけど。

「じゃあ、"答えて"。あなた最近、星熊と仲良いよね?」
「別に」

 仲が良いだなんて、心外だ。向こうが勝手に、くっついてきているだけ。そもそもそんな事、黒谷に何か関係あるのか。それとも何、人気者同士のネットワークでもあるっていうの?

「前置きをやめろというから、単刀直入に聞いたのよ?」

 クラスの真ん中に立って愛想を振りまいてるときとは、随分違う態度だ。これがアイドルの正体、なるほど合点が行くというもの。

「仲良くなんて、ないわ。」
「そうなの?毎朝一緒に登校しているのに?」
「あいつが勝手にくっついてきてるだけ。私は迷惑してる」

 シャワールームで、抱かれたのを思い出した。あいつをどうしようもなく求めるカラダに流されて行為を受け入れはしたが、あいつの真意は知れない。本心で、本当に私を好きだと言っていたのかも知れないし、やはり私など遊びの一環だったのかも知れない。
 いずれにせよ、それがそこまで問題だというのなら、明日にせよ明後日にせよ、星熊が復帰してから、黒谷、あんたが聞けばいいことだろう。

「私を見ればわかるでしょ、星熊が、私なんかに」

 ふうん、黒谷は納得いったようでも疑うようでもなく答えた。

「ま、学年中が騒いでるのは、正直ばからしいと思うわ。ただの風邪で休んでるだけかも知れないっていうのに。だから先生方も明日まで様子を見る……というか、実態は気にしてなんかいないわ。どうせ明日にはひょっこり現れるのよ。私たち学生なんて、そんなもん。水橋さんもそう思うでしょ?」

 答えられない。そんなしようのない結果に決まっていると分かっていながら、私はこうして保健室に担ぎ込まれたのだ。理性はそれを肯定していながら、結果は"そうは思っていない"と答えている。黒谷の言い方も、自分もそう思っている、という風ではない。ただ、世間一般の見解を述べて、"で、あんたはどう思うの?"と私を試しているようでさえあった。ついでにいうと、私と星熊とが仲が良くなんかないというのも、もはや否定し切れなさそうだった。仲は、良くなんてない、ただ材料は、お誂え向きだ。

「さっきの啖呵、すごかったね。水橋さんのこと、見直しちゃった」
「ふざけてるの?それとも、憐れみ?生憎、全部間に合ってるわ」
「そんなんじゃないよ。」

 そんなんじゃないなら、どんなんなのか。黒谷はそれに答えることなく話を切り替えた。

「星熊の様子、家行って見てきてくれない?」
「は?」
「あなたが適任だと思ったのだけど」
「とんだ見込み違いだわ。私が行くくらいなら、死神が迎えに行った方がまだ自然でしょうね」

 吐き捨てるようにいうと、それ本気で言っている?と黒谷の声色が変わった。それまで眼を背けっぱなしだったが思わずその方を見る。改めてみると、なるほど確かにいつも人の輪が(特に男子の)出来ている理由がよくわかった。整った顔、大きな目。幼い感じなのに綺麗で色気がある。だが今はその表情が、少し違った。

「……冗談よ」
「あなたもそんなくだらない冗談、言えたのね」

 その皮肉に込められた刃物が、喉元を薄く切ったように感じた。

「先生に聞いてみたけど、何も教えてくれないの。"わからない"とは言わなかったわ。ただ、拒否された。何かあると思うの」

 何か、って何だ。私への嫌疑か。そうではないのだろうけど、自覚が自責へ変わるのはことここに至っては当然のようにも思える。

「"転校"、かも」

 私は、思いついた言葉を呟いた。
 そうだ、射命丸に次いで、星熊も。

「"転校"って何?私、見ての通り空気とか読めないの。みんなが言う"転校"って、何なの?」
「わからない」
「はあ?」
「わからないけど、転校していく生徒がやたら多いと思わない?」

 多い。だが、過疎化が進むこの地域では、そう言った形で学校に影響するものだと、そう思っている。

「転校した、って先生が言う生徒はね、誰一人そのあと消息が分からないの」
「それくらいは知ってるわ。問題は、その先でしょう」

 それは、と言い澱む黒谷。知らない、か、もしくは、言えない、か。どちらにせよ私には関係のない話だ。星熊がいない、という事実だけが残り、その他の手掛かりはない。それに対して私は何をしようと言うものでもない。風邪でも、"転校"でも、自殺でも。

 本当に?

 私はただそれらの因果をたどるのが億劫なだけかも知れない。"転校"と呼ばれる学校の怪談、私が投げつけた言葉、来ない星熊。――線で、結びたくない。

「転校なのかどうか、あんたが確かめに行けばいいじゃない。一応私、体調が悪いのだけど。大体何で私があいつのお守りなんかしなきゃいけないのよ。どうせ明日になったら来るってなら、放っておけばいいじゃない。何?人気者同士のおこぼれを頂けるのかしら、涙が出るわね、他をあたっ」

「星熊が!!」

 私がもう一度ゲロを吐くように悪態を吐いていると、急に黒谷が声を荒げて割って入って来た。さっきまでの様子からの豹変に、私は驚いて、なに、と狼狽えて返してしまう。

「星熊が、あんたの話ばっかりするのよ」
「そう。虫唾が走るわね」

 もう一度、黒谷の視線が、私へ向いた。今度の刃は、寸止めするつもりはなかったよらしい。

 全く隠す様子もないその視線、紅い緑色をしていた。

 は。知ってるわよ、その眼。見慣れた目、鏡を覗けばそれはいつでもそこにある。痛々しい、押しつけがましく救いのない感情の、顕れ。哀れね、あなたも囚われたの。でも、私は毎日その眼をしている。あんたなんかの、取って付けのとは違う。いつもそんな感情抱かないくせに、これ見よがしにそういうの、くだらない。

「あんたなら、あいつに釣り合うでしょう。私みたいな小物にいちいち目くじら立てっる必要、ないじゃない」

 あんたみたいに恵まれている奴が、そんな風な眼をするな!口から吐き出せそうな怨嗟をなんとか、飲み込んだ。嘔吐感に似たそれは少しもやんでいない。お前みたいな奴が、私のこれを騙る?笑止、笑止千万だ!お前にこの気持ちが理解できて堪るか。死んでも逃げても人望と能力に付きまとわれるような、恵まれた奴が!この気分を理解できて堪るものか!
 私は、黒谷に"その"眼を向けてやる。少しばかり睨み付けてやっただけで、黒谷のそれはすっかり伏せられた。当たり前だ、その眼は、あんたらみたいな「持てる者」がする眼じゃない。できるものか。それに、認めない。

「なんで、あなたみたいなのを」

 星熊が追いかけるか?私が聞きたいわ。
 黒谷が妬むか?買い被りの被害妄想だわ。

 だって私には、理由がない、という最大の理由がある。

「嫌味ではなく、本心で言っているの。何ならあなたが、眠り姫にキスをくれる王子様になればいいわ。星熊は今、見失っている。そうでしょう?私なんかを見て、目が、飲みたて牛乳瓶の底みたいに濁ってるわ。他に合理的な理由がある?嫌われ者で根暗、可愛くもなければ何も取り柄も何なくて、あいつに比べて全てが全て劣っていて私は全然釣り合わない。尊敬できる相手が理想の相手と言うのなら、そっくりあいつが間違っている。見下す相手が愛おしいというのなら、死んでも隣になんかいたくない。違って?」

 あんたなら、私とは対極だからね。そう言い足して、私は眼を背けずに返事を待った。

「水橋さんの言う通りよ。何で、あなたなんか。でも、それが事実なら、あなたはどうするというの?理由は理由、振り返れば言い訳と口実に過ぎない。毅然と存在する事実に、あなたの理由は立ち向かう牙を持たない。そ(こ)の眼は、振り返ることを知らない一途なものよ。あなたも……」
「妥当性のない事実は遠くない将来易々塗り替えられる。しかもそれが、数多有象無象の印象と総意の帰納、一個人の思いこみでしかないなら、小さな煽動でそれはひっくり返るでしょう。私はそんな弱々しいものに足場を置く勇気が持てないだけよ。不意に発揮されただけの結果を、可能性や底力だなんて気休めでおだてられるのは、不愉快なの」

 あんたは人気者で私は嫌われ者。壁を隔てて星熊がどっち側なのか、頭の良くない私でもわかるわ。そう付け足す。

「今の言葉、ついでだから星熊にも伝えておいて。あともう一つ、もう、私に近寄らないでって」
「本気で言っている?」
「酔狂で言っているように見える?」
「見えるわね、とんだ酔狂よ。本当は、その逆なんでしょう?あなただって、星熊に惹かれていて、でも」

 だん!

 私はパイプベッドの骨組みに、思い切り拳を当てていた。殴りつけたのにも近いが、パイプをどうにかしようとしたわけではない。黒谷に威力を見せつけようとしたわけでもない。ただ、壊れそうにない私よりも丈夫なものに当たるしか、爆発的に膨らんだ感情の出力先が見つからなかったのだ。
 これ以上、踏み込んでくるな。

「いちいちうるさい、あんたに、何がわかるって言うの。デリカシーもなく掘り返すの、やめて」
「わからないわね、私にはあなたの考え方が、ひとつもわからないわ。あなたの言うことは、自分の無力さにかこつけて、結局全て人の所為にしているだけじゃない。」
「うるさい!だま、れ!!っ」

 胸が苦しい。黒谷の言葉が、ぎざぎざ刃になって胸を貫いてくる。図星だ、そんなことは、自分が一番よくわかっている。わかっているわよ、そんなこと!だから、だから私は、私はクズで、救いようのない愚か者で、でもね、努力で覆らないものだって、あるのよ!

「痛みだけを自分に残して責任は全部他人に転嫁。違う?自分が悪者になれば、悲劇のヒロインになれる?笑わせないで。自分で壁を作って、その壁諸共人の所為にしているだけじゃない」
「う、るさい!」

 呼吸は荒くて深いのに、酸素がまるで体に入ってこない。
 私は自分の無能と愚かさ、それに起因する悪を認識している。だがお前達は全くそれがない!自分たちの有能と、聡明さと人望と、それに起因する悪意のない悪行を、全く自覚していない!悪意のない無自覚で、私達を殺しに掛かってくると言うことを!

「っは、わたしは、かってる、わっ、てる、はあっ、わよ!っ!」

 酸欠か、貧血かも知れない。どちらにせよ"またか"。体が重くて頭ががんがんする。視界が狭窄して平衡感覚がない。目の前の黒谷も、今はいない星熊も、皆から認められた力ある者達が全て、憎い。憎くて憎くて、殺してしまいたい。形跡なく消えて貰うことが出来ないなら、例え傷跡が残ったとしても、殺して消す以外に術はないように思えた。

「わかって、ないのは、おまえたち、だ、っ」
「ちょっ、水橋さん?」

 ベッドの上でまた倒れた、かも。でも視界も途切れてて平衡感覚もないから、よくわからない。耳鳴りが大きくなって、周囲の音も聞こえなかった。

 暗闇に包まれても、黒谷と星熊の幻影は消えない。二人とも、何段も高い場所から私を見下し、嘲っている。違う分野で自他ともに認める力を持つ二人。私のようにどこにいても水面下に隠れる奴とは、住む世界が違うのだ。

「っ、て、る……」

 わかってる。あんたに言われなくたって、全部、全部わかってる。わかってるから、このやり場のない怒りと憎しみを、誰に向けるでもなく自分で飲み込み続けてきたのよ!そうしたら今度は「黙って悲劇のヒロインになりたいなんて愚かだ」なんて、じゃあどうすればいいのよ!本当に殺して回れば良かったって言うの?それとも「生まれてきてごめんなさい」って、言えばいいわけ!?星熊に死を望むくらいなら、私がさっさと自殺すべきだって?その通りよ、ええ、まったくその通りよ。でも、自己が失われる最後の一線を、他人を拒絶する線より向こうに追いやるのは、私ばかりが犯す罪ではないはずだ、誰だってそうして生きているはずだ。
 既に力がある者達は、力がないもののことを全く考えない。そこに上ることが不可能な奴だっているというのに!
 腕や脚が無いような、ベッドから二度と起きあがれないような、決定的で即物的な差を目にしないとその差を認めないなんて、何て都合がいい考え方なのだろう。キャパシティ、に姿形がないのを良いことに、その独善的な思考が許されるのが我慢ならない。
 だが許される。何故か?答は簡単だ。力が正義だからだ。皆に認められればそれが正しいからだ。しかも振りかざしても大多数は文句も言わない。
 そしてその対極にいる私は、自動的に悪になる。無用。不要。邪魔。

 私はあの高みに行きたいという訳じゃない。本質的にあんな場所に興味はない。ただあの高みにいないことで存在が無視され抹消され、生きているのに死んでいるのと同じになるのを、ただ、ただ、回避したいだけなのだ。全員平等に私と同じくらいに無能ならあんな高みに行きたいなんて思わない。高い山が全て崩れて平地になればいいのに。

 普通は、諦めるのだそうだ。諦める?なんで諦められることが出来るの?自分の存在は不要だと目に見える全てから言い続けられる苦痛に何故耐えられるの?そう言う苦しみのない奴らに、憐れみをかけられて見下され続けることに何故耐えられるの?
 殺されても文句いいません、みたいな生き方、どうして出来るのか、私にはわからなかった。
 私には「一番」でないのにしっかり地に足を着けて上を意識せず生きている全ての人達が理解できない。でも、そうしてしっかり生きていけている時点で、私よりは優れているのだろう。

 だから、私はどこまでも劣等に違いがないのだ。

 私のようなクズが批判できるのは、私のようなクズだけ。
 私が、私のようなクズに殺されるのだけは、ゆるせない。

 そんなことを意識の隅で考えいた。呼吸が巧く出来なくて苦しいことが、より一層他人への攻撃的な思考に傾けている。呼吸過多発作なんて初めてということでもなくて、おそらくベッドで完全に倒れ込んでいるだろうことは、何度も経験しているなかで予想が出来た。苦しい。息はしているのに、呼吸をしている気になれない。しばらくすれば落ち着くことはわかっているが、苦しいものは苦しい。畜生。何で私ばかりこんな目に遭うんだ。

 黒谷だろう、私の口に袋のようなものを押し当てている。くそ女が。やっぱりわかった振りして何もわかってないじゃないか。「過呼吸には袋」なんてそんな無知の民間療法で、私を殺すつもりか。そうか、殺すつもりなのか。

 視覚も聴覚も一時停止。恐らくそこから意識も停止するまでに存在する時間は極めて短いのだけど、頭の中をぐるぐるぐる回る思考は高速で、最終的に黒谷に殺意の濡れ衣を着せる形で締めくくられたのだった。

 でも、意識を失う最中の思いでよかった。仮に意識が明瞭で口の利けるときにこんな風な噴出があっても、徒に黒谷からの印象を今以上に悪化させるだけだっただろう。こんなものの考え方、ただ気違いと想われて、終わるだけなのだから。
 クオリア?便利な言葉だ。理解できないがきっとそこにあるものだなんて。そう言うもので片づけられ、私的社会性ジェノサイドするなり、うわっつらカインドネスに浸るなりされるのが、精々のオチ。クオリアという概念そのものが、他者との接続を前提にしている。だが違う、接続などない。だから、切断もない。ただ独立した個があって、ただそれだけなのだ。私は理解されたいと望んでなんかいない。そんなこと、不可能だと知れているから。お前達が、私を理解できないと勝手に敵視するだけじゃないか!
 共有なんか望むから、嘘だ幻だという非難が生じるんだ。伝達不可能な信号ならば、何処までも私の中だけの事実にすればいい。他人との必要以上の関係が、自分を冒すことになるのだと、何故誰もそこから目を背けるのだろう。



 この痛みは幻覚なんかじゃない。誰がなんと言おうと、本当に、痛いの。辛いの。憎くて同時に愛しいの。それに、それをあいつに、星熊にわかって欲しいだなんて思ってもいないのだ。







 メール。
 私が知っている星熊との遠隔接続方法は、携帯のメールだけだった。休み明けに、あれこれ思い悩んで結局送信をやめたのを思い出す。だが、今ばかりは、違う。

――何処にいるの?転校って何?こんなこと言えた義理じゃないけど、黙ってるなんて人が悪いわ。あんたに、言いたいことがあるのに。返事、ちょうだい――

 中程の一文だけ削除してから、送信。

(返事でなくてもいい、だから、返信、来て。)

 5分、10分、授業が始まって、終わる。次の時限。しかし、返信はない。
 せめて、Mailer-Daemonからの通知でもいい。メアド変更、着信拒否、メールが返ってこない事実に作為が入っているのなら、それはあいつが携帯を手にして操作しているからだ。そうではなく、正常受信後音沙汰ないのであれば、それは携帯を操作できていない可能性がある。……無視されているのでなければだが。

 無視されている、というのが最も納得のいく辻褄であった。

 自惚れだった、かもしれない。私のメールになら返信は来ると思っていたのに、やっぱりそんなことはなかった。星熊勇儀のようなひとが、いざというときに私のような人間を視野に入れる筈なんて、なかったのだろう。
 それとも、"転校"などという馬鹿げた現象が、本当にあるとでも言うのだろうか。

 メール着信。私は飛び上がったように携帯を手に取りスタンバイを解除する。
 送信者は見慣れない名前、メールの内容を確認するとスパムだかアプリか店かの通知メールであった。私は携帯電話を床に投げつけそうになるのと抑えるので精一杯、送信解除も着信拒否も出来ずそのまま画面をオフにしてしまうのが精一杯だった。








「急に、何だというの」

 星熊に、彼女がいなくなる前に私がなにをしたのか、と急に黒谷は私を問いただしてきた。もう、ほとんどの生徒は帰宅したあとだ、こうして暴力じみた言動で問答をふっかけられて、それを見咎める人などいない。私は掲示板を兼ねた壁に体を押しつけられて、黒谷の鋭い視線と腕に、そこのプリントみたいに串刺しにされていた。

「ふざけないで。理由も原因も知らない、それはきっとあんたが後生大事に抱えていることだろうさ。でも、きっとあんたが、”しでかしたんだ”。」

 星熊が失踪して、まだ姿を見せない理由を言っているのなら、見当違いだ、私もまた彼女の行方を知らない。星熊が失踪した原因のことを言っているのなら、その通りだ。きっと、私の発言がトリガになったに違いないのだ。

「いきなりでご挨拶だけれど、多分その通りだから弁解はしないわ。」
「弁解しろとか言い訳しろとか、そう言うことを言ってるんじゃない、何をしたのか聞いてんのよ」
「あなた達、”持てる者”はみんなそう。自分達がどれだけひどい仕打ちを人にしているのか全然気づいていない。私はね、その無邪気な悪行について、あいつに苦言を呈しただけよ」

 黒谷は、明らかに不信感を募らせている。当たり前だ、才能のある者達は、それを持たない者に対する仕打ちに対して、全く無自覚なのだ。

「星熊に、私が何を言ったか教えてあげましょうか」

 黒谷は何も言わない。私の胸ぐらをつかみあげて、壁に押しつける力がぐっと増す。言葉はないが、その緑がかった紅い眼は、答えろ!と叫んでいた。

「死ね、って言ったの。私のことが好きなら、死ねって!私のことを守りたいと思うなら、あんたが私の前から消えろって!それが一番、私の幸せなんだから!!いなくなって、清々したわ!いっそ本当にどこかで死んでいてくれればいいの!!」

 だんっ!

 胸座を掴んで黒谷は私を押し倒し、馬乗りになる。握った拳が振りかざされて、それが何発も飛んでくるだろうかと覚悟したが、それはなかった。

「かみさまに、あんな無茶な立ち回り、そのせい」
「は?」

 なに?と聞いても黒谷は答えない。代わりに別の問いが、返ってきた。

「本当に、嫌いだったの?」

 あんな奴、嫌いにならない方が無理だ。何で、私に構うんだ。星熊から見れば私なんて、本当に相手にするだけ時間の無駄でさえある筈なのに、それでもつきまとうってことは、高所から雑魚を見下ろして楽しんでいるだけでしょう。そんな奴のことを嫌うなという方が無理だ。嫌い、大嫌い。星熊なんて、大嫌いだ。この世から消えて欲しい、転校していなくなったというのなら、せいせいするわ。もう二度と、憎たらしいのに憎めないほど眩しい笑顔で私の名を呼ぶ星熊を見なくて済むなんて。私からは全然理由がわからないのに私を好きだと好きだと好きだと好きだという星熊に、もう二度とあえないのだとしたら。

「ええ、大っ嫌いだったわ」

 きっと二度と会うことができない。そんな予感がした。

「だったら」

 私がそう答えると、黒谷は悲壮と憤怒と疑問と、それが入り交じって飽和した分の笑みを浮かべて、問い質してきた。

「だったら、何で、泣いているのよ。」

 私は涙を流していた。ぼろぼろぼろ、もう視界なんかない。黒谷に開封されていく感情、でもそれは、解き放たれる前から隅から隅まで私のものだった。黒谷がわからないというのは、黒谷がわからないと言うだけ。私には、全て、知れている。

「嫌いだって言うのなら、どうして星熊を嫌いと口にしながら、星熊の"転校"を知って、泣いているのよ!?泣きたいのは、泣きたいのはこっちなんだから!!」
「当たり前じゃない」

 わかっていない。本当に、こいつは。黒谷ばかりではない。他の誰にだって、この感情の真意は、理解なんかされていないのだ。それは他人を理解できると思い上がった奴らに曲解されて、憎悪や、甘え、嫌悪一色、に変換されて伝わるのだ。だが、そんなもの、間違いだ。全部、間違いだ。勝手に私を解剖して、理解できないからと代替品で代名して、その上訳が分からないと勝手に悪者扱いするのだ。
 私は確かに愚かだが、お前等は、もっと愚かだ!

「あたりまえ?」
「悲しくないはずないじゃない。"転校"。もう二度と、星熊に、会えないなんて」
「は?ふざけてるの?たった今、嫌いだって……」

 だからあんたの眼は、緑色にならない。単に赤く染まるだけ。憎悪と嫌悪は、それじゃないもの。

「嫌悪と好意が、相殺すると思っているの?憧憬と憎悪が、共存できないと思っているの?尊敬と忌避が、慕情と敵愾心が、羨望と諦念が、対消滅すると思っているの?おめでたい、おめでたいわ!はっ、はははっ!」
「なに、いってるの?いみわかんない!!ふざけないで!!あいつを、愚弄しているというの!?それとも私をバカにしている?」
「わからない?そうでしょうね、ええ、そうでしょうね!私は星熊が大嫌いだった。死ねばいいと思っていた、消えてくれたらどんなに幸せだろうって思っていた。でもそれは、裏返し、互いに打ち消しあったりしないのよ!」

 馬乗りになったままの黒谷が、狼狽えたように表情を陰らせる。その目が、私を見ていた。その眼が、私をみるその憐れみの眼が、どんな拳より刃物より、私を苛むというのだ!

 気持ち悪いと思うでしょう?意味が分からない理解し難いと思うでしょう?このキチガイは何を言っているのかと思うでしょう?頭の弱い人間の支離滅裂な発言と哀れに思うでしょう?
 その通りよ。私は、どこまでもかたわなの。こんな考え方を払拭できないままこの年増で大きくなってしまって、社会と自分との間に折り合いを付けられないでいる、幼いガキよ。

 好き。死ね。傍にいて。消えろ。尊敬してる。邪魔だ。私を見て欲しい。こっち見るな。あいつを好いて尊敬し、大きさを知り憧れるに付け、自分の矮小さと無能を思い知るのだ。どちらかになんか振り切れるはずがない。アンビバレンツの針はもう対極で、これ以上どうにかならないところまで来ている。崩壊寸前、なんだろう。

 星熊がいなくなって幸せだったのは、きっと間違いがない。この引き裂かれ深く離反していく一対の感情は、あいつが傍にいる環境下では、悪化の一途、より不幸な精神状態を来したに違いない。そして、回復の方法など、ないのだから。
 私はいつでも、嘘なんかついていない。星熊への言葉も行動も、全てがほんとうだ。だから、その対極の感情の存在も、当然最初からだった。

「水橋さん、あなた」
「そうよ、今更」

 私は、星熊、あいつのことが

 でも、それが何だって言うの。
 あいつに消えて欲しいと思うこの感情だって、本物なのだから。

 私の感情に行き場なんて、永遠に無いのだ。
 星熊は"転校"した。もう二度と、本当に二度と、この蟠りと分離した汚泥は、浚われることはないのだ。

「あなたの言う通り、私は、きっと星熊もね、あなたに対して何の仕打ちをしたのか全く自覚がないわ。……いいえ、無いと言ったら嘘になるかしら。それを罪だとは思っていない」
「当然よ。それに、その感覚が正しいわ。私はキチガイだから。私の言うことなんて、黙殺してくれればいい。ただ、動機というものが私の中にあるものであるのなら、それが動機と言うだけ。動機が正しいかどうかは、私が決めることじゃない。私のはね、どこまで言っても社会不適合者の逆恨みなの」

 黒谷は、私を理解し難いなにか得体の知れないものとでも言いたげな視線で私を見ている。

「それでもね、私や星熊に何らかの理解がなかったと、あなたが言うのなら。それはあなたも同罪よ」
「わかってるわ」
「わかっていない。わたしがいっているのは”そのこと”じゃない!」
「じゃあ、なんだと」

 どうせ、悲劇のヒロインぶるなと、百回も二百回も誰かから聞かされてきた言葉を言うのだろうと思っていたが、それではないという。ならば、何だというのだ。

「あんたにも、自覚がないって、言っているの。自覚がないのはね、何も私ばかりじゃないって言ってるの!」
「何の?キチガイの?」

 黒谷は、苦々しい表情で私を睨みつけ、口の中で何事か転がした後その言葉を吐き出した。

「……はっ。自分の身で、思い知ればいいわ」

 ふと、私の上に乗っかったままの黒谷が、ポケットの中からくしゃりと潰された紙切れを、拾いたければ拾えと言わんばかりに直ぐ傍に落とした。名刺サイズの紙だろうか、メモが書かれているように見える。

「星熊の住所。先生から無理矢理聞き出した。」

 それを私に教えて、どうするというのだろう。私はいつぞやに言った科白を再び繰り返した。

「あなたが行けばいいでしょう。何で私が」

 だん!

 床に、彼女の掌底が突かれていた。流石に女子だ、拳を突くことはないが、リノリウムの床を思い切り打して彼女自身が痛くないはずもない。だがそれをも厭わぬほどの音が、腕が振り下ろされた耳の直ぐ横から響いた。

「こないだもそうだけど。これ以上ナメたこと抜かしたら、マジで殺すよ」

 何を言っているのか私にはよくわからなかった。黒谷がほしくまのことをすきだったこと、星熊を何処かへ放逐したのは私の言動だと言うことはわかったが、それを受けてなお、黒谷の言うことの意味をくみ取ることはできなかった。いや、星熊をどうにかしてしまったのらしいのが私だと言うのなら、その自覚はあるつもりだ。その自覚では足りないという意味が、だ。これ以上何が、私の側にあるというのだろうか。
 だが、その不明を伴ってなお、黒谷の感情が、びりびりと痛くて羨ましい。緑色を捨てて、深紅の殺意。そう、その方が、余程素直だわ。羨ましい、その真っ直ぐな感情が。私にもそれがあったのなら。

「……わかったわよ」

 私は、放られた紙切れを拾う。

「どいてくれる?」

 そう言う私をみる視線は、その視線だけで人を殺せそうなほどの呪詛を凝集しているように感じられた。彼女をアイドルと慕う輩が見たら、どう思うだろうか。でも、それが、人の本性だ。綺麗で可愛い、そればかりの筈がない。むしろ、彼女にとって私はその本性を暴いて悪化させてしまうほど、悪者なのだ。
 黒谷は私から降りて、立ち上がろうとする私を見下ろしている。今、蹴りだの鈍器での殴打だの、やろうと思えばいくらでもできるし、黒谷はそれをしでかしかねない雰囲気を醸し出している。

「はやく」
「え?」
「早く、行ってよ。でないと私、マジで何するかわかんない」

 私が、"転校"させるかも。

 何か不穏当な言葉が、聞こえた。
 黒谷の声色は震え、それは鬼気迫るものだった。ただ、私はそれを恐ろしいと思うからこの場を去り彼女から教わった星熊の住所を尋ねようと言うものではない。あくまで、彼女の理性の部分に応えること、それ以上に、私の中でもやもやどろどろと蟠る正体の知れない感情と思考、感覚と妄念の得体を見極めとどめを刺すそのために、行くのだ。
 それを知ってどうすると言うつもりもない。知って後悔する可能性の方が高かろうと思うし、わざわざ分析して苦しい思いをすることなど馬鹿げているともわかっている。
 それでも私は、行かないといけない。彼女がまだ家にいれば、それを目の前にして口から飛び出す言葉が、本物なのだ。彼女がもう家にいなければ、その様をみて口から零す感情が、本物なのだ。そこに彼女は、本質的には必要ない。私の行動全てと私の反応全てだけが、私の答えになり、私はそれだけが欲しくて星熊の家に向かおうというのだ。私は何処までも独善によって、星熊との関係に自分を見いだそうとしていた。黒谷とは違う。星熊を好いて、それ故に恋敵を殺してしまおうとするほどの、純粋な好意と比べて、私の感情のなんと不純なことだろうか!
 こんな風に、大切に思う人との関わりの中でさえ、自分のことしか考えられない私には、星熊と一緒にいる権利などないように、思えて仕方がなかった。

「ありがとう」
「礼なんか言われたくない。死にたくなきゃさっさと行け!」

 本当に殺したりなんてことは、しないだろう。でも、彼女の感情はきっと本物だ。黒谷の殺気を背中に、私は教室を出る。廊下を歩きながらくしゃくしゃになったメモ用紙を広げると、黒谷らしい可愛い丸文字に殺気がこもった筆跡で、住所らしい文字列が書かれている。これは、最初から私に渡すために書かれた文字だ。私を星熊の家へし向けるための。自分が行くのではなく、私が。
 黒谷はどうして、こんなことをするのだろうか。いわば敵に塩を送るような行為、動機が伴っていない。私が星熊に相応しいだなどと、あれほどの殺意を向ける心情の持ち主が、する事だろうか。それとも、罠?彼女の取り巻きが、のこのこ現れた私を東京湾に沈める?はは、馬鹿らしい、我ながら想像力が豊かだ。
 深く考えても仕方がない。それに、人の気持ちを探って理解できるような人間なら、私はこんなにも不適合者には育っているはずがない。きっと、私には理解できない、でも普遍的で妥当な理由が、今の黒谷のような心境のひとにはあることなのだろう。人の気持ちを推し量るのに、私は自分という物差しでしか計れない。しかもその自分の物差しは酷く小さく短く脆く、幾らはかろうと宛の外れた誤差をまき散らすのだ。考えるだけ、無駄というものだった。
 私は校舎を出て、紙に書かれた住所を目指そうとした。だが住所がどのあたりを指すのかよくわからなくって、私は携帯に案内させることにする。入力した結果割り出された距離は、あのバス停からわずか2分のアパートの一室らしかった。

 いつも通り変わらぬ帰途、ただ時間だけは遅くもう何本か逃せば、徒歩1時間の運動にあり付けるような時間だ。コースだけは日常を兼ね、内容は紙一重向こうの非日常なそれに足並みを合わせて、私は愛しくて憎いあいつの家を、目指した。







 誰もいない最終バス。私はいつも通り後ろの席を選んだ。が、何だか、何かに責められている気がして、つい、最後尾の席まで進んでしまう。
 腰を下ろして発車時刻を待つも結局誰も乗り込んでこない。私一人の悲しく寂しい貸し切りバスは、虚しいアナウンスを車内に響かせてエンジン音を高めた。
 最後尾を無意識に選んだのは、いつも自分が座っている席を更に後ろから見ることで、何とかこの状況を客観しようと思ったのだろう。だが、そうしたところで今自分が置かれている状態、しようとしていること、何より私自身とはにわかに信じがたい心情の変化に対しての現実感は、なかった。毎日の灰色さとはまた違う、鮮やかな虚構感。ちりちりと画面の隅で極彩色を散らす火花が見えて、でもそれに注視しようとするとまるで嘘のように姿を消す。何処にも焦点を合わせず惚けるように見ると、不気味なほどビビッドに色合いを放つ景色は、非現実的で余りにも毒々しい。
 そんな風に、いつもの道行きに違和感を感じながら窓を、覗く。すっかり暗い外と電灯に照らされた車内。窓は昼間よりも色濃く鏡面で、最後尾の車窓に映るのは間の抜けた私の顔だった。外に橙、薄白、青白く点在する光に彩られても仮面、抜け殻、映ろな目は一つの真さえ映し出さず、その中に莫迦な自分をゆらゆらと描くだけ。苛立ちが、液化する。
 何だか妙に口の中が乾いて、鞄の中からペットボトルを取り出してミネラルウォーターを口に含んだ。生温い水が、じわりと粘膜に染み込んで、まるで神経毒のように、胃と、脳髄に広がっていく。ぬるくてドロついた水は、まるで私の感情を再び口から飲み込むみたいで、不快。根腐れかけてる頭の中で、たぷん、苛立ちと不安が波打った。
 星熊は。一体どうして、いるだろうか。
 家にいるだろうか。いないだろうか。いるはずだ。いない理由なんかない。いたら何故来たというだろうか。無断欠席なんかして。プリント持ってきた。部活すっぽかして。心配した。

 ……あいたかった。

 言えるはずが、ない。口が裂けてそれを言うくらいなら、胸が張り裂ける方を選ぶ。それが本心であっても、対極の同居人を、私は御すことが出来ないから。いや、そうすることは嘘なのだ。片方を野放し、片方を飼い慣らすなど、欺瞞だ。両方が、本当なのだから。
 でも、いなかったら?既に家は蛻の殻だったら?もし、家の真ん中であいつが……。

「ない。ありえない。ありえない。」

 一人ごちて首を振る。頭の中で、不安が頭蓋の裏側に沈着していく。こそいでも取れないそれは、生まれて今まで慣れっこだけど、今度ばかりは具合が違うように思えた。浸食してくる。冒し、崩れてくる。染み込んで、奥へと。
 バス停一つ、また一つと越える度、その間隔が酷く長くて、早く着いてと願うのに、その間はどんどん伸びて広がっていくみたい。また一つ、やっとバス停を発車した。バスの中にはまだ私一人だ。運転手の存在は、バスの中ではどうしてこうも徹底して無機質なのだろう、窓の外に生きる街々もだ。それは私があらゆる外界に意思を認めたくないからかも知れなかった。そしてそのひずんだ思いを砕いてくれると、どこかで期待していたのが、星熊という"王子様"への幻想だった。それは、泡のように消えたが。
 私はその泡の残滓を掬い取るために、惨めな旅路を往っているのかも知れなかった。






――わたしがてんこうさせるかも――

 黒谷の言葉が、反復される。
 "転校"とは、何なのか。黒谷が意図的に起こせるものなのだろうか。あの黒谷の感情、明らかな憎悪と殺意。そこから"転校"が生まれる?
 東風谷は"転校"した。その背景には、自分を消してしまいたいという強い強迫があったという。そして今、星熊勇儀に"転校"の疑いがかかっている。私が、消えて欲しいと、殺したいと、心底思っている。
 共通点は、消失を、誰かから強く願われていたことかも知れない。"転校"のトリガーは、ある意味では殺意なのかもしれない。
 それが、超常的な力によってもたらされるのか、または殺意の源泉が直接手を下すのか。だが、私は星熊を殺してなどいない。だから、後者は否定されるはずだ。

 本当に、そうだろうか。

 確かに刃物や鈍器、電車のホームの後ろから、ビルの屋上や階段で、毒物、ロープ、そういったものは使っていない。だが。

「私のために、死んでくれる?」

 私が放った言葉が、凶器であった可能性は?
 普通、それで死ぬようなバカはいない。ただ、星熊は、バカだったかも知れない。バカみたいに真っ直ぐで、全てに素直で、気持ちに正直で、私を好きだと言うくらいにはバカだった。
 "転校"の正体は、巧妙に学校によって組織隠蔽された、生徒同士の殺人事件なのではないか。射命丸が聞いたら喜びそうな荒唐無稽なネタだが、今の私には相当の鋭さを以て切り込んでくるのだ。

 いや、いやちがう。それを否定するために、私は、あいつの家へ向かっているのだ。きっと黒谷もそれを私にさせるために住所を渡したのだ。否定される、きっと。

――この先、100メートル、右です――

 携帯のナビは気持ちが悪いほど正確で、私はほとんど迷わずに黒谷のくれた住所にたどり着こうとしていた。
 液晶に示される"あと○メートル"の文字が、死のカウントダウンのように見えて、動悸がどんどん激しくなる。

――前方5メートル右手に、目的地です――

 あの、アパート。
 それは想像以上のぼろアパートだった。当然か。高校生が仕送り一つで一人暮らししているのだ、ろくな環境でないことくらい想像に難くない。だが、それでもあの星熊がこんな所に住んでいるということが、何か悪い冗談のようにも思えてしまう。
 錆び付いた階段を上り、204号室へ。ここに、星熊、いるかしら。

 呼び鈴。チャイムと言うよりも、ブザーのような不快な音がドアの向こうで響いた。一回。二回。三回目は少し長めに押す。おう、とひょっこりドアを開けて顔を出す星熊を想像したが、それが実像と重なることはなかった。
 再度、呼び鈴を押す。反応はない。
 いない、のだろうか。

 いない?

 ここまで来て、こんな所まで私を呼びつけておいて。
 私をこんな風にめちゃくちゃにして、ひっかき回しておいて!
 私が「きえて」と言ったその一言で、本当に消えてしまうなんて、許せない。
 こんなに大っ嫌いと、関わり合いになりたくないと、憎くて憎くて死んで欲しいと、強く、そう強く呪った相手は生まれて始めてで、それは全くその逆でもある。
 こんなにも、愛しいと思った相手は、生まれて初めてなのに、ふざけないで!

 勝手に来ておいて、勝手に好きになって勝手に憎んで、勝手に混乱して、何もかも一から十まで私の自滅だというのに、あいつのせいにしたくて堪らない。こんな風に自分からめちゃくちゃになる動機なんて、微塵もないのに。

 消えて欲しいなんて、これっぽっちも嘘じゃない。二度と顔だって見たくない。見れば強烈な劣等感に苛まれて自分の存在が許せなくなる。そんなことはないと抱きしめてくれるあの腕にびっしりと生えた鋭利な刃が、恐ろしくて呪わしいのに。

「居留守使ってんじゃないわよ!!!!」

 気が付いたら、ブザーを壊れんばかりに強く、何度も何度も何度も押していた。星熊は出てこない。何度も何度も押す。星熊は出てこない。何度も、何度も、何度も何度も押す。星熊は、出てこない。

「っふざけ、ないで!いないならいないって言ってよ!理由くらい言ってから消えなさいよ!!」

 鍵がかかっていることも承知でドアのノブに八つ当たった、つもりだった。が、それは抵抗なく開いてしまった。

「えっ」

 なんだ、いるんじゃない。いるならいるって、さっさと出てきなさいよね。
 そう、胸中で漏らすもそれはどこかで自身を説得する為の言葉。常識的に考えて、あれだけの「呼び出し」方をしたのだ、居るなら出てこない方がおかしい。居留守を決め込むなら、施錠されていないのもおかしい。私は訝しみながらも戸を引き、首を突っ込んで中を見る。
 玄関先の殺風景な感じは、あいつの人となりを見れば想像が付いた。靴は一人で履く分の幾つかだけが並んでいて、そのまま台所と廊下を抜けて一間の突き当たりまでが見える。洗濯機には洗濯物が放られていて、台所も使った食器が幾つか重なっている。生活臭が、全く消えていない。今、部屋の奥から星熊が出てきてもおかしくない。

「……ほしぐま?」

 呼びかけてみるが、姿は見えない。声も聞こえない。生活臭は色濃いが気配は、ない。私は、部屋の中へ入ってみることにした。

「はいるからね」

 中にいるのかいないのか、未だに把握できていない。靴を脱いで上がってみると、換気されていない蒸した空気が未練のように漂っていた。何の未練?わからない。そう感じるのは私の肌、鼻腔、肺の中。
 くん、鼻を利かせてみる。万一があっては嫌だと試しはしたが、それでわかるような訓練を積んだわけではない。だが、とりあえず腐臭はしなくて一応の安堵を得た。
 台所のシンクはまだ水気を帯びているが、昨日今日使っていたという濡れ方ではない。数日留守にした後なら、こういう湿気り方になるだろうか。
 私は恐る恐る、部屋を奥へ進んだ。

 六畳一間。女の割には大柄な星熊には、お世辞にもこの住まいは十分な広さだとは言えないだろう。畳の上に開かれた、星熊の小さな世界。こたつにできるテーブルの上には空になった無地のマグカップが放置されている。マグカップの底は、乾燥してシミになっていた。薄そうな木製の壁際に折り畳まれたままの収納式ベッド。開けっ放しの押入には衣服を入れたカラーボックス。小さな勉強机には、英語の辞書と教科書が開かれて、ノートにはつい先ほどまで彼女がそこにいたかのように、文字が綴られシャーペンが横たわっている。カーテンは閉じられていて、レールに制服、ジャージ、ユニフォームがハンガーでかけられていた。古いブラウン管テレビの曲面が、部屋中を黒く映し出している。壁同様木の天井には、前に水漏れでもあったのかという跡が残っていて、その中央に備え付けられた蛍光灯は裸、端の方には黒いシミが見えていた。女子らしい可愛らしさはかけらもない部屋。だが、星熊っぽい、部屋だと、思った。

「ほしぐま。いないの?」

 私の呼びかけに応えるのは、蛇口の先から滴る水の音と、アナログ時計の針の音、冷蔵庫が再冷却を始める音だけ。彼女似合いの部屋に、彼女は居なかった。
 電化製品は生きているようだったが、目に留まったのは床に放られたデジタル表示のアラーム時計。今朝起きるだろう時間にアラームが鳴り、止められることなく連続鳴鈴時間を経過したらしい表示になっていた。

 これだけ生活臭を残して、でも確かにいなくなっている。ちょっと買い物にでているとかそう言う様子でもない。

――星熊は、転校したよ――

 職員室で先生から告げられた言葉の、理解しがたい冷たい印象。追及を許さない様子。誰も知らない行方。学校の七不思議、"転校"。鍵が開けっ放しの門扉。戸締まりもなく数日経過している?
 体温が下がるのを、感じた。
 "転校"の正体は分からない。ただ、二度と星熊に会えないだろう予感は、確信めいて私の思考に浸透してきていた。もう、きっともう、星熊に会うことは出来ない。この部屋と同じく、私は封をされることがないままに、放り出されたのだ。

 "転校"とは、何なのだろうか。別の何処かで生きているのだろうか。それとも、七不思議の通りに……?

 どちらにしても、私はこの状態を望んでいたのだ。星熊のような有能な人材が、地上から一掃されることを。無能な私を苦しめる優等が、一切消滅することを。星熊が私の目の前、という一つの世界から姿を消したのは、私の望む世界へ一歩近付いたことに他ならない。せいせいした。胸がすく。爽快感が腹の底から沸き上がって私を貶める視線一つが消えたことを、明日から気分良く生活できる。
 私は、星熊の部屋の真ん中で、立ち尽くした。ぐるりと見回すあいつの部屋には、姿はないのにどこもかしこも星熊だ。閉じこめられて蒸し上がった部屋の空気の不快感にさえ、あいつを感じる。もういない星熊、存在と記憶の殻だけがこの部屋に置き去りだった。
 望んでいた、呪詛の実現。だが、だというのに、だが、私の相反性両立感情は、同時に恐怖にも近い不安、泣き出したいほどの悲嘆、奪われた唇の感触が余りにもリアルに思い出されて襲い来た甘い胸の苦しみ、苦々しい謂わば恋心と化けて心臓の半分を支配していた。

 テーブルの上で干からびたマグカップの、縁に口を付ける。浅ましい。コーヒーが入っていたのか少し苦いのは、感情に味がついていたからか。

――しんで――

 自分が言い放った言葉が、自分へ向く。
 死んで、堪るものか。私はただ、もっとより心の平穏を抱いて生きていたいだけなのだ。邪魔だったのだ、死んで消えて欲しいとはまさしく本心であった。私如きに死ねと言われて死ぬなんて、それこそ愚の骨頂だ。星熊がそれを真に受け止めて、自ら、或いは進んでそれを選択したというのなら。

「私の気持ちと引き替え?あんたの命って、大層安かったのね!」

 唇に伝わるのは、陶器のひんやりとした感触。星熊とのキス、冷たい体温。
 包むように持っていたマグカップは、脱力した私の手をすり抜けて床へ。ごん、鈍い音を立ててそれは落ちた。追いかけるつもりはなかったが、私はまるでそうするように、膝を折って床へ崩れ落ちる。

「ほしぐま」

 主のいなくなった部屋の真ん中、崩れ落ち膝を突いたたまま天井へ向けて名を呼ぶ。

「ほしぐま」

 名を呼ぶ。床に転がるマグカップは答えない。

「ほしぐま」

 何度も

「ほしぐま」

 何度も、呼ぶ。星熊は答えない。

「ほしぐま」

 答えは、ない。

 星熊だから、好きだった。
 好きになるほど素敵な人で
 素敵な人だから、憎かった。
 星熊だから、憎かった。

 感情のウロボロス、自らの尾を囓り少しずつ飲み込んでいく。
 自分自身を咬みちぎって最後のひと呑みを終えたとき、そこには何が残るだろうか。混じり合うことのない、純粋な愛情と憎悪が、母体を要さずにそこに浮いているだろうか。

 私はとうとう、星熊からアイルキスユーの言葉以外、その中身のようなものは一つも聞くことが出来なかった。彼女の、ほんとう、を、ひとつだって知ることは出来なかったのだ。当たり前だ、私が、そうしなかったのだから。私はあいつに、アイルキルユーの方だけをぶつけ続けた。目の前にして口から漏れるばかりの怨嗟を投げ続け、リスクを犯して橋を渡り、その川の内側へ入る決断が、出来なかった。だからあいつもきっと、片方だけを投げてよこしていたのだ。

 愛してもいたし、憎んでもいた。どちらでもあった。
 でももっと、もっともっと強くどちらかだけであったなら、結果は変わっていただろうか。
 中途半端で不足だった、両方に足をかけて煮え切らなかったからいけないの?私の感情は力を出し切っていない、とでも。
 私の行動を逐一綴った不愉快なストーリーがあったなら、それを見た人は皆、そう言うだろう。もっとちゃんと恋心に素直なら、憎悪に忠実なら。

 不完全燃焼、そうなんだろう?と。

 "ちゃんとしていれば"こんな結果にはならなかったと。
 私にはそれが出来るはずなのにと。
 出し切れない実力は、誰のせい?と。

 やめてくれ!
 ちがう。断じて、違う!
 私は全力だった。全力で、この感情に身を焦がした。燃え上がった。
 しかして、燃えつき結果はこのざまだったのだ。

 私は私で全力でぶつかって、でも決して星熊になんか追いつけない。手を抜いているだなんて勝手に決めないで。だから、誰も彼もが嫌いだった。

 誰の目にどう映っていようと、私は全力を賭したつもりだ。好きも嫌いも両方だった、だから硬直してしまったのかも知れないけど、それを含めて両方に全力だった。そして失敗したのだ。全力で好きだったけど、私のやりかたでは橋は架けられなかった。ただ川岸を眺めていただなんて、勝手に決めないで。本気を出せば橋は架かっただなんて、気休めを言うのは。

 可能性という無責任な言葉で、無能な私をおだててから突き落とす、どうせ救ってはくれないのに、煽てるばかりの悪意のない悪行、ああ、お前達こそ、お前達こそ!!







 先生から、星熊勇儀が"転校"したと、正式に発表があった。射命丸が転校したとそう告げられたときと、全く同じだった。残酷なまでに軽い言葉でそれは告げられ、鉛のように思い事実を受け止めなければならない。

 私が最後にあって以来、星熊勇儀にあった人はいない。メールも、帰ってこない。なんどか家に行っているが、ある日突然誰かが引っ越してきていた。勿論その人も星熊のことなんか知らないということだった。

 私が、何処かへ押し流したのかも知れない。
 私の言葉が、殺したのかも知れない。
 私が"転校"させたのかも知れない。

 いずれにせよ。

 星熊の"転校"はこうしてすっかり完了して
 私の"失恋"もすっかり成就したのだった。







 星熊が、"転校"?ふざけんじゃないわ、"その先"よ。
 あんたが星熊に言った言葉を聞いて、あいつの無茶苦茶な立ち回りに合点がいったわ。
 星熊にとって、既にあんたが一番だったのよ。あんたが望んでやまずでも諦めていた一番は、あんたのものだった。取るに足らない雑魚は、私達、あんた以外のすべてのものだったのだわ!
 でも、気付いていなかったのよ、愚かなあんたはね。
 だから星熊はいってしまった。あんたみたいなクズ女のせいで、星熊は。

 あんたが星熊を殺したも同じなのよ、水橋!



 ……ああ、あんたの嫉妬ってやつは、あたしの疫病並に、伝染するのね。



「妬ましい。水橋なんか、消えてしまえばいいのに」







 バス停に、向かう。携帯を見た。あいつ専用にひとつ作ったメールフォルダには、あの日から一通の追加もされていない。もう、ここに新規メールが増えることは、無いのだろう。それでも、消すことは出来なかった。
 あいつは毎朝、ここから何を眺めていただろうか。
 私には、ここからは何も見えない。この街は、私は、既に四方を閉ざされた閉塞空間だ。求める気持ちを拒絶に並べて、私は身を守ろうとしているんだ。この街が、テクノロジーを諦めてレトロスペクティブを進むことで身を守ろうとしているのと、私の、憎悪や殺意に置換されがちな感情は、同じだった。
 私ではなく、星熊がここから見る風景は、きっと違ったのだろう。力があれば、この壁は乗り越えられるものだったのかも知れない。あいつはきっと、私がこの壁の中に留まることを不思議に思っていたことだろう。あいつの視線からは、跨いで越えられる程度の、それは壁なんかではなかったのだろう。私もまた、星熊のようにそれを跨ぐだけの力があれば。

――IF、なんて意味のないことね

 世界には、私には及ばないことだらけだ。こんな不満足感とバカ正直に向き合ってしまう方がバカなのだろうけれど、開いた目はもう、閉じられない。だから、私は壁に壁を重ねて、身を守る。ああいった侵略者を拒絶して、私の尺度の空間を。だって他人の尺度は、一から十まで、レベルが高すぎる。私には届かない。

 私はこの街と、同じ。何もない。壁で囲った、空虚な存在だ。でも、それ以上になれる力なんてない。仕方がない、これ以外に、仕方がないのだ。星熊は、最初から壁の外の存在だった。最初から、届かない存在だった。あいつの方が背が高くて、遙か上の方から私を見下ろしてきて、もしかしたらここから無理矢理連れ出してくれるかもなんて、甘ったれていた。所詮、下層レイヤーの存在に、本気をかける訳なんてないんだ。あいつから見れば私は、壁を越えようとしない、バカな存在だったのだろう。

 それは客観すれば正しくて、客観と私の主観の間にも、越えられない壁が、見えていた。

「……さよなら」

 いなくなってから、あいつへの憎悪はすっかり消え去っていた。当然だ、あいつに消えて欲しいというのが憎悪が望む結果だったのだから。私は、ある意味で気が済んだのだろう。だが、もう一つの感情は、消え去ることなく今も私の真ん中らへんに巣食ったままだ。もう、この感情が満たされることはない。この飢餓感は、私に貸せられた地獄、なのかも知れなかった。

 同じ空の下にいるのか、それともあいつはもう、あのオリオンの傍にいるのか。わかりはしなかった。どちらにせよ吐き出した言葉は部屋の中、王子を求めて消えた人魚のように泡となって消えた。

 何処へも届くことなく、無力に、消え去った。
 その気泡ひとつひとつを、諦めに変えて。

 もしかしたら、ずっと欲しかったものをもう、私は手に入れていたのかも知れない。
 いちばん。二番とか三番とか、すごくとかとってもとか、漠然と”好き”という範囲の中に入れられているというのではない、比較するものがない、いちばん大好きのいちばん。他のもの全てを無価値にさえできるほどの、いちばん。私、星熊のいちばんになっていて、これは、そのことを私にわからせるためだって、そう言うの?そうすることで、いちばんをえいえんにすると、そのためだって言うの?

 私は壁の中にいた。今も自分で塗り込めた壁の中に、埋まっている。
 行き場のない八方塞がり、壁に囲まれた安全地帯から愛の源を憎んで、私は今も生きている。

 あいつがいなくなっていなければ、私がいなくなっていただろう。
 あいつは確かに、私を守ったかも知れなかった。



「私、生きてる。生きているわ」



 私は、いちばんだったのだ。でももう、それは失われてしまった。
 でも、ばかな私は、自らそれを。



「私が、殺したのね」



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さとり「スパイは殺せ」

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