FC2ブログ
  1. 無料アクセス解析

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

なんだかな。

前提として
私は障害者に死んでほしいとか邪魔だとか思ってはいません。



例えば数十年前は、障害者は確かに「親切心」を求めていたと思う。
それは雇用面で不利があり、インフラが整っておらず、あるいは前世の業として
いわれのない非難を浴びたからであろう。
「障害は社会側に」という言葉の通りだ。

今はそうした親切心を求めていないのだそうだ。
普通に扱ってくれという。
前述の社会側の障害が低くなってくると
「あまり優しくしてくれるな」と言う。

言うことはよくわかるしその点について全面的に否定するつもりはないのだけど
それはそれで気持ちの悪さがある。



「普通に扱ってほしいのか」「親切に扱ってほしいのか」は
未だに当事者ごとにばらつきがある。
当然だ、ひとりひとり考え方は違うのだから。
障害の形質だって一人一人違うのだし。

だが「自分がそうして欲しいようにしてほしい」という、
「同じ言葉で七色」の要望を七色全てひっくるめて
「障害者という個性」を無視した立場から
(七色をまとめて扱うのは個性を考慮に入れないということだ)
主張して居る在り方が
なんとなく「ダブルスタンダードを道徳観で押し通そうとしている」感じに見えて
腑に落ちないところがある。

「自分が思うように自分を扱ってほしい」のは、
障害者でなくても健常者も全員同じだ。

だがぶっちゃけて、ほとんどの人間はその要望をかなえられていない。

健常者については「なにわがままいってんの?ガキか」と一蹴されるだろう。
あるいは年を取ると、そういうのを諦める。
それを障碍者に限っては叶えて欲しいというのは、
障害者を健常者と同じに扱ってほしいという言とは二律背反にある。

階段しかない二階に降り立った車いすの人を目の前にして
「いや、障害者を区別するのは逆に差別だから」
とはならないでしょう。
でももしかしたら車椅子でも階段を下りれるそういうスポーツの選手かも知れない
そんなスポーツがあるのかないのかも私は知らないけれど
その臨機応変を、受け手側に強いてきているのだ。
無理な話である。


後これは私個人の事なんですが
私は実際義手義足なんかには近未来を感じてて
「うおおー、義手だ義足だ見てみたい触ってみたい、カッコイイ!」
とかかなり正方向の印象を持って見てしまうのですが
それはそれでいけないのでしょう。
つまり見る側の意識も関係が無く、
あくまでも見られる側(見られたくない側)の満足に立脚している。

でも別に入れ歯は見たくないかな…。
加速装置がついてる奥歯の入れ歯なら見たい。



私はこれを悪いというつもりはない。
ただ、多分気にしないだろうなと思う。

「気にしない」と言う言葉は
また注釈を加えなければ誤解を招くので後述する。



ちょいちょい挟んでいきますが
私は障害者に死んでほしいとか邪魔だとか思ってはいません。

ただ、差別は尊厳によって打ち消せるが
尊厳は感動ポルノを呼び、感動ポルノは差別と等しく
アンチ感動ポルノはそれはそれで差別意識のあらわれなので
(アンチ感動ポルノ=差別、については異論あろうと思いますが、
 「行き過ぎた正義感はファシズムと区別がつかない」
 というのと似ていると説明しておきます)
こうした社会的揺動を、どうするものだろうなと思っているだけです。



さて、「気にしない」と言うのは注釈を要すると思います。
つまり、一部の障害者の言う「特別扱いしないで欲しい」という事と照らしたうえで、
その形質に対して、「偏見を持たない」

という意味ではない

例えば片腕が無い人がいたとして
じろじろ見ないで欲しいとか
荷物を運ぶのに「片腕なのに大変だね」って言って欲しくないとか
そういう観点での「気にしない」が昨今叫ばれていますが
私はこの「気にしない」を実行しないと思います。

多分、気にせずじろじろ見るし、気にせず大変そうだなと思うと思います。

こうかくと、
最近の流れだと酷く道徳に欠いた思想に思われるのかもしれませんが。


その人がどう思われたいのかは人それぞれ
  (なので、この人が親切にしてほしいか否かはわからない)。
健常者だが腕が骨折して使えない人に対して、親切心を持つのは依然として善意と捉えられている
  (し、これからも変わらないだろう)。

となるとどうするべきか。

私なりの「気にしない」という結論は
相手を
障害者か健常者かに関らず
「そういう形質を得ている人間でしかない」として
自分の振る舞いを気にしないことです。

また、仮に障害がある人と、すれ違うのではなく親交を持つにあたり
それで相手の要望を理解することが出来かつ親交を保つなら
ある程度望まれたとおりにするでしょう。
親切にしてほしいと願っていると感じ私もそれを満たそうと思うなら
相手が障害者だろうが健常者だろうがかいがいしく世話をするでしょう。
逆に自立を望み手出ししてほしくないと思っているのを理解し私もそれを了承したなら
相手が障害者だろうが健常者だろうがほっとくでしょう。
そういう「気にしない」です。自分の感覚に従います。


真冬に半袖半ズボンで歩いてる元気な人がいたら
すげえって見ちゃうでしょう。
化粧が濃すぎてちょっと見てらんないって女性からは
目を逸らしちゃうでしょう。


私なんか男ですから綺麗な女性は兎も角、
パッと見てどっちかわかんないような人がいたら
「うお、この人男か女かマジわからんすっげえ」ってめっちゃ見ちゃいます。
完全に憧憬だけど。
でもこのとき相手が、そう主張したいファッションなのか、性同一性障害に苦しんでるのか
わかるはずもない。

でも、
「必要以上にやさしくしないで」に対して
「親切心を見せるのは差別と同じ(だし依然として差別的行動も悪とされる)」
という根底での対応をするのは
それを読み取って対応しろと言う事。
エスパーか。
しかもエスパー能力使ってまで「障害者を区別(≒差別)して対応しろ」
と背反を言う。

障害者じゃなくったって外見が変なら見られるかもしれないし
障害者じゃなくったって大変そうなら手伝おうという心理が生まれることもある。
障害者の中にもどうされたいかはバラバラで、
だからそうしたところまで相手の都合に合わせて酌む必要はないと思っています。

だって、健常者の私だってそういう点では折々にないがしろに扱われるのです。
望まぬように扱われて、いわれのないことで傷つきだってするのです。
それは障害者に向けて形成された特別の状態ではないという証拠です。
それは障害として社会に存在するものではないという事です。


昨今の障害者に対する偏見撤廃運動の動きは
どうにも善意のファシズムを感じる。
世界に正義など存在しない。
正義に基づいた善意など主観でしかなく
そこに妥当性を求めうるのは「数だけ」というグロテスクさをはらんでいる。


またいいますが、
私は障害者に死んでほしいとか邪魔だとか思ってはいません。

でも、こんな実のない世論形成に流されるくらいなら
私は自分の考えにだけ基づいて行動する。
(自分の範囲においてのみ、他人に求めはしない。愚痴は言うが。)

だから私は「気にしない」ようにしたいと思う。



最後に、これはさすがに非難されるだろうと思った上で書きます。
親切心を起因とする行動を受けてそれを差別的と感じるのなら、
多分障害は体でも社会でもなく、その胸の中にあるのだと思う。

この記事へのコメント

コメントをお寄せ下さい

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://monostation.blog112.fc2.com/tb.php/2586-ac404249

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。