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【反社会思想】女性の権利って叫び

私だって実際には女性が不当に扱われていることを是とするつもりはないんで
それだけは前提としておいてからの下記ってことになります。

アフリカの児童婚の話。
あるいは女性の権利の話に拡大してもいいのかもしれないし
名誉殺人に絡めてもいいかもしれない。
そんな広告、最近よく見るし、
著名な人声の大きな人もよく口にしていて拍手をもって迎えられています。

とかく「女性の権利」というものが声高に叫ばれていて
私自身もそらそうだなあひどい扱いをするのはいけないな、
とは思う。

でも、なんか、あの啓蒙キャンペーンが気持ち悪いんですよ。
もちろん悪いものを悪いというのは悪いことではないんでしょうけど

あいつら間違ってるからとっかこんで非難しまくれ
あの悪習は外的な力で矯正してあげないといけない
正しくあるように我々が救いの手を

なんか気持ちが悪い。

正しいことゆってるんだけど、
その正義の上から目線に独善と狂信を感じる。

あれ、
こう、クラスにいたりいなかったりする
「先生に媚を売るのとスレスレのセンで正論翳してるウザいやつ」
みたいなの。

クラス内の人間関係とかその状況とか、
そういうの関係ないんだよね、そういう生徒にとって。

正しくあるべき形に収めるのに他のすべては無視されても構わず
それを実行するのに教師という絶対権力者
(クラス内社会の暗黙ルールではそれが入ってくるのは快く思わない)
を平然と引っ張り出して
「機械の神様は私の味方です」と決着をつける。

ここで言う「権力」の源泉を
「知恵のある絶対者」ではなく「正義の多数」というものに置き換えた姿
これが、
「国際的な声の高まり」を背景にした
「異国文かもよくわからないまま」
「表層の悪事だけを糾弾する」
空気を作ってるように見える。

言ってる事はあってるけど、
声の上げ方が気持ち悪い。
やり方が気持ち悪い。
空気形成というやり方が私が嫌いだからか。

正しければ美しければそれでいいという気構えが
どうしても私にはのどの奥に引っかかった魚の骨みたいで。

こんなことを言うときっといろんな人が
私のことを非人道的なやつというのだろうけど

どっかの国が日本に入ってきて
「これからはカリフォルニアロールが寿司です。
今までの寿司は世界的に受けないから全部禁止。
納豆は全部粘りを取ってから販売するように。」
とか言われて、そこに納得できるかということ。
世界基準に合わせるべきでそれ以外は間違い
という点で言えば、同じこと。

寿司に人権はないが
女性には人権がある
といわれそうだが、
その人権とは何なのか。
私は女のこのことが好きだけど、
それを好くのは本当はいけないことかもしれない。
寿司に自意識があったら同じことになるのかしら。

私だって男女平等であるべきとは思うけど
自分の考え方とは違うルールを持った世界を頭から否定するほど
私は自分の世界が正しいと信じる自信はないなって思う。

おそらく「現時点」ではきっと何も判断はできないのだろう。
歴史にIFはないという使い古された言葉を逆算すれば
今何が正しいのかなんて今はわからない。
もしかしたら超未来に
「男女平等を唱えた国が原因で核戦争が勃発しました」
なんて可能性は否定できないのだろう、
これを「そんなわけあるかw」と一笑に付すのは
おそらく自分の考えが他人と一致していて
しかも知れが正しいという自信がある人だけだろう。
もっというと「一緒に間違ってたんだから俺は悪くない」
という保険もあるかもしれない。

私は自分の信じる正しさを自分の中で貫くことに躊躇いはないけど
他の人に押し付けるのを平気でいられるほど自信を持っていない。
その自信を補強するのに「大多数の声」というものに権利を委譲するほど
考えるのをやめたいとも思えない。
所詮はこんあ中途半端な人間の考えだということは承知おき願いたいのだけど

えっと、話がずれたかな、つながってるけど。

つまり、
ああいう外堀を埋めて表層だけ直そうって言うやり方に疑問があるのがひとつと
その「正義の名の下」にっていう十字軍的な思想が気持ち悪いってのがひとつ。


そういった強制的な矯正が、反発を招いてるんじゃないのかなあ。
それを、経済的に強い国が、正義面でやるから、反発を生むんじゃないのかな。
そのやり方では、闘争の種を蒔いているだけなんじゃないのかな。



今度はちょっと話がずれるけど。

イスラム教国家(≠ISIS)かな。
既婚女性は体をすっかりと覆い隠す衣服を着ろというの。
で、それに対して女の子のおしゃれをする自由に抵触している、というの。

それが宗教由来なのか気候由来なのかとか
そういうのはこの際はおいておくのだけど

私が仮に結婚して、
もしそういう風(妻が家の外では外見を晒さない)にしておく
すがっても構わない理由があるのなら
そういう風にしてしまいたいと、思うかもしれない。
理解を示すかもしれない。

だって
自分の惚れた女の子が、その魅力が、他の男を誑かして、
自分以外の男と関係を持つかもしれないと思うと
すっかりと隠しておきたくなるかもしれないもの。

男なら浮気をしてもいいのか、とかそういう発想ではなく
男の独占欲なら満たしてもいいのか、とかそういう発想ではなく。

よくみんな
「今自分の隣にいてくれる女の子がいつまでも自分の隣にいてくれる」
という自信を持っているなと、私などは感心してしまう。

そういうのを考慮に含めた上で服装の権利をともに叫んでいるのなら
尊敬すべき人格者だなと、私は思う。きっとみんなそうなのだろう。

私には、
「あの服装は女性の魅力を夫以外の前に出さないものである」
という角度に限って言うにあたって
「それはすっかり間違ったものだ、あれを着ろという人間は反社会的クソ」
と言い上げてしまう
その思想に同意できるほどの自信がない。




私は、正義の名の下に大多数に手を挙げている人って
みんな自信に満ち溢れてるんだな、と本当に感心してしまう。

大多数と一緒にいるから自信がある、なんて、思考の放棄ではないのだと信じたい。

私の考えは1から10まで全部間違っていて、
私は危険思想の持ち主なのだと、思いたい。

【世迷言】例の映画のやつ

ここから書くことはあくまで私の感覚です。
法学の何たるかとかは知りません。


あれですね、「The Interview」

もうノドモト過ぎてほとぼりも冷めたと思うので書こうかなと。

なんか、結局映画は公開されてめでたしめでたし、って感じに締まったみたいですけど。
個人的には気持ちの悪さが残っています。

これはそもそも「The Interview」の話に限った話ではないのだけど

脅迫によって何らかの発表を停止させようとする行為がありました
それに屈せず発表を行いました、と
そういう話ですよね。


もちろんこの場合に「発表」を完遂する権利は
確かに「言論の自由の権利」によって担保されると思うのですが
発表することは「言論の自由の権利」によって保障される、
という「盲信」に
なんだかキモチ悪さがあります。

というのも
私の感覚では
権利の担保の、その前段階として
その目的が脅迫という犯罪的な行為によって達成されることが
阻止されるのが妥当
と思うのです。

脅迫という犯罪行為は、
【言論の自由という権利の存在に関わらず】
拒否されることであるはずですよね。

だから
映画の発表を停止させようとする主張が
正当な論拠を持っておりそれを差し止める理由が無い場合に至って
そこで「言論の自由の権利」は映画の発表を下支えする根拠として機能するべき
だと思うのですよね。
※あくまでも私の感覚です。
 こういったことに対して、
 私は「権利に対する謙虚」というイメージを持っています。

したがって、
今回の「The Interview」の件について
映画の公開を決行したことに対して
「言論の自由を担保した勇敢」という印象をもてていません。
「犯罪行為に屈しなかった」という印象だけです。
(似て非なるものだと思っています)

私は
「犯罪行為に屈しないことに対して、
 権利を振りかざす必要はない気がするけれど…
 それとも脅迫に正当性があると思ったのかなあ」
と感じちゃいました。



それともうひとつ、権利に対する謙虚、という感覚で言いたいことがあります。

権利とは
責任の下に保障され、それは公序良俗に反しない範囲
というのが基本だと思います。

「The Interview」
まず前述の通り、
映画を公開することに対して
無理やりに?言論の自由を持ち出してきています。

ですが、どうでしょうか。
この映画、
「公開現在において生きている人間を悪役にして殺す」
という内容です。
もちろん風刺映画が多く発表されるアメリカでは日本人の感覚と違うことも
そもそも私のものの考え方がおかしいのも前提になっていますが
これが既に死んでいる人とか
ぎりぎり本人じゃないと言えるようなつくりになってるとか
そういうのならまだしも名指しで扱ってしまうのだから
こういう内容の映画を発表することに対して権利を振りかざすことに
「少しは引け目が無いものなのだろうか…」って
私は、目を覆いたくなるところがあります。
(もちろん発表自体はしちゃってもいいと思うのだけど、
なんかその大義名分の担ぎ方が気持ち悪い。)

しかもそれが
「さすが人権意識高い」「勇敢な行為」「賞賛されるべき行為」「人権万歳」「めでたしめでたし」
みたいな締めくくりになっていることに
なんだか私にはキモチ悪さがありました。


ここに来て改めて繰り返しますが、
脅迫という犯罪的な行為によってこれを差し止めることを目的とする場合
その内容いかんから独立して、
脅迫によって目的が達成されることは阻止されるべきではあります。
ですが、それだからこそ、
こうして倫理を忘れたように権利を振りかざすことも、
それをさし止めようとする圧力いかんから独立して
やはり謙虚にあるべきなんじゃないかと思うのですよね。


「権利を叫べば全てが正義になるという神話」
からの~
「みんなが言うからそれが正しいファッショ」
コンボ
みたいな怖さ。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い悪い」みたいなゴリ押し感。



まあ
メディアを色々見ていて
こんな感じの意見は一切出てこなかったので
私の考えは反社会的なものなのだろうとは思いますが。





という取り留めの無い話でした。

反論もあろうと思いますが、
それら全てに対して先んじて
「あなたが正しいと思います私の考えは変です」
と返答しておきます。

【戯言】アリスに殺される合同で書きたかったけど書ききれなかったこと

そういえばオリンピックが東京で開催されることが決まったようですね。
放射能云々とかできっと無いだろうと思っていたのですが
東京人になって早々に現地でオリンピックが開催されることになるとは
うれしいような気もしますし
自分にはやっぱり関係が無いまま過ぎるんだろうとも思います。


オリンピックと同じように
パラリンピックも開催されますね。

パラリンピックで
チャレンジドの方々が
健常者同様に技を競うのは感動を呼んでやみません。


さて、
友人とゲームでskypeをしながら
オリンピックのことで話が進展したことがあったのと
それが割りと面白い内容へ「飛躍」したので記しておこうかと思います。

あくまで「飛躍」です。
極論を積み重ねた結果にあるかもしれないという
ひとつの見解であることは先に述べておきます。

なんだかの新記録が出たらしいタイミングの話でした。



「オリンピックとかでどんどん記録のびていくけど、
どうなっていくんだろうな。」
「人間が進化してるってことかねえ?」

そこから話がとっぴになります。

「体がその競技に恵まれてるかどうかって、一番の才能だよなー」
「背が高いとか、がたいがいいとか。
もちろん努力で覆る部部もあるんだろうけど。」

まあ会話形式で続けても仕方が無いのでこんなところにしますけど。




才能と病理は区別されない部分が出てくるのではないか。

たとえばイデオ・サヴァン。
特定の分野については凄まじい能力を発揮するのに
他の学習能力については通常、あるいは欠損を見せるわけですが
その「特定の分野」が、
誰もが認める「すばらしい競技」に偶然にもフィットしていた場合
その状態を「病気として治療」しようとするでしょうか。


たとえばバスケットボールのチームが、
他の選手の二倍近い身長を持つ選手で構成されていたらどうなるだろう。
実際には巨人症などで凄まじく背の高いNBA選手なんかは実在している。
それがどのような戦果を挙げたかはよく知らないけど
仮に全員をそういった構成に出来たとしたら
健常者のチームが五部の試合を出来るだろうか。
バスケットボールでなくてもいい。バレーボールでも。



じゃあ敢えてそういう人だけをチームに集めようとするとどうなるのか。
きっと人権団体なんかが抗議するだろう。
才能を病理として捉えているという転換が起こる。
事実は変わらず、認識だけが転換される。

仮にそういった抗議を乗り越えてチーム編成が出来たとして
大きな人たちチームが強いことが証明されれば
背が大きいという病理(才能)をが認められれば
さて、人間がもとある姿とは、病気とは、何なのだろうか。



義足のランナーがいる。
義足の技術進歩はめざましく
いまや義足のランナーは
健常者のランナーに引けを取らないとさえ言われているが
かの義足は「走ることを目的に」作られている。

目的にかなった非肉体を肉体の一部とする
肉体と機械の間におけるその統一を図ったサイバネティクスを肯定するなら
(否定されるべきとは考えないが)
生きたの足を超える義足は容易に作られるだろう。
もちろんそこには本人の人間尊厳への欲求が関係してくるのだろうけど

自分の足で早く走ることを望む人間が
それを跳躍する可能性はそう低くは無いと思う。



もし義足が生足の性能を超えたのであれば
それを装着する才能とはまさに「何らかの理由で生足を失うこと」になる。


気持ちが悪いと、そんな風になるはずがないと感じはするけれど
そうならないだろうか。

機械の体を求めて銀河鉄道に乗った彼の欲求は
万人が汚らわしいと感じる冒涜だろうか。

光を失った人が、
目にカメラと、そこから伸びるコード、電極を脳に埋め込み
電気的に視覚を取り戻したとして
喜ぶ人は0人だろうか。
もしそうすることで、老年による視力低下を防げるとしたら?

今は禁止されているロボトミー。
これは、精神外科という和名を与えられて
精神疾患に対して脳の手術を行うことだったが
悪魔の手術として封印された。

だが、今実際に行われている脳深部刺激療法は
ロボトミーと根本的に何か違うのだろうか。

常識はいつの間にか覆る。

人間に人間の足が付いていることがすばらしいというのが
常にすばらしいことであるか
疑わしくは無いか。

「ああ、腕が生えているよこの子。
これが無かったら素敵な義手がつけられたのにね、
今の法律では義手化のために腕を切断することは認められていないからね。
ああ、腕が無い人は才能だね。
足が無い人は才能だね。」

こうなる可能性は無いだろうか。




パラリンピックの選手が
インタビューに対して
「いつか一緒に競技が出来るようになりたい」
という返答をしていました。

素敵です。
みんな分け隔てなく同じところで肩を並べて
競技を楽しめたなら。


ですが
技術は人間自身の手で進歩させられますが
人間自身の体の進化は
自分の意思では行えません。

お互いに伸びようとして、それは平行線にはならない。
絶対に交差するでしょう。



サイボーグが生身の人間を軽く凌駕するフィクションは山とありますけれど
同じ土俵で勝負するには
・チャレンジドの方が何らかの補佐を得て健常者と同じ土俵に上がる
・健常者が意図的に機能を封じてチャレンジドの方と同じ土俵に上がる
どちらかしかありません。

そして後者を選択するとチャレンジドの方々の劣等感は払拭しきれない。
では前者が選択されます。

現実の流れとしても、
義足の進歩などは前者を選択した流れです。


義足=サイボーグだというつもりは無いですが
前述の通りなんらか軽い拍子で飛び越えられてしまう低い壁に見えます。

そしてサイボーグ化が進むというのは
人間とは何か問われることでもあります。

たとえば
攻殻機動隊では「ゴースト」というものを
最後の綱として用意してありますが

現実世界でそのような最後の一線が提示されるでしょうか。




オリンピックのような
全人類の最高を決めようとする競技とは
究極的には「今の人間の限界を超えようとする」ことに他ならない。

チャレンジドの方々を悪く言うつもりではないし
オリンピックに対して意義を申すつもりも無い。

ただ、今の人間はオリンピックが始めて開催された頃とは違い
自分の肉体を恣意的に改造する力を持っています。

だから、
これからパラリンピックの市民権を認めるにつれて
人間という本質がどこにあるのか
問われることになるのではないでしょうか。

病気と才能の境界
どこまで人間の体を持っていれば人間なのか
魂なんてものがあるのか。



「倫理」とか言うものがそれを阻止できるかにかかっているけれど
どこまでかなうか疑問です。
なんせ「チャレンジドの権利」に加えて
「美しいスポーツ精神」みたいなものまで付いてくるのですから。
たとえばクローン赤ちゃんと違って
チャレンジドの方々は権利を求めて自ら声を上げるのですから。





そこで提示される解決策は
格闘技に用いられる「級」の採用です。
同じ競技でも、クラスを設けて分離する。

でもどう分けましょう。

さて、これって、
健常者とチャレンジドが一緒に競技が出来るようにという原理主義が働いたゆえの
より一層の差別化ではないのだろうか。

おそらく「義足の選手はn人まで」みたいな規定が出来るでしょう。
各相撲部屋に外国人力士の人数制限がかかったのと同じように。




どうしろというつもりもないし
個人的にこれが悪いことだとも思っていません。
これが実現する可能性が高いとも思っていませんし
誰もがこれを臨んでいるとも思っていません。

ただ、
こういう可能性に
わかっていながら目を瞑っている人が多いというのが
不気味だなと思うんですよね。




実はアリスに殺される合同で書いたSSの根底は
こんなところにありました。

人間と人形の教会がどこにあるのか
姿を失うか
命を失うか
魂を失うか
それでも人間なのか
獣なのか
人形なのか
アリスの輸血実験は
「構想段階では」そんなところに根底があったのですが…

結局詰め込めるものではなかったので
それを語ることは諦めましたけど。



とりとめないエントリーでした。

【内省】おとなこども

大人子供


あくまで世迷い言カテゴリのエントリであって、
私が、以下に述べる反駁の矛先とする出来事を見たとき
自身が感じた根拠の軽薄な賛同や賛美に対して
自ら反論をしようというものであることを先に記す。


大人と子供の定義をするときに
まあ子供な大人や大人な子供なんてものがちらほらと顔を出す。

精神的なものと実年齢を対比した結果だと思う。

よくあるのが
理不尽なわがままを言う大人を
子供が敏い発言で諫めるというもの。

ここで導かれる(期待される)結果は
この子供みたいなきれいな心を持った大人であるべき
この子供はきっと素敵な大人になる
と言うものだろう。



もちろんそれはそうなんだろうし
相であることが美談ではあるのだけど
私は十全そうだとは思わない。



思えば私も「いい子」だった時代がある(らしい)。
周囲からは
「正直」「手間がかからない」「公明正大」「素直」
などと評された
――今から考えてみれば眉を顰めるような皮肉にさえ感じる――
時代があった。



例えば先の子供のような例を見て
ああいったことをやったことも正直言えばある。

(今やろうと思わないのはこの件とは直接関係のない理由なのだが)
今はやろうとは思わない。




さて、
ああいった綺麗な子供の心について疑問を抱かざるを得ないのは
偏に自分の実経験からである。

まず、
私はかの子供のようなことをする人間ではあったが
今の精神は酷くねじ曲がり
誰が見たって綺麗な心を持った人間ではない。

ひとつ
安っぽい反駁をするなら
「子供は自分の信念に拘わらず
 “大人”に一矢報いる機会を虎視眈々と狙い、
 狙撃するための武装を欠かさない」
ということだ。
ああいう大人を諫める言葉は
子供の子供じみた歪みから来ている可能性は否めない。

だからああいった例の子供が
綺麗で美しい英雄であるかというと
私は諸手を上げて賛成できない。

英雄足り得ない人を英雄視するほど
私は心が広くない。


また、見逃されがち
(見逃されると言うよりは、敢えて目を瞑っているようにさえ見える)
な要素としては以下を挙げたい。

大きくなってそれなりに社会を目にしてしまえば
道徳観念上正しいものが通らないことや
道徳観念上正しいものを通さないことがいい結果に繋がる経験も
随分とする。

そう言う状況に晒されたとき
幼い頃に道徳的にまっすぐであっても
それがいいこととは限らないし
もっというと
そうであればあるほど
成長したときに歪になる可能性をはらんでいる。

私は社会に出てから
いろんな事が
「あほらしい」
と感じたクチだ。
それは
正義や道徳について、より強い。

そしてついでに言われてもらうと
「あほらしい」
と感じてからの方が
人間らしく生きられてると思う。

自分で考え、感じたものを分析し
自分の可能な範囲で分析結果を反映する度合いを決定し
かつそれを自他の彼我を考慮した上で
影響範囲を考える。
先入観念を疑い、結果それを廃し
あるいは強固に持ち直す。

子供が持った薄っぺらで
根ざしのない正義感なんて
ある部分では害悪足り得る。

そのある部分というのは
それを外側に向けて振り回す際のものだろうと考える。

つまり、
ああいった大人を諫める子供の例が含まれる。

「定型の正義」
をもてはやされそれに軸足をおくようになった子供は
先入観や周囲への迎合をやめないかもしれない。

仮にそれが宗教がらみであれば
神のために人を殺す事を厭わないかもしれない。

本質は同じだろうと思う。



もう一つ付け足すのなら
ああいった例で子供が正義の達一に経つことに対して
CM広告で
子供か動物を使っておけばイメージアップになる
という軽薄な選択と被ってしまうため
個人的に懐疑を向けずにいられないというのもある。




さて
こうした私を見て
「あー、歪んで育ってしまった哀れな人」
と思った人があれば
それはその通りだと思う。
だが一つ言わせてもらうのならば
この負け惜しみを付け足す。

あなたのような人の方が、
誰の制止もない状況に放り出されたとき
奔放で野蛮な、欲望に振り回され
およそ道徳的ではない行為に
及びがちだと言うことを
努々忘れないでいただきたい。
なぜならあなた方は
自らの行動の箍を
自分の内面で管理することを放棄し
他人(外部の規定)に委ねきっているのだから。

【日記】映画とか

昔から映画は割と好きだったんですが
学生時代は比較的時間もお金もなくて
あんまりあれこれと見に行くことはありませんでした。

それに加えて
見たいなあ、と思う映画が
割といつもみんなで見にいけるようなものでもない
(みんなが面白そうと思う感じがしない)
映画ばかりだったことと
学生時代は
一人で行動するほどのアクティビティを
持っていなかったこともあって
映画を見ること自体が稀でした。

東京にきて
たかが趣味であったとはいえ
行き詰まりを感じていた絵をやめて
趣味の主軸を文章に転向してから
ss繋がりで知り合ったある方が

「文章を書くのは好きだけど
他の小説を読むほどパワーはないし
ものぐさだから漫画も継続して読むことがないんで
インプットに乏しいんですよね」

という私に対して

「みこうさんは映画をみるといいよ」

と言われたことで
そういえば自分は映画が好きなんだったと思い出しました。

そうして振り返ってみれば

・変わった題材が多くて好みなど性にあってる
・一人で楽しむのが許容された文化
・受け身で(も)いいので楽
・そもそもメッセージ性が強いので入り込んでも楽しい
・精々2時間で、何週間何ヶ月と継続して見る必要がない
・気が向いた時にスポットでインプットできる

と、そもそも好きだった理由に加えて

・社会人になって妙に一人遊びの行動力が増えたこと
・映画をみるくらいのお金は平気で使えるようになったこと

が手伝って
最近映画ラッシュです。



本題。



映画って面白いなって思うんですよね。
多分映画に限らず、
広義での「役者」を使うもの全部がそうだと思うんですけど。

まあ監督によるのかもしれませんが
「このキャラはこの時どういう表情で、どんな風にこの演技をするか」
ってのが、
役者それぞれに委ねられてるので
それってミクロに見て
キャラ(役者)の分だけ
同じテーマで違う筆者の小説が存在してるのと
同じだと思うんですよ。

しかもそれが完全な意味での合作になるのだから
遊びとはいえssを書いている身としては
こんな面白そうに見えるものはない。

それは
脚本を書く立場を想像するにしろ
それとは別に
何か一つのキャラクタを演じるにせよ。



ssを書いていると

目的のベクトルに向かって欲しくて
キャラに恣意的に演じさせている時と

それとは別に
キャラがあ勝手に動き始める時と
2パターンあって

後者はさらに
勝手だがこちらの意図した動きをするので放置する時と
意図しない動きをするけど方針があってるので放置する時と
意図しない動きをするけど方針があってないので制御する時と
さらに
意図しない動きにこちらが魅せられて
方針があっていないのに放置させられてしまう時とがあって

キャラにはそれぞれ暴れてもらったり
いうことを聞いてもらったりするわけですが、
それでも当然自分で作ってるキャラですから
一番根底の部分では
どこかで想定内だったりするわけです。

でもこれが中の人がいるキャラクター群だった場合、
どうなるだろうかというのは非常に興味があります。

もし脚本を書いている立場だとしたら
もちろん好き勝手にはできないのでしょうけれど、
全然予期しない表現でアプローチしてくる役者がいたりすると
脚本を書き換えたくなるかもしれない。

そりゃあ役者にとっては迷惑な脚本だけど、
話を作る上でこんなに面白いことはないだろうなあ。


逆に役者だった場合には
このキャラならどうするか、
なり切った時にどうRPするか
あるいは
逆にどこまで自分をキャラに落とし込むか、
もちろん監督次第で
「そこはそんな風なキャラじゃない」
とか言われるんでしょうけど
演じるってことは
視点の違うストーリーを一本
自分の中で作り上げる必要があるのだから
これも面白そうに見える。


ストーリーテリングをしようと思えば
誰でも一度は憧れる
ある意味で脚本(あるいは小説)における
「はしか」のような――あるいは中2病と言っても過言じゃない――
ものに
”マルチサイトストーリー”があると思います。

いや、他の人についていうのはおこがましいかなあ。

少なくとも私は
ぱっと見の主人公の視点では真相がわからず
別のキャラから見える事実を組み合わせてやっと見えてくる
みたいなのに憧れて(そして毎回撃沈して)います。

究極的には
脚本も役者も
そういうところがあるんじゃないだろか。
そんでそこが一番面白そうだなあと思います。



その昔、みたいな話をすると
年寄り臭いというか説教くさいというか
うざったいかとも思いますが。

東方夜伽話で書いていて
「台詞しかないssなんて……」
みたいな非難が上がった時期があって。

そういう非難をする人って、
実は自分の中にキャラ像がなかったり
動かして「もらう」ことしか考えてないんだろうか
なんて思いもありました。

(かくいう私も、
文字できっちり書き込んである方が好きではあるのだけど)



「この科白、俺の魔理沙ならこう言うな」
みたいな楽しみ方を放棄するのは持ったいない。

自分の中でキャラを、
あるいは演じる役者を設置する楽しみはあると思うし、
だからたまにはセリフだけで構成されているものがあっても
いいのになあと思っていました。

それは「小説」としては不適合かもしれないけど
「ss」なら範囲にはいるんじゃないだろうか。
「ss」の定義ってあやふやですけど
少なくとも小説と同じ型にはまるもんじゃないと思ってるな。

(「ss」は「side story」とか「short story」とかでなくて
「えすえす」って発音する
特有の文字表現であっていいと思うのです。)


で、映画を見るようになって
それがより強く感じられるようになった。

ああ、この役者さん
(あるいはそれを指示した役者じゃない誰か)
は、ここでこういう風に演じるか。
私ならこうさせるなあ、
みたいな見方をすること多いし
それを踏まえた上で
目の前にある演技を受け入れて
「ふんふん、なるほど」
って見るのも楽しい。

例えば今回見てきた
「シャニダールの花」って映画で主役をやってる
綾野剛についていえば
何か予想外のことに言葉を失う演技の時の
首を小さく左右に振って
目をキョロキョロさせながらうつむくあの仕草は
「八重の桜」の松平容保でもやっていて
「ああ綾野節だなあ」って思う。
キャラというより役者先行を感じてそれも面白い。

※映画の感想はまた別のエントリを起こしたいなと思ってます。

それって
アニメの世界では声優も同じで(というかそれ以上に強くて)
このキャラだからこの声
というより
この声優だからこの声
ってのが受け入れられてるし
受け手もそれを望んでるとこありますよね。

もちろん世には
「ミスキャスト」って言葉もあるので
それはあれなんですけど
個人的にはそういうのもひとつ
面白いポイントになり得ると思う。

この人ならどう演じる?
みたいな見方は絶対楽しい。

脚本型、ってのは
そのまず最初に提示される一発目をさえ空白にした
間欠性の表現形式の一つ
と捉えることは出来るはずだし、
そうすることで
書き込む方法にはない魅力が出るとおもう。


映画楽しい。
映画勧めてくれた某作家さんに感謝。

これはいいレジャーになるし
同時にいいインプットになる。



あと映像作品って
無言で映像だけが回ってるシーン
けっこうあるじゃあないですか。

あれ見ながら
「ここって文字ならどう書けばいいかなあ」
って思いながら
その場で脳内で文字を起こしてることもあります。

これも結構楽しい。



絵でいう
三十秒ドローイングみたいな感じになるのかな。
そう考えても
絵の30秒ドローイングを楽しめ気はしない。

なぜなら映像を見ながら文字絵のエンコードを
即席でおこなうことをしながら
同時に
「これをやったからって文章力は上がるまいな」
と実感したから。

この映像の即席文字エンコードも
もし仮にテキストに残すなどとなれば
即座にやりたくなくなると思う。

やっぱり
「高速化」は「具現化」の向こうにあるもので
「具現化」できない段階で「高速化」を望むのは
順番が違うと思う。

私にはあれは
「(計算ができないのに)フラッシュ暗算を練習している」
ように見える。
もちろん計算ができれば、効果があるだろうけど。

30秒ドローイングに対する懐疑は
映像と向き合って強くなった気がします。
同じように、時限即興小説も懐疑を持って見ています。



水道に例えると
パイプをいくら太くしても
水圧が伴わないと意味がない。

パイプの太さは出力速度のキャパで
水圧はイメージの描画能力、
水量がイメージそのもの。





なんか取り止めのないエントリになっちゃいましたけど。
映画面白いってことで。