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病質とは、認められた差異である。

いろいろと
病気がありますよね。

で、その病気を治そうと医学が発達して今日に至るわけですが。

あ、最初に言っておきますが、私が医学の知識は何ももっていません。
ろくな大学も出てませんし、見ての通りガチでオタクです。
ので、文化人的ではない知識量であることは前提として以下を読んでください。

ここでは、先天的な性質のみを取り上げ、
ウィルス・細菌によるものや物理的損傷による後天的な障害を内容に含みません。
特に脳みそに由来するなにかについてに言及することになると思います。


最近は脳みその解析が進んできて
「ああいう人のあれがおかしいのは、脳みそのあそこらへんがおかしいから」
て言うのが解ってきてますね。
新しい病名がつけられたり、いろいろとその影響が見えてきます。
それは一般的にはいいことだと思いますが

ここで悪魔の代弁をしようと思います。




たとえば「10のことを聞いても4しか頭に残せない」という人がいるとします。
日常生活上では「頭の悪い奴」という、
「個の性質」
(個性という言葉にしたいが、個性という言葉の持つ正のイメージが強すぎるので避ける)
になる。
で、頭悪いもんだから、社会集団の中ではじゃまくさかったりなんなりで
目障りな存在になるわけですね。

で、とあるお医者さんが
「この人は脳みそのここいらへんが、ほら、ちょっと形違うジャン?
 そのせいで4しか理解できないんだ。
 これって生まれつきでさ、病気だよ病気。」
って発見をして、それが社会的にコンプライアンスを得られたとします。

すると、世界に何人いるかは知らないけど
「10聞いて4しか記憶できない」人たちは一斉に「病人」になる。
これは、社会から明確な根拠もなく爪弾きになっていた人たちが、
「病人」として、「頭が悪いことは仕方がない、病気なんだから」という
ひとつの、ある意味での「地位」を獲得し、
ある程度の福祉を与えられることを意味する。
いわれのない爪弾きから逃れることが出来る。

社会一般的に見て、
何らかの身体の異常に対して「実態に即して病名を与えられる」ことが
正しいことだという考えは
この「地位の獲得」「福祉の受給」で考えを停止させた場合のものに過ぎない。
悪い言い方をすると、「病気に逃げ込む」訳です。


これがこのまま進むとどうなるか。

これは極言です。
あくまで極言だと言うことは私も理解しています。

たとえば、
他の人からどうしても理解できない「異常」が備わった人がいたとしたら
まず躍起になって「その原因をどこかに見いだそう」とします
最終的には見つかるまでその探求は終わりません。
で、原因が見つかると今度はその排除に腐心する。
世界中で、「脳みそのここら辺の形が変な人は皆病気」
というのが常識となり。

もう一歩進むと、
周りがいまいち理解に苦しむ人は
全て「病気」という箱に放り込まれるようになるんじゃないでしょうか。

「あの人すぐキレるよね」
「ああ、脳の○○ってとこの病気らしいよ」



「お子さんは元気に生まれると思いますが・・・
 少し感情的になりやすいタイプに育つ可能性があります」
「流してください(or育った後に手術で治します)」

とか。
これが明らかに右と左が逆に見えるとか、
そういうのの場合はあるいみでしかたないかとか考えられなくもないですが。


人と違う人は人ではない。
人と違う人は欠陥品。
病気だから直しましょう(治すではない)。

結果として異質を容認せずに
画一的な品質の人間を生産する様な
まさに人間工場の様な風潮があらわれるのではないか。






立ち戻って何が問題なのかを書くと、

・人間の、他人の持つ自分との差異を認めたがらない狭い心
・社会の、異質を排除しようとする力
・医学の、上記二つに応えようとする姿勢

脳みそがパンドラの箱っていうのは
こういう意味も兼ねているのかも知れないと思いますね。


結局は科学は人の欲望を叶える方へ伸び
医学も科学の一端に過ぎないってことなのかも知れませんね。






ここでサヴァンがどうだと言うつもりは無いですが
端的な例としてはいいと思うので。
異質を排除すると延びた何かの芽を摘むかも知れない。

人間やなにやらと言った生物が男と女に別れて存在してるのは
(異形配偶子による生殖なのは)
多様性の発生を可能性として望まれた形で残しているからで

この差異を認めないのは人倫的にも愚かですし
(ここ何万年かのスパンで言えば)生物的にも理にかなっていないことになります。

まあ、何でも認めろと言うのも
免疫不全症候群的な恐ろしさがあっていやですけどね。
そこが難しいところ。



少なくとも、人より少し怒りっぽいとか、考え方が違うとか、
もっと低いレベルで意見が合わないとか、そりが合わないとか
そういうことで排除に走るのは
極めて愚かなことで、何の生産性もないし。

そしてその差異に「病質」を見いだすのは本当にいいことなのか。
その「正しい」境界線を定められるのは恐らく人間ではないのだと思うが。

昨今では、
「正常な人間枠」を不必要に狭める風潮が現れ始めているんじゃないか。


「病気で欠陥品」になるか「病気じゃないけど、おかしな人」になるか
結局、解剖学的な差異と、社会のコンプライアンスの兼ね合いで決まるんだろう。



本人が病人になりたいから病院に行ったり
それをただの個性…じゃなくて個々の性質で据え置きたいから病院に行かなかったりという
おかしな現象も出るかも知れない。
病気か病気でないかを社会のコンプライアンスが決める時代が来るのかも知れない。




すこし隣人の差異を認めないと
万人病気の世界が待ってるぜ?







っていう考えの基に見える自分の性質に
多分、「自分以外の人間は良くも悪くも等価値」というものの見方があるんだと思う。
無意識なんだけど、
「あいつもこいつも、『所詮は自分じゃない』」
っていう見方してるのかも。

だから
はなっから違うものだと思ってるから、他人と自分の差異は概ね目を瞑るし
(同じでないことに不安がないという意味ではない)
他人同士は等価値にしか見えてないから、何でそんな下らないことでいがみ合うのかとか、
全然解らない。
(概ね人のやってる喧嘩なんて喧嘩をするまでもなく決着がついてるか、
 議論以前の問題だとしか思えない。
 ちゃんとした議論は除いて。)


ある意味この考え方は病気だよな。
他人の個体識別能力が少し弱い。

びょーきだぜ。

この記事へのコメント

憂鬱が病気に認定されたのはいつ頃からだろう。
昔なら「根性がなっとらん!」の一言ですまされてたのにな~(;´Д`)
ぼくはゆううつじゃない
こんじょうがたりないだけだ!

そういうところですよね。
特に深刻な人に関してこの問題をぶつけるのは酷だと思うんですけど、
境界値に近い辺りにいる人についてはナーバスなのに割とクリティカルな問題だと思います。
それを繰り返すと気付かないウチに社会がグロテスクに変わっている可能性があるので。
下手すると性格が病気になるかも知れないんですよ。
怖いですね。

もやもや感が残る。
結局は俺の利。

「俺の利」??
良くわかりませぬ…orz
もやもや抱いてもらえれば十分です。
基本的に
「見方としてこういうモノもあって、
それをかみ砕いてどう捉えるかは
読んでくれた人次第」
だと思って書いている記事なので。

そういう傾向あるね。
突き詰めたら、この世に正常な人間なんて一人として居なくなるのにね。
みんな病気。遺伝子の差異がたまたま形質に影響しただけ。
ともあれ、みこ長はもの書きだなァ。自分の考えを言葉に出来るのはいいことだと思う。

ありがとうございます。
まあ、
あくまでこんな考え方もできる、
流されるだけじゃなくて斜に構えて見えてくるものもあるだろう、
というスタンスであえて反駁意見をいってるだけの部分はありますけどね。
世迷い言カテゴリにこんなにレスあったの初めてじゃないか?w

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