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避難家族の子供へのいじめ

いじめってものの本質をすっ飛ばしてる。

いじめる方はね、
いじめるべき対象を見つけると
いじめるべきポイントを後から見つけてそこを責めるの。

いじめられる方は
そのポイントの有無だけが原因でいじめられているとは限らない。

「避難で来たことでいじめられている」
のではなく
「いじめられる子供は避難で来ていた家族だった」
ってケースの方が多いだろう。


勿論環境の変化で適応できなかったケースなどもあろうけど
それを原発事故や地震が招いた悲劇と言う片づけ方にするのは

「単に理由や口実が欲しいだけだろ、大人がさ」

としか思えない。



いじめと言う現象を大人の理性が理解できないものだから
こじつけられそうな理由を見つけてそこに委ねたがっている。
おとなにとって都合がいい。
それだけだ。

子供は理不尽に追い込まれると
子供の持つ狭い世界の中から何とか理由を見つけて対応しようとするが
いじめを悪化させたりそこから精神状態を望ましくない方へ進行させてしまうのは
そうした狭い視野から抜け出せないからだ。

ところがどうか、
この件を見て明らかだ、
おとなまでも都合のいい理由を見つけて
狭い見解の中で決着しようとしている。


この分じゃ、いじめはこれからも無くならんだろう。

なんだかな。

前提として
私は障害者に死んでほしいとか邪魔だとか思ってはいません。



例えば数十年前は、障害者は確かに「親切心」を求めていたと思う。
それは雇用面で不利があり、インフラが整っておらず、あるいは前世の業として
いわれのない非難を浴びたからであろう。
「障害は社会側に」という言葉の通りだ。

今はそうした親切心を求めていないのだそうだ。
普通に扱ってくれという。
前述の社会側の障害が低くなってくると
「あまり優しくしてくれるな」と言う。

言うことはよくわかるしその点について全面的に否定するつもりはないのだけど
それはそれで気持ちの悪さがある。



「普通に扱ってほしいのか」「親切に扱ってほしいのか」は
未だに当事者ごとにばらつきがある。
当然だ、ひとりひとり考え方は違うのだから。
障害の形質だって一人一人違うのだし。

だが「自分がそうして欲しいようにしてほしい」という、
「同じ言葉で七色」の要望を七色全てひっくるめて
「障害者という個性」を無視した立場から
(七色をまとめて扱うのは個性を考慮に入れないということだ)
主張して居る在り方が
なんとなく「ダブルスタンダードを道徳観で押し通そうとしている」感じに見えて
腑に落ちないところがある。

「自分が思うように自分を扱ってほしい」のは、
障害者でなくても健常者も全員同じだ。

だがぶっちゃけて、ほとんどの人間はその要望をかなえられていない。

健常者については「なにわがままいってんの?ガキか」と一蹴されるだろう。
あるいは年を取ると、そういうのを諦める。
それを障碍者に限っては叶えて欲しいというのは、
障害者を健常者と同じに扱ってほしいという言とは二律背反にある。

階段しかない二階に降り立った車いすの人を目の前にして
「いや、障害者を区別するのは逆に差別だから」
とはならないでしょう。
でももしかしたら車椅子でも階段を下りれるそういうスポーツの選手かも知れない
そんなスポーツがあるのかないのかも私は知らないけれど
その臨機応変を、受け手側に強いてきているのだ。
無理な話である。


後これは私個人の事なんですが
私は実際義手義足なんかには近未来を感じてて
「うおおー、義手だ義足だ見てみたい触ってみたい、カッコイイ!」
とかかなり正方向の印象を持って見てしまうのですが
それはそれでいけないのでしょう。
つまり見る側の意識も関係が無く、
あくまでも見られる側(見られたくない側)の満足に立脚している。

でも別に入れ歯は見たくないかな…。
加速装置がついてる奥歯の入れ歯なら見たい。



私はこれを悪いというつもりはない。
ただ、多分気にしないだろうなと思う。

「気にしない」と言う言葉は
また注釈を加えなければ誤解を招くので後述する。



ちょいちょい挟んでいきますが
私は障害者に死んでほしいとか邪魔だとか思ってはいません。

ただ、差別は尊厳によって打ち消せるが
尊厳は感動ポルノを呼び、感動ポルノは差別と等しく
アンチ感動ポルノはそれはそれで差別意識のあらわれなので
(アンチ感動ポルノ=差別、については異論あろうと思いますが、
 「行き過ぎた正義感はファシズムと区別がつかない」
 というのと似ていると説明しておきます)
こうした社会的揺動を、どうするものだろうなと思っているだけです。



さて、「気にしない」と言うのは注釈を要すると思います。
つまり、一部の障害者の言う「特別扱いしないで欲しい」という事と照らしたうえで、
その形質に対して、「偏見を持たない」

という意味ではない

例えば片腕が無い人がいたとして
じろじろ見ないで欲しいとか
荷物を運ぶのに「片腕なのに大変だね」って言って欲しくないとか
そういう観点での「気にしない」が昨今叫ばれていますが
私はこの「気にしない」を実行しないと思います。

多分、気にせずじろじろ見るし、気にせず大変そうだなと思うと思います。

こうかくと、
最近の流れだと酷く道徳に欠いた思想に思われるのかもしれませんが。


その人がどう思われたいのかは人それぞれ
  (なので、この人が親切にしてほしいか否かはわからない)。
健常者だが腕が骨折して使えない人に対して、親切心を持つのは依然として善意と捉えられている
  (し、これからも変わらないだろう)。

となるとどうするべきか。

私なりの「気にしない」という結論は
相手を
障害者か健常者かに関らず
「そういう形質を得ている人間でしかない」として
自分の振る舞いを気にしないことです。

また、仮に障害がある人と、すれ違うのではなく親交を持つにあたり
それで相手の要望を理解することが出来かつ親交を保つなら
ある程度望まれたとおりにするでしょう。
親切にしてほしいと願っていると感じ私もそれを満たそうと思うなら
相手が障害者だろうが健常者だろうがかいがいしく世話をするでしょう。
逆に自立を望み手出ししてほしくないと思っているのを理解し私もそれを了承したなら
相手が障害者だろうが健常者だろうがほっとくでしょう。
そういう「気にしない」です。自分の感覚に従います。


真冬に半袖半ズボンで歩いてる元気な人がいたら
すげえって見ちゃうでしょう。
化粧が濃すぎてちょっと見てらんないって女性からは
目を逸らしちゃうでしょう。


私なんか男ですから綺麗な女性は兎も角、
パッと見てどっちかわかんないような人がいたら
「うお、この人男か女かマジわからんすっげえ」ってめっちゃ見ちゃいます。
完全に憧憬だけど。
でもこのとき相手が、そう主張したいファッションなのか、性同一性障害に苦しんでるのか
わかるはずもない。

でも、
「必要以上にやさしくしないで」に対して
「親切心を見せるのは差別と同じ(だし依然として差別的行動も悪とされる)」
という根底での対応をするのは
それを読み取って対応しろと言う事。
エスパーか。
しかもエスパー能力使ってまで「障害者を区別(≒差別)して対応しろ」
と背反を言う。

障害者じゃなくったって外見が変なら見られるかもしれないし
障害者じゃなくったって大変そうなら手伝おうという心理が生まれることもある。
障害者の中にもどうされたいかはバラバラで、
だからそうしたところまで相手の都合に合わせて酌む必要はないと思っています。

だって、健常者の私だってそういう点では折々にないがしろに扱われるのです。
望まぬように扱われて、いわれのないことで傷つきだってするのです。
それは障害者に向けて形成された特別の状態ではないという証拠です。
それは障害として社会に存在するものではないという事です。


昨今の障害者に対する偏見撤廃運動の動きは
どうにも善意のファシズムを感じる。
世界に正義など存在しない。
正義に基づいた善意など主観でしかなく
そこに妥当性を求めうるのは「数だけ」というグロテスクさをはらんでいる。


またいいますが、
私は障害者に死んでほしいとか邪魔だとか思ってはいません。

でも、こんな実のない世論形成に流されるくらいなら
私は自分の考えにだけ基づいて行動する。
(自分の範囲においてのみ、他人に求めはしない。愚痴は言うが。)

だから私は「気にしない」ようにしたいと思う。



最後に、これはさすがに非難されるだろうと思った上で書きます。
親切心を起因とする行動を受けてそれを差別的と感じるのなら、
多分障害は体でも社会でもなく、その胸の中にあるのだと思う。

事件のあれ

私たちは考えなければならない――

あんなことが起こって、みなそう言っています。
他の言葉はともかくこの「考えなければならない」という一言にだけ、違和感を感じる。
その違和感を掘り下げると私も危険人物なんだろうなと自覚するわけです。

あくまでも私個人の感覚と感想なので
他の人は違うかもしれません。
いやきっと全的に違うのでしょう。
私が異常者の仲間側なんだと思います。

この文脈で「考えなければならない」という言葉が出たときに
私がまず感じた印象は
子供を叱るときの
「どうして叱られたのか(お仕置きされたのか)考えなさい」
という文脈に感じるものと非常に似ていた。

それは、
「考える」というところに本質が置かれていないという気持ち悪さだ。

考えろと言っていながら、実は最終的な結論は規定されている。
「~~~だから私は悪い子で、叱られたのだ」
に繋がる形でしかその「思考」は認められていない。

これと同じことがある。
考えなければ、見直さなければ。
今回の事件に対してこれらの言葉を用いるのは、
同じ「前提」を置いている。

本当は、考えてはいけない。

見直すのではなく、規定に従うだけ。
そこに理性があるように錯覚させる作為が気持ち悪い。
そこに進化した知能の持ち得る前進的な善意があると思わせる
ある意味でのファッショが気持ち悪い。


私は犯人を擁護するつもりなんて一つもありませんが、

彼は考えたんだと思います、

その深さや方向性はともかくとして。



でもこの先、
この悲劇の観衆となっている私たちは何を考えますか。

おそらく何も考えなんかない、
ただ犯人の異常性を取り沙汰し、
社会のせいにしたり、
最近の若者のせいにしたり
ストレスのせいにしたり
もともと危険思想の持ち主だったといってみたり
場当たり的な対応策を打ち出したり
考えることなんてその程度のこと。

もしこのエントリを何かの不幸な事故で読んでしまった人がいて
5年後にこのエントリのことを覚えているか。
きっと覚えていない。
それはこの事件のことも大して考えていないからだ。
このエントリを読んでいなかったとしても
事件については多分みんなそうです、安心してください。


彼がどうして犯行に至ったのか
その過程にあるもろもろの要因を詳らかにし
それ一つ一つについて考えることは、しない。

彼の中では整合性を持った一つの考えについて
「まちがっている」の前提を持った上でしか考えない。

それは
マスコミの性質でもあるし
私たち「観衆」の性質でもあるし
道徳というものの持つ側面でもある。

彼を異常者(あるいは二次的な被害者と認めたとしても)と非難し
事件を人道的な悲劇とし
妄信的に再発を防止するそれには
「考えてはいけない」。


以下は私も目をつむるべきだし
議論の時に持ち出すかどうかは非常にナーバスだと思いますが
・この不景気の時代に、生産性のない人に多くの税金が支払われていること
・格差社会の低賃金労働者のはけ口になりかねない
・施設の職員にかかる(かもしれない)賃金ではカバーできない精神的ダメージについて
・人間という生物の継続可能性に寄与するか否か
など
道徳に目を閉ざせば(むりに出すなら)「考えるべき」問題は枚挙に暇がない。


ただ犯人を盲目的に非難するなら
これを「考えない」選択しか、おそらくないだろうし

こういう時に特によく叫ばれている
「考えなければならない」
という言葉には
そういうところを考えろという意味は含まれていない。
むしろ

宗教かもしれないし道徳かもしれないし科学かもしれないし正義かもしれない
そうした何らかの価値観やイデオロギに従い、
「考えるな、やめろ」
「考えるな、愛せ」
「考えるな、罰せよ」
「考えるな、行動せよ」
だけが効果を持つ。


今回の事件ばかりではない
所謂「異常犯罪」について、
観衆というのは
いつも「絶対に考えない」できた。

犯人に対して、
異常だから理解できるはずがないという前提をしき
その上で、犯人を非難するための論をただひたすら並べるだけ。


犯人が持っていたかもしれない筋の通った一つの「考えた結果」については
考えない。



だから今回も、同じように、気持ち悪さを感じている。

私も異常者だろう。

【反社会思想】女性の権利って叫び

私だって実際には女性が不当に扱われていることを是とするつもりはないんで
それだけは前提としておいてからの下記ってことになります。

アフリカの児童婚の話。
あるいは女性の権利の話に拡大してもいいのかもしれないし
名誉殺人に絡めてもいいかもしれない。
そんな広告、最近よく見るし、
著名な人声の大きな人もよく口にしていて拍手をもって迎えられています。

とかく「女性の権利」というものが声高に叫ばれていて
私自身もそらそうだなあひどい扱いをするのはいけないな、
とは思う。

でも、なんか、あの啓蒙キャンペーンが気持ち悪いんですよ。
もちろん悪いものを悪いというのは悪いことではないんでしょうけど

あいつら間違ってるからとっかこんで非難しまくれ
あの悪習は外的な力で矯正してあげないといけない
正しくあるように我々が救いの手を

なんか気持ちが悪い。

正しいことゆってるんだけど、
その正義の上から目線に独善と狂信を感じる。

あれ、
こう、クラスにいたりいなかったりする
「先生に媚を売るのとスレスレのセンで正論翳してるウザいやつ」
みたいなの。

クラス内の人間関係とかその状況とか、
そういうの関係ないんだよね、そういう生徒にとって。

正しくあるべき形に収めるのに他のすべては無視されても構わず
それを実行するのに教師という絶対権力者
(クラス内社会の暗黙ルールではそれが入ってくるのは快く思わない)
を平然と引っ張り出して
「機械の神様は私の味方です」と決着をつける。

ここで言う「権力」の源泉を
「知恵のある絶対者」ではなく「正義の多数」というものに置き換えた姿
これが、
「国際的な声の高まり」を背景にした
「異国文かもよくわからないまま」
「表層の悪事だけを糾弾する」
空気を作ってるように見える。

言ってる事はあってるけど、
声の上げ方が気持ち悪い。
やり方が気持ち悪い。
空気形成というやり方が私が嫌いだからか。

正しければ美しければそれでいいという気構えが
どうしても私にはのどの奥に引っかかった魚の骨みたいで。

こんなことを言うときっといろんな人が
私のことを非人道的なやつというのだろうけど

どっかの国が日本に入ってきて
「これからはカリフォルニアロールが寿司です。
今までの寿司は世界的に受けないから全部禁止。
納豆は全部粘りを取ってから販売するように。」
とか言われて、そこに納得できるかということ。
世界基準に合わせるべきでそれ以外は間違い
という点で言えば、同じこと。

寿司に人権はないが
女性には人権がある
といわれそうだが、
その人権とは何なのか。
私は女のこのことが好きだけど、
それを好くのは本当はいけないことかもしれない。
寿司に自意識があったら同じことになるのかしら。

私だって男女平等であるべきとは思うけど
自分の考え方とは違うルールを持った世界を頭から否定するほど
私は自分の世界が正しいと信じる自信はないなって思う。

おそらく「現時点」ではきっと何も判断はできないのだろう。
歴史にIFはないという使い古された言葉を逆算すれば
今何が正しいのかなんて今はわからない。
もしかしたら超未来に
「男女平等を唱えた国が原因で核戦争が勃発しました」
なんて可能性は否定できないのだろう、
これを「そんなわけあるかw」と一笑に付すのは
おそらく自分の考えが他人と一致していて
しかも知れが正しいという自信がある人だけだろう。
もっというと「一緒に間違ってたんだから俺は悪くない」
という保険もあるかもしれない。

私は自分の信じる正しさを自分の中で貫くことに躊躇いはないけど
他の人に押し付けるのを平気でいられるほど自信を持っていない。
その自信を補強するのに「大多数の声」というものに権利を委譲するほど
考えるのをやめたいとも思えない。
所詮はこんあ中途半端な人間の考えだということは承知おき願いたいのだけど

えっと、話がずれたかな、つながってるけど。

つまり、
ああいう外堀を埋めて表層だけ直そうって言うやり方に疑問があるのがひとつと
その「正義の名の下」にっていう十字軍的な思想が気持ち悪いってのがひとつ。


そういった強制的な矯正が、反発を招いてるんじゃないのかなあ。
それを、経済的に強い国が、正義面でやるから、反発を生むんじゃないのかな。
そのやり方では、闘争の種を蒔いているだけなんじゃないのかな。



今度はちょっと話がずれるけど。

イスラム教国家(≠ISIS)かな。
既婚女性は体をすっかりと覆い隠す衣服を着ろというの。
で、それに対して女の子のおしゃれをする自由に抵触している、というの。

それが宗教由来なのか気候由来なのかとか
そういうのはこの際はおいておくのだけど

私が仮に結婚して、
もしそういう風(妻が家の外では外見を晒さない)にしておく
すがっても構わない理由があるのなら
そういう風にしてしまいたいと、思うかもしれない。
理解を示すかもしれない。

だって
自分の惚れた女の子が、その魅力が、他の男を誑かして、
自分以外の男と関係を持つかもしれないと思うと
すっかりと隠しておきたくなるかもしれないもの。

男なら浮気をしてもいいのか、とかそういう発想ではなく
男の独占欲なら満たしてもいいのか、とかそういう発想ではなく。

よくみんな
「今自分の隣にいてくれる女の子がいつまでも自分の隣にいてくれる」
という自信を持っているなと、私などは感心してしまう。

そういうのを考慮に含めた上で服装の権利をともに叫んでいるのなら
尊敬すべき人格者だなと、私は思う。きっとみんなそうなのだろう。

私には、
「あの服装は女性の魅力を夫以外の前に出さないものである」
という角度に限って言うにあたって
「それはすっかり間違ったものだ、あれを着ろという人間は反社会的クソ」
と言い上げてしまう
その思想に同意できるほどの自信がない。




私は、正義の名の下に大多数に手を挙げている人って
みんな自信に満ち溢れてるんだな、と本当に感心してしまう。

大多数と一緒にいるから自信がある、なんて、思考の放棄ではないのだと信じたい。

私の考えは1から10まで全部間違っていて、
私は危険思想の持ち主なのだと、思いたい。

【世迷言】例の映画のやつ

ここから書くことはあくまで私の感覚です。
法学の何たるかとかは知りません。


あれですね、「The Interview」

もうノドモト過ぎてほとぼりも冷めたと思うので書こうかなと。

なんか、結局映画は公開されてめでたしめでたし、って感じに締まったみたいですけど。
個人的には気持ちの悪さが残っています。

これはそもそも「The Interview」の話に限った話ではないのだけど

脅迫によって何らかの発表を停止させようとする行為がありました
それに屈せず発表を行いました、と
そういう話ですよね。


もちろんこの場合に「発表」を完遂する権利は
確かに「言論の自由の権利」によって担保されると思うのですが
発表することは「言論の自由の権利」によって保障される、
という「盲信」に
なんだかキモチ悪さがあります。

というのも
私の感覚では
権利の担保の、その前段階として
その目的が脅迫という犯罪的な行為によって達成されることが
阻止されるのが妥当
と思うのです。

脅迫という犯罪行為は、
【言論の自由という権利の存在に関わらず】
拒否されることであるはずですよね。

だから
映画の発表を停止させようとする主張が
正当な論拠を持っておりそれを差し止める理由が無い場合に至って
そこで「言論の自由の権利」は映画の発表を下支えする根拠として機能するべき
だと思うのですよね。
※あくまでも私の感覚です。
 こういったことに対して、
 私は「権利に対する謙虚」というイメージを持っています。

したがって、
今回の「The Interview」の件について
映画の公開を決行したことに対して
「言論の自由を担保した勇敢」という印象をもてていません。
「犯罪行為に屈しなかった」という印象だけです。
(似て非なるものだと思っています)

私は
「犯罪行為に屈しないことに対して、
 権利を振りかざす必要はない気がするけれど…
 それとも脅迫に正当性があると思ったのかなあ」
と感じちゃいました。



それともうひとつ、権利に対する謙虚、という感覚で言いたいことがあります。

権利とは
責任の下に保障され、それは公序良俗に反しない範囲
というのが基本だと思います。

「The Interview」
まず前述の通り、
映画を公開することに対して
無理やりに?言論の自由を持ち出してきています。

ですが、どうでしょうか。
この映画、
「公開現在において生きている人間を悪役にして殺す」
という内容です。
もちろん風刺映画が多く発表されるアメリカでは日本人の感覚と違うことも
そもそも私のものの考え方がおかしいのも前提になっていますが
これが既に死んでいる人とか
ぎりぎり本人じゃないと言えるようなつくりになってるとか
そういうのならまだしも名指しで扱ってしまうのだから
こういう内容の映画を発表することに対して権利を振りかざすことに
「少しは引け目が無いものなのだろうか…」って
私は、目を覆いたくなるところがあります。
(もちろん発表自体はしちゃってもいいと思うのだけど、
なんかその大義名分の担ぎ方が気持ち悪い。)

しかもそれが
「さすが人権意識高い」「勇敢な行為」「賞賛されるべき行為」「人権万歳」「めでたしめでたし」
みたいな締めくくりになっていることに
なんだか私にはキモチ悪さがありました。


ここに来て改めて繰り返しますが、
脅迫という犯罪的な行為によってこれを差し止めることを目的とする場合
その内容いかんから独立して、
脅迫によって目的が達成されることは阻止されるべきではあります。
ですが、それだからこそ、
こうして倫理を忘れたように権利を振りかざすことも、
それをさし止めようとする圧力いかんから独立して
やはり謙虚にあるべきなんじゃないかと思うのですよね。


「権利を叫べば全てが正義になるという神話」
からの~
「みんなが言うからそれが正しいファッショ」
コンボ
みたいな怖さ。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い悪い」みたいなゴリ押し感。



まあ
メディアを色々見ていて
こんな感じの意見は一切出てこなかったので
私の考えは反社会的なものなのだろうとは思いますが。





という取り留めの無い話でした。

反論もあろうと思いますが、
それら全てに対して先んじて
「あなたが正しいと思います私の考えは変です」
と返答しておきます。