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事件のあれ

私たちは考えなければならない――

あんなことが起こって、みなそう言っています。
他の言葉はともかくこの「考えなければならない」という一言にだけ、違和感を感じる。
その違和感を掘り下げると私も危険人物なんだろうなと自覚するわけです。

あくまでも私個人の感覚と感想なので
他の人は違うかもしれません。
いやきっと全的に違うのでしょう。
私が異常者の仲間側なんだと思います。

この文脈で「考えなければならない」という言葉が出たときに
私がまず感じた印象は
子供を叱るときの
「どうして叱られたのか(お仕置きされたのか)考えなさい」
という文脈に感じるものと非常に似ていた。

それは、
「考える」というところに本質が置かれていないという気持ち悪さだ。

考えろと言っていながら、実は最終的な結論は規定されている。
「~~~だから私は悪い子で、叱られたのだ」
に繋がる形でしかその「思考」は認められていない。

これと同じことがある。
考えなければ、見直さなければ。
今回の事件に対してこれらの言葉を用いるのは、
同じ「前提」を置いている。

本当は、考えてはいけない。

見直すのではなく、規定に従うだけ。
そこに理性があるように錯覚させる作為が気持ち悪い。
そこに進化した知能の持ち得る前進的な善意があると思わせる
ある意味でのファッショが気持ち悪い。


私は犯人を擁護するつもりなんて一つもありませんが、

彼は考えたんだと思います、

その深さや方向性はともかくとして。



でもこの先、
この悲劇の観衆となっている私たちは何を考えますか。

おそらく何も考えなんかない、
ただ犯人の異常性を取り沙汰し、
社会のせいにしたり、
最近の若者のせいにしたり
ストレスのせいにしたり
もともと危険思想の持ち主だったといってみたり
場当たり的な対応策を打ち出したり
考えることなんてその程度のこと。

もしこのエントリを何かの不幸な事故で読んでしまった人がいて
5年後にこのエントリのことを覚えているか。
きっと覚えていない。
それはこの事件のことも大して考えていないからだ。
このエントリを読んでいなかったとしても
事件については多分みんなそうです、安心してください。


彼がどうして犯行に至ったのか
その過程にあるもろもろの要因を詳らかにし
それ一つ一つについて考えることは、しない。

彼の中では整合性を持った一つの考えについて
「まちがっている」の前提を持った上でしか考えない。

それは
マスコミの性質でもあるし
私たち「観衆」の性質でもあるし
道徳というものの持つ側面でもある。

彼を異常者(あるいは二次的な被害者と認めたとしても)と非難し
事件を人道的な悲劇とし
妄信的に再発を防止するそれには
「考えてはいけない」。


以下は私も目をつむるべきだし
議論の時に持ち出すかどうかは非常にナーバスだと思いますが
・この不景気の時代に、生産性のない人に多くの税金が支払われていること
・格差社会の低賃金労働者のはけ口になりかねない
・施設の職員にかかる(かもしれない)賃金ではカバーできない精神的ダメージについて
・人間という生物の継続可能性に寄与するか否か
など
道徳に目を閉ざせば(むりに出すなら)「考えるべき」問題は枚挙に暇がない。


ただ犯人を盲目的に非難するなら
これを「考えない」選択しか、おそらくないだろうし

こういう時に特によく叫ばれている
「考えなければならない」
という言葉には
そういうところを考えろという意味は含まれていない。
むしろ

宗教かもしれないし道徳かもしれないし科学かもしれないし正義かもしれない
そうした何らかの価値観やイデオロギに従い、
「考えるな、やめろ」
「考えるな、愛せ」
「考えるな、罰せよ」
「考えるな、行動せよ」
だけが効果を持つ。


今回の事件ばかりではない
所謂「異常犯罪」について、
観衆というのは
いつも「絶対に考えない」できた。

犯人に対して、
異常だから理解できるはずがないという前提をしき
その上で、犯人を非難するための論をただひたすら並べるだけ。


犯人が持っていたかもしれない筋の通った一つの「考えた結果」については
考えない。



だから今回も、同じように、気持ち悪さを感じている。

私も異常者だろう。

この記事へのコメント

Re: 事件のあれ

彼は実際に現地に行って働いて、その実情を見て、本当に「相手の幸せを考えて」、その結果としての行為を行ったと思えるのです。
実際、私もその対象ではあるので「本来だったら、私ら、生きてないよなー」とも思うわけです。(私の場合は、社会システムが進化しているおかげで、こんな障害でも生きてられる。昔の村社会だったら、とっくの昔に村八分になって野垂れ死にしてるわけです。)
そういう「自然としておかしい」という状況もあるし、今回の対象は人間としての尊厳の部分で「何か」あったんじゃないか、とも考えられるわけです。(施設の職員さんが、相手に対してどんな行為をしていたのか、というのは、たぶん週刊誌当たりがかき立てる気がします。)
そういう「状況」を実際に見ていて、そこで「考えて出した結論」が、安楽死だった。(今回のは「安楽」とは呼べない物の、彼なりのせいいっぱいの行動だったのだと思います。)

「考える」という場合、「本当に深く考える」とこういう結論もありえる。(私が、「ニンゲンとしての社会性・規範を持たない」という欠陥を持っているから、こういう演繹ができるのかもしれないけど。)
たぶん、「前提になるなにか」がずれると、こういうことになるんじゃないかと思います。(そういう意味では、彼は、私たちにとても近い。こちら側のニンゲンモドキなんじゃないか、という気がすごくします。私たちも「ニンゲンとしての社会性」ってものを持ってないから、「論理」だけで「考える」と、この結論は成立しています。)

Re: Re: 事件のあれ

彼が何を考えてそうしたのか、きっと観衆たる私たちの誰も考えません。
異常だったとかクスリキメてたとか、手っ取り早く落とし込める
回答ではない回答で満足して、考えたふりをするだけ。
考えろというのならそこで止まるのは嘘つきだし、
そこで止まるのが(社会的に)正しいのなら、考えろというべきでもない。

>「考える」という場合、「本当に深く考える」とこういう結論もありえる。
そうなんですよね。それを「こういう結論」にならないために、
「論理」だけで「考える」のではなくそこにインジェクションされる何か。
そうしたものの正体や効果については完全に目を背けそこを考えないこと、
まあそれも仕方がないとは思うんですが
まるでそうした「考えないこと」を「考える」にすり替えたり、
考えないことを盲目的に正義に置換するその
言葉は悪いけど「盗人猛々しい」みたいな開き直りが、
しかもそんな開き直りを隣の人間にも求める感じが
すごく気持ち悪いなあって思うわけです。

もうひとつの可能性

伝聞を聞いている限りでは、彼は「対象の幸せ」を考えたのではなく「国家の幸せ」を考えた可能性もでてきました。
国家として、無用・役に立たない物を除去してより強くなる。そのために、不要な物を排除する。
考え方としては、Nazionalsozialistishce Deutcheうんちゃらパーティの考え方で、それが熱狂的に支持された時代もありますから(戦前日本でも、直接は処理しないまでも次代に残らないように断種する「優性法」は存在しましたし、ハンセン(らい)施設も考え方は同じです)、その考え方がまったく人間として否定されているわけでもない。
ただ単に時代遅れだったり、実施した結果とんでもないことになった(結局アウシュビッツまだいったわけですし)ので「今は否定されている」ってだけですね。
これが、資源が極端に限られている宇宙コロニーだったりすると、その考え方は正当になったりするんだろうし(「冷たい方程式」の考え)、緊急事態であれば「法的にも正当」(カルネアデスケース)だったりします。
状況による、というのがこの行為に対する評価であるべきなんですけど、「絶対的に否定」というのは少し思考停止だと思います。
(こういう発言するから健常者になれないんだよなー、私。)

Re: もうひとつの可能性

そうですね。
私は人間のことを学問として学んだわけではないですが、
往々にして、「思い込みが強い人」「論理的思考が先行する人」あと言い方が非常に悪いですが「社会的に適合が難しい人」のほうが、問題を(過剰に)大きな枠でとらえようとする気がしています。
目の前の問題よりも、その背景にある社会とか国家に問題を見出そうとするかんじ。
(私がこんなこと考えてるのも同じ流れと思いますが)
そういう人は、ターゲットをそっちに向けやすいので反社会や異常行動に出る可能性が高いのかなって気がします。

私もデスノートを拾ったら殺しまくるだろうなって気がします、下手だから即座に捕まると思いますが。


>「今は否定されている」
ほんそれ、ですね。
歴史は歴史でしかなく未来に約束などしない、こと「正義」については。
それでも「今」を信じる強さが、社会人には必要なんでしょうねえ。私はなかなか信じられません。

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